どうも、こんにちは。
7月いっぱい続けられてきた、京都夏の風物詩・祇園祭。
そのフェナーレともいうべき、疫神社(蘇民将来社)の「夏越祭」。
今回は13年ぶりにこの疫神社夏越祭に参加してきました。
まずはいつもの通り交通アクセスから。
最寄りの交通機関には京都市営バス「祇園」停留所がありますが、少し歩いてもいいのなら、京都市営地下鉄「東山」駅や京阪電車「祇園四条」駅からも行けます。
京都市のメインストリートとも言うべき、四条通りを東へと進んだ端であり、付近は有名な観光地が幾つもありますので、交通の便は悪くはないです。
有名な八坂神社の西門から入ります。
疫神社の前には特設会場が設けられ、既に多くの来賓や関係者の方々が集まっています。
これでは肝心の疫神社(蘇民将来社)がよく見えません。
ちなみに普段の疫神社(蘇民将来社)の様子は次の通りです。
13年前にこの祭事を見た時の過去記事のおさらいになりますが。
ここで、そもそもこの疫神社とは何か、を説明します。
昔、八坂神社の主祭神・牛頭天王が諸国を巡っていた時、巨旦将来(こたんしょうらい)という人物に宿を請いました。しかし巨旦将来は、金持ちであったにもかかわらず、宿を貸すのを拒みました。
その兄弟であった蘇民将来(そみんしょうらい)は、貧しかったのですが、粟穀で座を敷き、粟の粥で手厚くもてなしました。
牛頭天皇は庶民将来に自分の正体を明かし、「茅の輪をつけて、“蘇民将来の子孫なり”といえば、災厄から逃れるであろう」と言い残しました。
その後、巨旦将来の子孫は皆、疫病により絶えてしまいましたが、蘇民将来の子孫は後の世まで栄えました。
この伝説を元に、蘇民将来を疫神として祀ったのが疫神社こと蘇民将来社です。
そしてこの伝説からもおわかりのように、八坂神社の主祭神である(スサノオ神の習合された)午頭天皇は、疫病などの災厄を司る神様なのです。
13年前にこの祭事を訪れた時(※シリーズ第50回記事)は、外側から見ていただけですが、今回は自分も参加することにしました。
しかし祇園祭のフィナーレというべき祭事である為か、一般参加者の一人でしかない私は、朝から長蛇の列に並ばなければなりませんでした。
神事の様子を撮影しようとしていますが、残念ながら私の位置からは、人混みや境内の木々に阻まれて、神事の様子は見えませんでした。
祝詞などを唱える声は何とか聞こえたのですが・・・。
神事の後さらに来賓や関係者の方々の参拝が済んでから、朝10時の開始から30分以上もそのまま待たされて、ようやく少しずつですが、前に進むことが出来ました。
鳥居には大きな茅の輪(ちのわ)が飾られ、午頭天皇と蘇民将来の伝承に基づき、「蘇民将来之子孫也」と書かれた札が掲げられています。
しかしこの「自分は蘇民将来の子孫である」と名乗るのは、何というか・・・今で言えばオレオレ詐欺みたいなものかもしれんなあ、という気もしないでもないですが(苦笑)。
蘇民将来社に参拝した後は、続く参道脇に並べられた茅(かや)を取ります。
各自、これで茅の輪を作って持ち帰り、厄除けや無病息災等を祈願します。
で、自分も作ってみたのですが・・・。
他の参加者・参拝者の皆さんは上手く茅の輪を作られたのに渡して私は、元々不器用だったこともあって、こんな下手くそな茅の輪しか作れませんでしたが(苦笑)。
しかしそれでも、ご利益があるものと信じて持ち帰ることにします。
そして本殿。
疫神たちの大ボスである主祭神・午頭天皇にも参拝します。
祇園祭とは何かと言えば・・・意地の悪い言い方をしますと、大ボス・午頭天皇をはじめとする疫神たちのご機嫌をとって、疫病などの災厄が降りかからないようにするという祭事なんですね。
祇園祭に参加した私も、疫神たちのご機嫌をとって、さらに「私は蘇民将来の子孫です」というハッタリによって、コロナなどの病気から身を守る・・・こう言うと、何ともセコいことをしているなあ、という気もしてきますが(苦笑)。
でもこれも、疫病などが疫神や怨霊などによるものと信じられていた時代に、先人たちの考え出した知恵だったのでしょうね。
疫病や疫神などを正義と力で排除したり、滅したりするよりも、こういう方法を選んだ先人たちの、セコさやシタタカさと共に、自分たちを脅かす自然と共存していこうとした柔軟さなども見えるようです。
夏越祭が終わった後の疫神社。
大きな茅の輪も、「蘇民将来之子孫也」の札も無く、7月いっぱい続けられてきた祇園祭の終わりと共に、京都の街が日常へと還っていきます。
今回はここまで。
また次回。
*祇園祭のHP(八坂神社のHPより)
https://www.yasaka-jinja.or.jp/event/gion/
*八坂神社のHP
https://www.yasaka-jinja.or.jp/
*『京都妖怪探訪』シリーズ