16:31 最強伝説 黒沢

 先日、甥がこの作品のことで作者が大変気に入っていたというような話をしていたので、俺も久しぶりに読んでみることにした。
とはいっても10年以上前に読んだので内容はアジフライと仲根が出てきたことくらいしか覚えていない。
久しぶりに3日掛けて読み返して最終話で少し涙した。

なんていうか、おれも同じようにまったく浮くことのない人生で。嫌なこと辛い、苦しいことばかりだった。
人と比較され落ちこぼれ、幼少のころにわずかばかりでもあったであろう希望なんてものは、幼稚園児の時にはすでになくなっていたのを覚えている。
それは、当時からたぶん物事の価値観が他の人と違うのと、我を張る性格だったのだろうことで、協調性などなく自分だけで時間を過ごすのが好きだったことも原因だ。
そして、そのまま今日まで生きてきた感じ。
たしかに、人に良くすることで自分にも還ってくると思うこともあったが、それは結局、いいように使われるだけであったことも多い。
だからそういうことばかりの人生にあって負けることや虐げられてしまうことに対し「諦め」という言葉を以て自分に言い聞かせてしまう習慣が身についてしまった。

だけど、不本意であったなら本来ならば作中に出てきたアリのように「巨大な圧力に押しつぶされそうでも抗うべき」なのだ。
それをせずに諦めてしまうことで悔しさが残り、その悔しさも回数や時間の経過によって次第に薄れていってしまう。

つまり、麻痺してしまうということだな。

そんな人生を長く生きることに何の意味がある?
100年、千年、生きられたとして楽しいのか?
先日亡くなった「やなせたかし」さんのように人々に夢を与え、愛され、惜しまれるのだったら長く生きる意味もあるだろうし、
「死にたくねぇよ」
って思う気持ちもわかる。
だが、俺の場合はどうだ?
ただなにもない毎日を過ごして無駄に生きているだけ。
庭でエサもなく寒い冬が来るのを、じっと静かに耐えているアシナガ蜂のほうがよほど「生きている」ってことだろう?

俺が死んだところで、誰も何も思うまい。
人は子供を残したいという。
それは子孫を残したい、自分の血を残したいってことだ。
つまり遺志を受け継いでほしいということ。
残念ながら俺は親からそういう教育は受けてこなかった。無駄に放任主義だった。
本来、自分の遺志を受け継がせたいのだったら
「生きるというのは、こうあるべき」
という事柄をはっきりと伝えなくては意味がない・
それを、ただなんとなく子供ができたとか、1人だとかわいそうだから兄弟を・・・ なんていう理由で育てられたらアホしか育つまい。

だいたいからして、人間教育というのは本能で生きるのと違い、生きていくために賢く立ち回らせるためのものだ。
だからこそ小中学校での基礎学習が必要であって、それを応用して物事の考え方を組み立てていく。
そしてそれは何のためなのか?
当然だが、妻や子供など家族のためでしかあるまい。
大事な家族のために身を犠牲にして、人生を犠牲にしてまで自分の遺志を受け継いでもらう行動をしている。
なのに・・・ 俺は?小さな虫だって一矢報いてやろうと必死なのに、俺は?いったいなんなのだ?

ワンピースのエースの言葉に「チカラに屈したら、男として生まれてきた意味がねぇだろう?俺は人生に悔いはのこさねぇ」

とかあった気がするが、さっきの黒沢と同じように「人の心に残る」っていうのは情熱の熱量、濃さの問題だと考えます。
前に書いた薄いコーヒーでは心になど残らない。ただ無駄に人生を生きていくことは無価値であり、それこそ苦行でしかないと思います。

そういうことを時々ブツ切りで考えていたのですが、だからこそ
「あぁ、早く死にてぇなぁ」
って思ったりしたのだと悟った。
早い話が、遺志を継がせる人がいないのだとしたら、それは生物としては不必要な存在であり、無駄に生きて他の価値ある命の繁栄を妨げるだけの無駄な存在でしかないってことだからでしょう?
そういうことをわからなくても、生物のDNAレベルでは無駄な存在は淘汰されるべきと認識しており

「無駄な存在は、みずから命を絶つ」

という行動に出るようにできているのでしょうか?

生きるってなんだろうね?
おいしいものを食べる?
かっこを付ける?
いい車に乗る?
人に上に立って地位や名声を得る?

なんか違う気がする。
重要な本質が抜けている。
さっき書いた食べたりとかのいろいろな事柄ってのは、本質を遂行するために自分のモチベーションを揚げるために過ぎないことでしょ?
本来は、子供の成長する姿を見て喜ぶためのものではないのか?
その最低線が健康に生きるということで、実際には思いやりを持つとか賢く生きてほしいということではないのか?

