■こならの森95号■1996.3発行
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森4月号■
おぞねとしこのポエム…沈丁花………3p
その他の情報…/猫バス19……4p
知らんの5つの市/…5p
創作童話 4回………6p
結婚…松本さん夫妻 …96/1/21
インタビュー………8-11p
JC・JOURNAL………12-13p
郷土史家・両毛五市…2……14-19
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
■■■■■■■■■■■
【本文抜粋記事】
インタビュー
杜氏
力石 武司さん
■PROFILE:佐野市田島町の第一酒造(株)、杜氏。同酒造に勤めて24年。日本でもっとも権威のある全国新酒鑑評会において3年連続金賞受賞の経歴を持つ。16歳よりこの仕事に入る。昭和10年新潟県寺泊生まれ。
@代々杜氏をやってきているのですか。
そうですね。出身は寺泊の町内でなくてちょっと離れたところです。前は海で、裏は山ですから農地も少ない。大体の人が、漁師か藁屋根の吹き替え職人という所です。そうだったものですから、冬になると出稼ぎにでる。おやじのころまでは半分農業、半分漁師というように、昭和23、4年くらいまでやってました。今では漁師やっている人はあまりいません。専門のね。信濃川の分水がうちの方へ出るようになってしまったんです。そうしますと魚の流れが変わってしまいますからね。土砂が流れて来てしまう。濁った水がそのまま出て来てしまうんですね。@何を捕っていたのですか。
あの頃は鯛もいたし、後はイワシとかイカとかで、けっこう商売になったらしいんですよ。
@今現在は。
土砂が海に入ってきて海岸が伸びてしまった。そこに盛り土をしまして田圃にした。そして希望者に割り当てた。ですから2、3反くらいはみんな田圃を持っています。
私もそんなつもりはなかったのですが、家業である杜氏を継ぎました。中学を出たのが昭和26年、それからずっとです。その頃は、まだ高校へ行くのが私のクラスでも3人ぐらいでしたからね。私も行きたかったけれども、とにかく現金収入を得なければ生活が成り立たないという時代です。今の中学生と比べると純情でしたね。
@新潟県全体が、杜氏や蔵人が多いわけですか。
新潟県も地区によってなんです。寺泊とか長岡近くの越路町が多いんですね。新潟県の中心部のところが多い。祖父も父さんも杜氏でした。私で三代です。中学を卒業してからですからこの仕事をして、42、3年になりますかね。
@技術的な事は、親父さんに教わったのですか。
ではないですね。その蔵の杜氏さんについて教わりました。親父だといろいろやりにくい面がありますよ。
@最初はどこでしたか。
新潟県内の西蒲原郡という所です。
@一般に一人前となるにはどのくらいかかるのですか。
まあ人それぞれで違いますけれど、10年以上は必要かと思います。
@最初は米炊きくらいですか。
お茶出しと掃除です。あの頃は厳しかったですね。杜氏さんの洗濯をしたり。私は2年くらいそれをしていました。
@その次ぎは何をやらせてもらえるのですか。
私は運が良かったのかな、分析などをやらせてもらいましたね。これはもろみの成分の検査です。あの頃は今と違って、ただアルコールと甘辛です。日本酒度、後は酸度。酸が一番嫌われましたから、酸が出ちゃうもろみがおかしくなる可能性がありますから。
そうゆうのをやっていると、もろみの発酵形態とかいうのが自然と分かってくる訳ですね。仕込んでからどのくらいだから、成分はどのくらいが適当とか、ある程度は教科書もありましたが、あの頃は自分で覚えました。手を取って教えてもらうということはなかったですね。今は教えて行かないとね。
@どのくらいのチームだったのですか。
一番最初に行った所は15人くらいいました。その一番下ですから、最初は風呂当番とかもね。住み込みです。家からは近かったけれどもあの頃は通勤などということはとても考えられなかったですからね。
@成分分析の後は。
