押入れの片付けをして、大正時代の柳こうり(母が東京に出かけた時の宝物)
昭和16年戦時中 紙の服を真面目に作り始めました。母の作った紙のチョッキが
柳こうりから出てきました。型紙の(新聞紙)中には昭和22年12月二十日の記事
東京裁判で東京法廷の太平洋戦争の核心をつく真珠湾奇襲に関し、海軍側永野、伊藤、から奇襲の話が出た時島田は発言しなかった。永野は死ぬ十日前「真珠湾奇襲の責任は皆自分がとる」と言った。
東條は12月8日午前3時10分宮中に入り私が天皇に親電を持って拝謁したのは木戸と打ち合わせ,奉答は事前に承知していた。
天皇は「どう返事すればよいか」と申され、自分は平和を念とする。
天皇の回答は8日午前7時半グルー大使に手渡された。
古新聞に東京裁判の東条被告の爆弾証言 が大和タイムスに載っていました。
薪炭代金支払方法改正 供出と同時に代金を>>戦後燃料の困窮時代がありました
昭和16年戦時中 紙の服を真面目に作り始めました。母の作った紙のチョッキが
柳こうりから出てきました。型紙の(新聞紙)中には昭和22年12月二十日の記事
東京裁判で東京法廷の太平洋戦争の核心をつく真珠湾奇襲に関し、海軍側永野、伊藤、から奇襲の話が出た時島田は発言しなかった。永野は死ぬ十日前「真珠湾奇襲の責任は皆自分がとる」と言った。
東條は12月8日午前3時10分宮中に入り私が天皇に親電を持って拝謁したのは木戸と打ち合わせ,奉答は事前に承知していた。
天皇は「どう返事すればよいか」と申され、自分は平和を念とする。
天皇の回答は8日午前7時半グルー大使に手渡された。
古新聞に東京裁判の東条被告の爆弾証言 が大和タイムスに載っていました。
薪炭代金支払方法改正 供出と同時に代金を>>戦後燃料の困窮時代がありました
そしてその松を寄付すると新聞に書いてもらいました。
案外反応は少なく。
いまのところ1校が興味を示しただけでした。
戦後生まれの私達には解り得ないことなのですが・・・
マッカーサーが昭和天皇と話し合われた時、机の上に足を放り出していたマッカーサーが、天皇のお言葉を聞いているうちに「足をおろして、きちんと椅子に座りなおしたとか・・?」
もう60年も前の物ですのに・・・・・・
天皇は、戦犯の合祀された靖国には行かないと
仰ったそうですが、戦争責任は天皇には無かったのですか?
私はそれが不思議です。
天皇の意向とは違って、勝手に東郷さん達が引っ張ったんでしょうか?
天皇は戦争に利用されたような気がします。
神から象徴に変わったのも、戦争の責任でしょうし・・・
ご逝去されるまでの、お苦しみの日々は「戦争に対する責任痛感」ではなかったのでしょうか?
今朝は肌寒く、秋がきたのだと 感じました。
のろしろさんのお家は保存がいいのですね。
「大正時代の柳こうり」から 戦時中の昭和16年の母上さまの作られた「紙のチョッキ」が白いままで保存されているのには驚きます。
型紙に使われた新聞紙の昭和22年12月20日の記事も貴重ですね。昔は新聞紙をいろんなことに利用しましたね。
いろいろ考えることがいっぱいの内容でした。ありがとうございます。
松根油>燃料が枯渇して松ノ木を伐採、松根油を燃料に>木炭車なるものが走っていました、
坂を登る時はジグザグに橋を登って行きました
石化燃料が馬力が強いのでガソリンに頼りますね。
BMWが水素エンジンを搭載した車が出来たそうです、全車が水素車になれば最高ですね。
昭和天皇は純粋の曇りのない人柄でマッカーサーも気分を清祥にしたのでしょう。
日の丸に赤い筋が入ったのは海軍の日章旗ではないですか、軍艦にはためいている姿が威風堂々血潮が沸いたものです。
当時は陸軍が政権を牛耳って居まして、おそらくは天皇は洗脳されていた状態だったと思はれます、のらしろは護国神社にお参りは一度だけでした。
従兄弟が海軍特攻隊で沖縄で藻屑と消えています。
20歳の若さで、小さなトランクに軍服,短剣
遺書が届きました。二階級特進で大尉、名誉の
戦死でした。
古い柳こおりと母の遺品保存しておきます。
第二次世界大戦は無学な我太郎にはよく分かりませんが、私の関係者には戦死者がいません
今となれば幸いなことだったと思います
嫁方では戦死者がいまして、靖国には義母と1度お参りしました
紙のランドセルを知っていますか
父は都島で町工場を経営して、戦前は羽振りが良かったそうですが、空襲で全てを失って貧乏暮らしに転落
私が小学校くらいが最貧状態でした
新品のランドセルが買えないで、どこから工面してきたのか紙(馬糞紙?こう書くのかな)のランドセルでした
お下がりでしかも紙ですからね
恥ずかしいたらなかったです
で、学校が嫌いになった、は言い訳ですがね