読みよります。
そげななか民俗学者の宇野功一さんの
「近代博多における個別町の社会構造と祇園山笠経営」ていう
論文ば数年前に見つけました。
古渓町の西頭家に残る「西頭資料」の昔の記録からいろいろなとがわかります。
どげんやって山笠にかかる経費ば賄いよったか?やらです。
そこで思わぬ発見ばしましたとです。
なんと我が家の名前が載っとるやないですか(^^♪
家族の言い伝えによると昔「古渓町」で「料亭」ばしよったては
聞いとりましたばってんが、大正七年(1918年)から十二年の記録に
生鶏業てあり(これは親戚中でも初耳)多い時は59円税金払いよったまで
わかるとですね・・・・
当時は古渓町辺りは魚市場的な場所で魚屋さんが多く集まった場所です。
その昔はこの北側はすぐ海岸線やったけんさもありなんです。
鰮町辺りは漁師町やったとですけんね・・
ひょんなことでこげなことわかります。
他の「博多風土記」でも昭和の時代の我が家のことも書いてありました。
「景気の良かった人形屋が火事出した・・」そげなことまで書いちゃぁです。
パンダさんとこはもともと煮売り屋から起こして料亭になったやらも・・・
そげな話はさておき・・・・
今回は山台の構造の論文ば見つけました。
「北部九州山笠山台における舁き棒の取り付け」
博多はじめ40ほどの地域の研究ばされとります。
まぁそのすべてが「ハカタウツシ」で最初は博多から伝播されたて思います。
そこで興味あるとが舁き棒の数。
二本・四本・六本と様々です。六本は博多のほか「津屋崎祇園山笠」
「田熊山笠(宗像)」「篠栗祇園山笠」等比較的博多に近いところです。
四本は結構多く「飯塚祇園山笠」「上須恵祇園山笠」等々
二本は北九州に多いです。
「戸畑祇園山笠」「猪熊祇園山笠」「直方祇園山笠」等々
中には三本のところも「前田祗園山笠(北九州)」
これ真ん中の棒はどっち側に舁き手が入るっちゃろうねて思うたら
舁き棒と舁き棒の間に横にロープば渡してリヤカーのごと引く
曳山みたいです。外側の棒のそとは舵取りが付くみたいです。
それぞれ舁き棒の数は山笠の大きさ重さによってであるて思います。
その昔の江戸時代の博多祇園山笠の屏風図やらのは四本の舁き棒が
見られます。山が大きゅうなるにつれて増えたとでしょうね。
次に舁き棒の取り付けですばってんが博多は棒受の上に棒繰ぐりば乗せて
その上に舁き棒ば乗せて締め上げる構造です。
他の地域では棒受?(横梁)の下に取り付け持ち上げる構造。
これは棒締めの仕方、棒のずれ止めのいずればとっても
博多の山笠が力学的に理に適うとるて書いてあります。
ばってんがこれも昔の図ば見てみたら博多の山笠も横梁の下に
舁き棒取り付けた図もありますもんね。
構造も棒締めもいろいろ試行錯誤して今に至ったとでしょうね・・
今への字の下に「番線」が取付られとりますばってんがこれは
舁山が低うなって以前よりスピード化してからて思います。それだけ
なんかに躓いたときショックが大きいですけんね。
昔のごとあげな高い飾りで重か山笠はもとゆっくり引きずるごと舁きよったて
思われますもんね。それに今のごと地べたもギチや無かけんですね。
今回はそげなこげなこと書いてみました・・・・
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