20歳の時に、違う会社に行きまして、酵屋という役をもらいました。普通は、釜屋といって、酒米を蒸す係りなんです。順序はね。ですから一段階上に行ったわけです。それを2年くらいやりまして、麹屋を1年くらい。後は頭といって杜氏の下です。それらを4年ほどやっていたら、ちょうど運が良くって、一人の杜氏さんが大きい蔵へ出るというので、その後任に杜氏をまかされた訳です。24歳くらいです。その頃では一番若かったですね。本工場の分工場みたいな所でした。普通のところでは無理だったかもしれませんね。
@現在蔵人は何人でやっているのですか。
今は私を入れて6人です。
@若い人もいるのですか。
そうですね。今度は後継者ということで地元の人が入りましたし、女性の蔵人も参加して活躍しています。うちの方(新潟県)にはもういないですよ。出稼ぎ的な、こういう職業につく若い人というのは全然いないですからね。
私たちがいるうちに後継者を育ててくれということです。そういうことで各蔵ともやっています。
@機械化といっても、どうしてもそう出来ない部分が多いですよね。
オートメーションで全部流すという訳には行かない。よっぽど大手みたいなところでないとね。それに機械では一律のものしか出来ませんからね。コンピューターを使ってやる所も出て来ていますけれどもね。そういうのはある程度強制的にやってしまう訳ですからね。
うちの蔵では手作りでやる、人の手でやる、そういうやり方をやっています。ただこういうのがいつまで続くか、一つの課題となります。
@期間中一番神経を使うところというのはどこですか。
一緒に来ているグループの人達が高齢化していますので、そういう人達が無事に健康でやっていって欲しい、というところに気を使っています。技術的なことではないですけれどもね。
技術的なことでは、やはり全般に使います。とにかく日本酒というのは、一つづつ組み立てて行く訳ですから。いちおう設計図はありますけれども、相手は生き物ですから設計図通りに行かないわけなんですよ。計算では出来ない訳です。気候とか、季節にも左右されます。天気予報にも注意していて明日は寒くなるとか、暖かくなるとかね。 杜氏になりますと、全般見ないといけないですからね。どこが一番大事ということはないですね。
ですからどこかで狂うと、組み立てたものがずれてくるから、最後にできたものが思ったような酒にはならないんです。
現在の蔵人は気の合った人達ばかりです。蔵の中がゴタゴタしていると、品質自体に影響が出てしまいます。
@高品質を維持して行くのにはご苦労があるのではないでしょうか。
毎年同じ品質のものを造るということは非常に難しいことですが、毎年のデーター等を検討しながらやっている訳です。
具体的にどうしたら良いものが出来るのかということは、我々にも分からないですよ。今回はだめだろうと思っていたら賞をもらったり、これはいけると思ったらそうでもなかった、ということがある。人が選ぶ訳ですからね。ある程度成分の規格というのはありますが、それは味とかには関係ないんですよ。
@審査員が飲んでうまいというのが、うまい。
一口で言えばそうですが、全員にうまいと言わせるのは難しい事です。内容と成分が一致しないといけないですよね。経過が良好でも出来上がったものが必ずしもいいとは限らない。杜氏を40年近くやっていますが、始まるときは毎年一年生ですよ。毎年毎年米の出来が違います。それに気候ですね。表面上、何年杜氏をやっているというのは現れて来ますけれども、実際にやることは毎年一年生です。
@息子さんは(杜氏は)やらないのですか。
通勤の会社勤めです。昔は農業をやっていてその暇なときに勤めに出てという形でしたが、今は逆ですからね。勤めに出ていて、日曜日を利用して農業をやるという方が多い。今は若い人たちを家族が出さないでしょうね。奥さんと離れてなどというのは、とても考えられないですよ。
@ずっと単身赴任で来ていると聞きますが。
亭主元気で……なんて言うじゃないですか、いない方がいいんじゃないですかね(笑)。
@やはり、おいしい酒が出来たときは嬉しいものでしょうね。
そうですね。鑑評会等で入賞するとホッとします。審査が終わって発表までの間というのは、眠れないですね。ノイローゼになりそうです(笑)。それと、入賞してもしなくてもやることは同じですからね。入らないとなると同じ苦労をしてくれた蔵人たちに申し訳が無いという気持になります。