俺は、いままであまりにも賢く生きてこなかった。
いや、賢くする術がわからなかった。
勉強ができるから賢いではないのです。
それは「偉い」というか「記憶力がいい」のです。
物事の解決能力に優れるとか、言葉でうまく伝えることができる。
そういうことが賢いのです。

早い話が応用力があるってこと。

勉強ができるというのは、単純には賢いわけではない。
そのためイレギュラーな物事への対処が不得意です。
俺が大嫌いな公務員。
いつも同じことしかしていないので、少しでも違う事例が発生すると、あたふたして自分で判断ができない。
それが仕事上の話であり、勝手な判断をして組織に迷惑が掛かる。
というのだったらわかるけど、そういう人間性は私生活でも現れます。
そして轢き逃げや、当て逃げなんていう道義上の問題さえも善し悪しの判断ができなくなって拒否してしまう。

なんなんでしょうね。この世の中は。
誰がどう見ても悪いことなのに適切に処分されず、世間の声が大きくなってきたら処分する側の判断が変わって適切に処分されるって。
なぜ最初から、そういう判断がされないのか?

人を1人殺しても極刑に処されない。
懲役10年でも、真面目にしていたら減刑されて出所してくる。

それは、死んでいった人への冒涜ではないのですか?
昔あった「仇討:という制度の方が価値があるのですが。
改心すればいい。とか将来がー。とか?
そんなの死んでいった人だって将来があったのに、強制的に打ち切られたのですよ。
その無念の叫びは、誰も聞いてくれないのですか?
警察は単なる作業で取り締まりや検挙、起訴しているとしたら、それに何の意味があるのですか?
そして、そんなことをして血縁を残す意味は?

先進国になるにしたがって出生率が低くなります。
自分の生活を阻害されたくない。
単純に、そういう理由からでしょうか。
だとしたら、優れた子孫ほど少なくなっていき、単に快楽の果てに生まれてきた子供たちばかりの未来でしかないのでは?

現在、日本国内の借金や年金問題、医療費、高齢化問題などなど。
様々な問題がありますが、それもこれもすべてが先送りで、その原因を作った人たちは誰一人として責任を取りません。
それを丸投げされて、対処しなくてはならないこれからの子供たち。
消費税は福祉にしか使いません!と導入されて、他のことにも使うことができるナントカ税になった。
そんなに借金に困っている日本なのに、他国に道義的支援だの円借款だのして世界の財布とさえ言われている。
つまりは、どれだけお金があっても解決などしません。
なぜなら穴が開き、ふさぐことをせず入ってくる水の圧力で更に穴の大きくなる水槽に、わざわざ水を入れているのだから。
どうして水を入れる量を減らさないのか?
入る量が少なくなったら、自然と出る量を減らす対策をするでしょう?
破綻した夕張を見ればわかることです。

「たくさん入ってきたから安心して支出の計算ができる」

そういう考えなんじゃないんですか?
そして、そういう世の中の空気にするように世論操作してるようにしか思えない。

この記事の冒頭に書いた「生きて子孫を残すということ」とはまったく違う、私利私欲のためだけの行動であり、それを考え、決定しているのが解決能力の低くなっている公務員だからですか?

そうそう、学生の時に大変頭が良くて賢いと言われていた人たちも、組織に入り、頭がいいのだから空気を読み、次第に自分の意見を言わなくなり長いものにまかれるだけの存在になっているだけ。
な気がします。
それだったら、どこそこ大学卒業なんて肩書は要りませんね。

あと、小中高校大学生のときに、あれほど頭が良くて同学年の男と同レベルの成績だった女の子たちが結局は工場に入って単純作業をしたり、家庭に入ってまったく賢い部分を使わなくなって鈍化してしまっていく・・・
そういうのを感じませんか?

もったいない。まったくもってもったいない。

ですが、男と女では年齢による人生の判断力、応用力という点では差がついていくと思うのも事実。
俺が工場に機械修理や改造に行った際に、当然のことながら現場の人達と話をすることがあるのですが、説明を聞くときや説明するときに「単刀直入」ということができないのです。
どうやって説明したらわかりやすいのか?
また、それがどうしてわからないのか?
そう思うことが、しばしば見受けられました。

先日書いた数学の問題。
あれが解ける30歳以上の主婦の人が何人いるでしょうか?
また、同じように会社員の男の人は何人いるでしょうか?

ある機会があったので、その問題を一緒に作業していた俺よりも、かなり若い男の人に息抜きとして出してみたら少し考えて適切な回答をしてくれました。
あの問題を、近くの人に出してみて確かめてみればわかると思います。
さて、男と女、どちらの方が回答率が高いのか?

そして、その回答率が低いとする女の人を、どのように擁護し安心して生活できるように男が生きていけばよいのか?
それは、男としての自尊心ではなく、一番身近にいる妻や彼女からの本当の意味での安心した生活、男に対して尊厳を持った生活をしていけるかに他ならないと考えます。

俺の考える「生きる」ということを踏まえて残りの寿命をどのように生きていこうかねぇ。
コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »