■こならの森93号■1995.12発行
表紙 「田中重光さん」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森1月号■
おぞねとしこのポエム…いぬ………3p
その他の情報…/猫バス17……4p
知らんの5つの市/旬=…5p
現代国語………6
お店………7p
創作童話 3回………8p
結婚…大山進さん&節子さん…96/11/19
1996年を占う………10-11p
12-19………歴史家が語る
JC・JOURNAL………20-21p
インフォメーション95………22-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
■■■■■■■■■■■
【本文抜粋記事】
両毛五市の歴史家が語る夢構想
佐野市 安蘇史談会 会長
京谷博次
京谷 郷土史家が語る夢構想ですが、非常に大きな課題で、それに十分に答えられるかどうか不安です。
佐野というところは、言語学的には西関東方言です。三毳山という山がありますが、それを境にして西関東方言、端的に言えば、このあたりも群馬県に入るかなと感じております。
この地域の特色を通史的に言えば、古代から現代に至るまで交通の要衝の地だった。古代におきましては、東山道というのが通っておりました。古い時代は一直線で、しかも道幅は広いという、そういうような特色があります。
近い将来、21世紀の始めになると思いますが、北関東横断道が完成の暁には佐野にもインターチェンジが設置されます。そういうことでこの地域の重要性というのは、増大すると思います。
それから、17世紀後半には、秋山川下流に越名河岸というのが開かれまして、今で言う東京都の産業とか文化の交流、そういったものに大きく寄与しました。当時、佐野乾山という人が佐野に来たということが記録もあります。
また、何と言いましても佐野の文化を代表するのは天明鋳物だと思います。鎌倉時代より残るその鋳造製品は農具とか日用雑器のほかに美術工芸品も造られ、国の重用文化財に指定されておるものも数多くあります。
それから、日本史の中でこの地域の住民が顔を出して来ますのは782年です。その頃編纂された万葉集の東歌と言う中に、下野、栃木県の歌が二首あります。その二つの歌が、この地域を詠んでいると言われています。その他にも、5つか6つも佐野に指定してもいいという歌もあります。そういうことで、この地域は古くから都人を引き付ける、風景、景観があったと思います。
いよいよ明治を迎え近代化の進む中で、1880年、明治13年には栃木県下最初の私立銀行である佐野合本銀行が創立します。またJR両毛線の前身である、両毛鉄道の開通は明治21年です。この年に春日岡町に洋式を取り入れた公園が完成します。今の城山公園ですね。『西洋風』というところに、時代の先取りをしたという気風が伺えると思っております。
それか、政治の面なんですが、自治の確立を目指す自由民権運動の高まりの中に、あるいは公害問題の先駆者の中に、田中正造を見ることができます。そして、田中正造を支援する大勢の人々の姿もあります。
明治から昭和にかけては近代歴史画家の先駆者と言われる小堀鞆音、現代では陶芸家で人間国宝の田村耕一先生も佐野の人ですね。このように見て来ますと、佐野はけっして文化不毛の地ではない、十分に誇っていいと思っています。
さて21世紀に向けての、佐野新都市整備事業というのがいよいよ開始されまして、佐野市も明るい近未来というのが約束されました。しかし、その開発によって、万葉に歌われた三毳山周辺の自然環境が損なわれては何もならないと思います。先頃、地球上における絶滅種というものを国連が発表しています。それによりますと、現在絶滅の危機にさらされている動植物は全部で9400種だそうです。特に哺乳類と鳥類の絶滅の早さが加速されたといいます。
この近郊の植物につきましても、16年前に須藤清市さんという人が調査した記録があります。それによりますと、398か397種が三毳山で確認されています。しかし、現在はそれよりも少なくなっていると思います。
田中正造も、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず」と言っています。私は、昭和45年から10年間かけて編纂されました、『佐野市史』の中で欠落している、動物編、植物編、そういうものの編纂を通して、豊かな自然、水と緑と万葉の古里・佐野を残すこと、それを明日の子どもたちへの遺産とすることが、とりも直さず田中(正造)精神を後世に伝える佐野市民の責任だろうと思っています。