昔の杜氏さんというのは、いばっていましたからね。とにかく、やるからには杜氏にならなくてはと思いました。朝、あの頃は3時頃に起きたんですよ。その頃の酒造りというのは。ですが杜氏さんだけは、6時頃まで寝ていられるんです。これはもうこういう職業を続けるんだったら、杜氏にならなけりゃウソだと思いました。それそうとうに、それなりの努力ははやったつもりでいます。
@朝3時に起きるとなると夜は何時に寝た訳ですか。
9時頃ですね。それも、夜中の番に当たると、夜中に起きなければいけない。それでも、その頃は元気が良かったから、夜外出もしました。ほとんど寝ないでね。眠いのはまいったですけれどもね。今思うと良い思い出ですよ。あの頃は遊びに行くといったって、映画くらいしか無かったですけれどね。本当にお金を使うところが無かったですね。床屋さんへ行くくらいでした。
@今年は県内初の女性の蔵人も参加しましたね。
いろいろと細かい所に気が付きますし、女性がいるだけで雰囲気が違って来ます。新潟県でも増えています。
@女性の杜氏さんというのはいるのですか。
女性で全責任をもってやっているというのはあまり聞かないですね。
各部門で責任者になってやっているという人はいます。ただ今は技能士制度がありますから、国家試験の。もちろんそれが無くても杜氏をやっている人もいます。そういう資格をもっている女性の人もだいぶいます。これからはどんどん酒造りの方に入って来てもらいたいですね。
@最近は発酵技術も上がって来ていますね。
バイオとかいっても我々には分からないですよ。これから先は我々の造っている酒と、若い人との造り方というのは違ってくるんだと思いますね。我々は今、住込でやっています。ですから何かあれば直ぐに対処出来ますが、これからの人は通勤でないとだめですから、そういうふうになると酒の造り方も変わって行くのも仕方がないと思います。それが少し寂しいですが、反面楽しみでもあると思います。
@どうもありがとうございました。
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森4月号■
おぞねとしこのポエム…沈丁花………3p
その他の情報…/猫バス19……4p
知らんの5つの市/…5p
創作童話 4回………6p
結婚…松本さん夫妻 …96/1/21
インタビュー………8-11p
JC・JOURNAL………12-13p
郷土史家・両毛五市…2……14-19
インフォメーション95………20-23p
海棠市子の映画評……………24
書評・絵本紹介………………25
現代国語………26
占う………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
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【本文抜粋記事】
インタビュー
杜氏
力石 武司さん
■PROFILE:佐野市田島町の第一酒造(株)、杜氏。同酒造に勤めて24年。日本でもっとも権威のある全国新酒鑑評会において3年連続金賞受賞の経歴を持つ。16歳よりこの仕事に入る。昭和10年新潟県寺泊生まれ。
@代々杜氏をやってきているのですか。
そうですね。出身は寺泊の町内でなくてちょっと離れたところです。前は海で、裏は山ですから農地も少ない。大体の人が、漁師か藁屋根の吹き替え職人という所です。そうだったものですから、冬になると出稼ぎにでる。おやじのころまでは半分農業、半分漁師というように、昭和23、4年くらいまでやってました。今では漁師やっている人はあまりいません。専門のね。信濃川の分水がうちの方へ出るようになってしまったんです。そうしますと魚の流れが変わってしまいますからね。土砂が流れて来てしまう。濁った水がそのまま出て来てしまうんですね。@何を捕っていたのですか。
あの頃は鯛もいたし、後はイワシとかイカとかで、けっこう商売になったらしいんですよ。
@今現在は。
土砂が海に入ってきて海岸が伸びてしまった。そこに盛り土をしまして田圃にした。そして希望者に割り当てた。ですから2、3反くらいはみんな田圃を持っています。
私もそんなつもりはなかったのですが、家業である杜氏を継ぎました。中学を出たのが昭和26年、それからずっとです。その頃は、まだ高校へ行くのが私のクラスでも3人ぐらいでしたからね。私も行きたかったけれども、とにかく現金収入を得なければ生活が成り立たないという時代です。今の中学生と比べると純情でしたね。
@新潟県全体が、杜氏や蔵人が多いわけですか。
新潟県も地区によってなんです。寺泊とか長岡近くの越路町が多いんですね。新潟県の中心部のところが多い。祖父も父さんも杜氏でした。私で三代です。中学を卒業してからですからこの仕事をして、42、3年になりますかね。
@技術的な事は、親父さんに教わったのですか。
ではないですね。その蔵の杜氏さんについて教わりました。親父だといろいろやりにくい面がありますよ。
@最初はどこでしたか。
新潟県内の西蒲原郡という所です。
@一般に一人前となるにはどのくらいかかるのですか。
まあ人それぞれで違いますけれど、10年以上は必要かと思います。
@最初は米炊きくらいですか。
お茶出しと掃除です。あの頃は厳しかったですね。杜氏さんの洗濯をしたり。私は2年くらいそれをしていました。
@その次ぎは何をやらせてもらえるのですか。
私は運が良かったのかな、分析などをやらせてもらいましたね。これはもろみの成分の検査です。あの頃は今と違って、ただアルコールと甘辛です。日本酒度、後は酸度。酸が一番嫌われましたから、酸が出ちゃうもろみがおかしくなる可能性がありますから。
そうゆうのをやっていると、もろみの発酵形態とかいうのが自然と分かってくる訳ですね。仕込んでからどのくらいだから、成分はどのくらいが適当とか、ある程度は教科書もありましたが、あの頃は自分で覚えました。手を取って教えてもらうということはなかったですね。今は教えて行かないとね。
@どのくらいのチームだったのですか。
一番最初に行った所は15人くらいいました。その一番下ですから、最初は風呂当番とかもね。住み込みです。家からは近かったけれどもあの頃は通勤などということはとても考えられなかったですからね。
@成分分析の後は。
20歳の時に、違う会社に行きまして、酵屋という役をもらいました。普通は、釜屋といって、酒米を蒸す係りなんです。順序はね。ですから一段階上に行ったわけです。それを2年くらいやりまして、麹屋を1年くらい。後は頭といって杜氏の下です。それらを4年ほどやっていたら、ちょうど運が良くって、一人の杜氏さんが大きい蔵へ出るというので、その後任に杜氏をまかされた訳です。24歳くらいです。その頃では一番若かったですね。本工場の分工場みたいな所でした。普通のところでは無理だったかもしれませんね。
@現在蔵人は何人でやっているのですか。
今は私を入れて6人です。
@若い人もいるのですか。
そうですね。今度は後継者ということで地元の人が入りましたし、女性の蔵人も参加して活躍しています。うちの方(新潟県)にはもういないですよ。出稼ぎ的な、こういう職業につく若い人というのは全然いないですからね。
私たちがいるうちに後継者を育ててくれということです。そういうことで各蔵ともやっています。
@機械化といっても、どうしてもそう出来ない部分が多いですよね。
オートメーションで全部流すという訳には行かない。よっぽど大手みたいなところでないとね。それに機械では一律のものしか出来ませんからね。コンピューターを使ってやる所も出て来ていますけれどもね。そういうのはある程度強制的にやってしまう訳ですからね。
うちの蔵では手作りでやる、人の手でやる、そういうやり方をやっています。ただこういうのがいつまで続くか、一つの課題となります。
@期間中一番神経を使うところというのはどこですか。
一緒に来ているグループの人達が高齢化していますので、そういう人達が無事に健康でやっていって欲しい、というところに気を使っています。技術的なことではないですけれどもね。
技術的なことでは、やはり全般に使います。とにかく日本酒というのは、一つづつ組み立てて行く訳ですから。いちおう設計図はありますけれども、相手は生き物ですから設計図通りに行かないわけなんですよ。計算では出来ない訳です。気候とか、季節にも左右されます。天気予報にも注意していて明日は寒くなるとか、暖かくなるとかね。 杜氏になりますと、全般見ないといけないですからね。どこが一番大事ということはないですね。
