■こならの森100号■1996.7発行
表紙 「彼岸花」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森8月号■
おぞねとしこのポエム…なでしこ……3p
その他の情報…/猫バス24……4p
結婚…赤坂さん夫妻…96/7/21
特集/100号………6-17
JC・JOURNAL…OCR……18-19p
インフォメーション95………20-23p
知らんの5つの市/…………24
書評・絵本紹介………………25
海棠市子の映画評……………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………30p
【本文抜粋記事】
こならの森発刊前夜
今から10年くらい前、会社を辞め、しばらくの間、フリーライター(と言えばカッコイイがただのフリーター)をしていた。その時点では、脱サラだとか、自営業を営むつもりなどなかった。ただの空白期間(充電期間)だと思っていたのだが、あまりに長かったためか再就職をするタイミングを失ってしまっていた。そんなことをしながらも同時に就職活動もしており、面接にも行った。
なんとなくもやもやとした時がいたずらに過ぎた。年が明けて本格的な冬が訪れた。ある2月の夜だったと思う。今までの気持ちをふっ切るように、『そうだタウン誌作ろう』と思いはじめた。それまでに、ミニコミ紙を作っていたこともある。その夜は眠れなかった。しかし、そうは思っても、人間の決断なんていいかげんなもの、(特に私は)次の日の朝になれば、そんなことやっぱり無理だよ、諦めよう。そう思うだろう事は、興奮して夢見心ながらも片隅に思っていた。明日になればノノノ。 だが明けてみると、今回はいつもと違っていた。ほとんど眠っていなかったからだろうか、もうろうとした意識の中で、どうしても『タウン誌作ろう』そう決心していた。
後はたいした障害もなく一気に創刊まで突き進んで行ったように思う。猪突猛進型の性格のためか、殆ど後先のことは考えなかった。もちろん冷静に物事を考える性格だったならば、今の自分はなかっただろう。
それでも、やはり出すからには3号くらいは続けたい、とその分だけの資金は用意したつもりだった。創刊号は夢のようだった、あの日からずっと夢を見ているような気もする。そして今も(悪夢をノ)。そのままの勢いで2号を発刊し、3号の発刊を準備する段階になって資金が底をついてしまっていた。3号を発行するのはいいが、印刷代が払えるのか、分からない状態だ。その頃から先の見通しが甘かった。
しかし、現実は自分の知らないうちに意外な方向へ転換して行く。佐野でタウン誌を創刊したということで、各マスコミがこぞって報道してくれた。それが幸いして、協賛店が増え3号も無事発行することができたのだった。
その後も、辛うじてだが『維持』することだけはできた。
そんなこんなの8年間。
この文章を書こうと電子原稿用紙の画面に向かうのだが、一行に進まない。そればかりか、あんなことこんなことが交錯してとても文章にならない。
本当にお世話になった方々、多大な助言を与えてくださった諸先輩、家族や友人たちの支援など色々なことが浮かんでは消えて行く。
表紙 「彼岸花」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森8月号■
おぞねとしこのポエム…なでしこ……3p
その他の情報…/猫バス24……4p
結婚…赤坂さん夫妻…96/7/21
特集/100号………6-17
JC・JOURNAL…OCR……18-19p
インフォメーション95………20-23p
知らんの5つの市/…………24
書評・絵本紹介………………25
海棠市子の映画評……………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………30p
【本文抜粋記事】
こならの森発刊前夜
今から10年くらい前、会社を辞め、しばらくの間、フリーライター(と言えばカッコイイがただのフリーター)をしていた。その時点では、脱サラだとか、自営業を営むつもりなどなかった。ただの空白期間(充電期間)だと思っていたのだが、あまりに長かったためか再就職をするタイミングを失ってしまっていた。そんなことをしながらも同時に就職活動もしており、面接にも行った。
なんとなくもやもやとした時がいたずらに過ぎた。年が明けて本格的な冬が訪れた。ある2月の夜だったと思う。今までの気持ちをふっ切るように、『そうだタウン誌作ろう』と思いはじめた。それまでに、ミニコミ紙を作っていたこともある。その夜は眠れなかった。しかし、そうは思っても、人間の決断なんていいかげんなもの、(特に私は)次の日の朝になれば、そんなことやっぱり無理だよ、諦めよう。そう思うだろう事は、興奮して夢見心ながらも片隅に思っていた。明日になればノノノ。 だが明けてみると、今回はいつもと違っていた。ほとんど眠っていなかったからだろうか、もうろうとした意識の中で、どうしても『タウン誌作ろう』そう決心していた。
後はたいした障害もなく一気に創刊まで突き進んで行ったように思う。猪突猛進型の性格のためか、殆ど後先のことは考えなかった。もちろん冷静に物事を考える性格だったならば、今の自分はなかっただろう。
それでも、やはり出すからには3号くらいは続けたい、とその分だけの資金は用意したつもりだった。創刊号は夢のようだった、あの日からずっと夢を見ているような気もする。そして今も(悪夢をノ)。そのままの勢いで2号を発刊し、3号の発刊を準備する段階になって資金が底をついてしまっていた。3号を発行するのはいいが、印刷代が払えるのか、分からない状態だ。その頃から先の見通しが甘かった。
しかし、現実は自分の知らないうちに意外な方向へ転換して行く。佐野でタウン誌を創刊したということで、各マスコミがこぞって報道してくれた。それが幸いして、協賛店が増え3号も無事発行することができたのだった。
その後も、辛うじてだが『維持』することだけはできた。
そんなこんなの8年間。
この文章を書こうと電子原稿用紙の画面に向かうのだが、一行に進まない。そればかりか、あんなことこんなことが交錯してとても文章にならない。
本当にお世話になった方々、多大な助言を与えてくださった諸先輩、家族や友人たちの支援など色々なことが浮かんでは消えて行く。