千鳥足こと博多のおいしゃんの独り言

博多今昔(東町筋)

追山で櫛田入りしたあと、山笠は東長寺、承天寺の清道ば廻り
東町筋ば下ります。

今の「大博通り」が元の「呉服町流」になりますが、
その東に位置するけん「東流」て言います
太閤町割りで基準になった「市小路」が今の大博通り

東町筋の東には「石堂流(恵比須流)」がありますが、「石堂流」は
石堂橋の北側からになります。

恵比須は今の流の分布では異様です。
ぽんと飛んで、綱場町辺りだけが「恵比須流」になっとります。
これは横筋にあった石堂流(恵比須流)の横筋部分が東町と西町に
吸収されたけんです。

どちらも、お寺が多く、承天寺、妙楽寺、聖福寺はこの辺り。

昔、お寺は要塞代わりに作られ、石堂川べりはお寺ばかり。
博多のまちば攻めてきたとき、前線基地としてたてこもる場所としても
お寺は重要な位置づけやったとですね。

幸い戦国時代は終わり、大きな戦はなく、寺町として発展していきます。

東流は南北に伸びる筋で構成されますが、
その両端は「新町流」になります。
昔の「町割り」はようわからん・・・
中洲中島町は「魚町流」に属します。

「厨子流」は魚町の南と、櫛田神社の南の横筋で構成されます。

現在の山笠に現存する「流」はほとんど縦筋の流です。

七条の袈裟にたとえた町割りは縦筋4筋、横筋3筋で七に当てはめておりますが、
これ以外にも周辺部ば「新町」と「厨子」に当てはめたとでしょうか?

由緒ある「呉服町流」は私が小学校の頃までありました。
最後の山笠飾りが「黒田武士」の人形でした。

戦後恵比須、大黒、西東、土居に加わったとが
博多の両隣の「千代」と「中洲」です。

バッテン太閤町割り以前は「流」自体が存在せんけん
山笠行事もそれ以前の町で行いよったとでしょうね。

起源は定かでない「山笠」も太閤町割りによって出来た
ブロックとして発展していきます。

それ以前の山笠は神社の行事としての副産物であり
他の地方の祭りと同じ形式で行われ、神様のお下り、お上りに
花を添える山車であったごとあります。
いわば神社ば中心とした地域の行事です。

これが山笠の始まりとしては正しいとでしょうが

ここにお寺が参入します。
聖一国師が疫病退散のため甘露水(聖水)ばかけて廻ったという
山の始まりです。

どちらが正しいとか?分かりませんばってん、
櫛田神社ば奉納して、東長寺、承天寺に廻る

神仏混淆が見えてきます。
仏教が始まりか?神道が始まりか?
どっちが最初は別にして、いっしょくたんにしたとが
今の「博多山笠」です。

東町筋とはだいぶ話がずれてしまいました・・

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