表紙 「田中重光さん」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森1月号■
おぞねとしこのポエム…いぬ………3p
その他の情報…/猫バス17……4p
知らんの5つの市/旬=…5p
現代国語………6
お店………7p
創作童話 3回………8p
結婚…大山進さん&節子さん…96/11/19
1996年を占う………10-11p
12-19………歴史家が語る
JC・JOURNAL………20-21p
インフォメーション95………22-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】
両毛五市の歴史家が語る夢構想
佐野市 安蘇史談会 会長
京谷博次
京谷 郷土史家が語る夢構想ですが、非常に大きな課題で、それに十分に答えられるかどうか不安です。
佐野というところは、言語学的には西関東方言です。三毳山という山がありますが、それを境にして西関東方言、端的に言えば、このあたりも群馬県に入るかなと感じております。
この地域の特色を通史的に言えば、古代から現代に至るまで交通の要衝の地だった。古代におきましては、東山道というのが通っておりました。古い時代は一直線で、しかも道幅は広いという、そういうような特色があります。
近い将来、21世紀の始めになると思いますが、北関東横断道が完成の暁には佐野にもインターチェンジが設置されます。そういうことでこの地域の重要性というのは、増大すると思います。
それから、17世紀後半には、秋山川下流に越名河岸というのが開かれまして、今で言う東京都の産業とか文化の交流、そういったものに大きく寄与しました。当時、佐野乾山という人が佐野に来たということが記録もあります。
また、何と言いましても佐野の文化を代表するのは天明鋳物だと思います。鎌倉時代より残るその鋳造製品は農具とか日用雑器のほかに美術工芸品も造られ、国の重用文化財に指定されておるものも数多くあります。
それから、日本史の中でこの地域の住民が顔を出して来ますのは782年です。その頃編纂された万葉集の東歌と言う中に、下野、栃木県の歌が二首あります。その二つの歌が、この地域を詠んでいると言われています。その他にも、5つか6つも佐野に指定してもいいという歌もあります。そういうことで、この地域は古くから都人を引き付ける、風景、景観があったと思います。
いよいよ明治を迎え近代化の進む中で、1880年、明治13年には栃木県下最初の私立銀行である佐野合本銀行が創立します。またJR両毛線の前身である、両毛鉄道の開通は明治21年です。この年に春日岡町に洋式を取り入れた公園が完成します。今の城山公園ですね。『西洋風』というところに、時代の先取りをしたという気風が伺えると思っております。
それか、政治の面なんですが、自治の確立を目指す自由民権運動の高まりの中に、あるいは公害問題の先駆者の中に、田中正造を見ることができます。そして、田中正造を支援する大勢の人々の姿もあります。
明治から昭和にかけては近代歴史画家の先駆者と言われる小堀鞆音、現代では陶芸家で人間国宝の田村耕一先生も佐野の人ですね。このように見て来ますと、佐野はけっして文化不毛の地ではない、十分に誇っていいと思っています。
さて21世紀に向けての、佐野新都市整備事業というのがいよいよ開始されまして、佐野市も明るい近未来というのが約束されました。しかし、その開発によって、万葉に歌われた三毳山周辺の自然環境が損なわれては何もならないと思います。先頃、地球上における絶滅種というものを国連が発表しています。それによりますと、現在絶滅の危機にさらされている動植物は全部で9400種だそうです。特に哺乳類と鳥類の絶滅の早さが加速されたといいます。
この近郊の植物につきましても、16年前に須藤清市さんという人が調査した記録があります。それによりますと、398か397種が三毳山で確認されています。しかし、現在はそれよりも少なくなっていると思います。
田中正造も、「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず」と言っています。私は、昭和45年から10年間かけて編纂されました、『佐野市史』の中で欠落している、動物編、植物編、そういうものの編纂を通して、豊かな自然、水と緑と万葉の古里・佐野を残すこと、それを明日の子どもたちへの遺産とすることが、とりも直さず田中(正造)精神を後世に伝える佐野市民の責任だろうと思っています。