ですからどこかで狂うと、組み立てたものがずれてくるから、最後にできたものが思ったような酒にはならないんです。
現在の蔵人は気の合った人達ばかりです。蔵の中がゴタゴタしていると、品質自体に影響が出てしまいます。
@高品質を維持して行くのにはご苦労があるのではないでしょうか。
毎年同じ品質のものを造るということは非常に難しいことですが、毎年のデーター等を検討しながらやっている訳です。
具体的にどうしたら良いものが出来るのかということは、我々にも分からないですよ。今回はだめだろうと思っていたら賞をもらったり、これはいけると思ったらそうでもなかった、ということがある。人が選ぶ訳ですからね。ある程度成分の規格というのはありますが、それは味とかには関係ないんですよ。
@審査員が飲んでうまいというのが、うまい。
一口で言えばそうですが、全員にうまいと言わせるのは難しい事です。内容と成分が一致しないといけないですよね。経過が良好でも出来上がったものが必ずしもいいとは限らない。杜氏を40年近くやっていますが、始まるときは毎年一年生ですよ。毎年毎年米の出来が違います。それに気候ですね。表面上、何年杜氏をやっているというのは現れて来ますけれども、実際にやることは毎年一年生です。
@息子さんは(杜氏は)やらないのですか。
通勤の会社勤めです。昔は農業をやっていてその暇なときに勤めに出てという形でしたが、今は逆ですからね。勤めに出ていて、日曜日を利用して農業をやるという方が多い。今は若い人たちを家族が出さないでしょうね。奥さんと離れてなどというのは、とても考えられないですよ。
@ずっと単身赴任で来ていると聞きますが。
亭主元気で……なんて言うじゃないですか、いない方がいいんじゃないですかね(笑)。
@やはり、おいしい酒が出来たときは嬉しいものでしょうね。
そうですね。鑑評会等で入賞するとホッとします。審査が終わって発表までの間というのは、眠れないですね。ノイローゼになりそうです(笑)。それと、入賞してもしなくてもやることは同じですからね。入らないとなると同じ苦労をしてくれた蔵人たちに申し訳が無いという気持になります。
昔の杜氏さんというのは、いばっていましたからね。とにかく、やるからには杜氏にならなくてはと思いました。朝、あの頃は3時頃に起きたんですよ。その頃の酒造りというのは。ですが杜氏さんだけは、6時頃まで寝ていられるんです。これはもうこういう職業を続けるんだったら、杜氏にならなけりゃウソだと思いました。それそうとうに、それなりの努力ははやったつもりでいます。
@朝3時に起きるとなると夜は何時に寝た訳ですか。
9時頃ですね。それも、夜中の番に当たると、夜中に起きなければいけない。それでも、その頃は元気が良かったから、夜外出もしました。ほとんど寝ないでね。眠いのはまいったですけれどもね。今思うと良い思い出ですよ。あの頃は遊びに行くといったって、映画くらいしか無かったですけれどね。本当にお金を使うところが無かったですね。床屋さんへ行くくらいでした。
@今年は県内初の女性の蔵人も参加しましたね。
いろいろと細かい所に気が付きますし、女性がいるだけで雰囲気が違って来ます。新潟県でも増えています。
@女性の杜氏さんというのはいるのですか。
女性で全責任をもってやっているというのはあまり聞かないですね。
各部門で責任者になってやっているという人はいます。ただ今は技能士制度がありますから、国家試験の。もちろんそれが無くても杜氏をやっている人もいます。そういう資格をもっている女性の人もだいぶいます。これからはどんどん酒造りの方に入って来てもらいたいですね。
@最近は発酵技術も上がって来ていますね。
バイオとかいっても我々には分からないですよ。これから先は我々の造っている酒と、若い人との造り方というのは違ってくるんだと思いますね。我々は今、住込でやっています。ですから何かあれば直ぐに対処出来ますが、これからの人は通勤でないとだめですから、そういうふうになると酒の造り方も変わって行くのも仕方がないと思います。それが少し寂しいですが、反面楽しみでもあると思います。
@どうもありがとうございました。