見果てぬ夢

様々な土地をゆっくりと歩き、そこに暮らす人たちに出会い、風景の中に立てば、何か見えてくるものがあるかもしれない。

必修科目と高校の存在意義

2006-11-01 19:23:14 | 政治・社会
全国各地で発覚した高校必修科目の履修漏れ。マスコミが異常なほどセンセーショナルに取り上げ、自殺者まで出た(出した)この一件が、前向きな教育改革につながると期待したいのだが。

最初にこの報道に接したとき、「今更、何?」と思ったのは、私だけだろうか。

30年前。私の入学した高校では、すでに同様のことが行われていた。
実家の押入れの隅に眠っている高校時代の履修表か通知表を見れば明らかだが、受験に直接関係のない教科は、そもそものカリキュラムに載っていなかった。30年前の記憶が鮮明なのは、高校2年の途中で転校し、移った高校と前の高校のカリキュラムの違いに、ひどく驚いたから。

入学した高校は、地域で最も期待されているいわゆる「進学校」。転校先も進学校ではあったが、教師も生徒も受験や進学にきゅうきゅうとした雰囲気がなく、生徒の主体的勉学意欲を尊重する大らかな女子高だった。
転校した初日から面食らったのは、前の学校でカリキュラムになかった保健、倫理社会等が授業に組み込まれていたこと。

学期の途中で転校したので、受けていない半年分の授業内容が自分には欠落しており、「どうして?」という疑問がしばらく頭を渦巻いた。
やがて、落ちついた結論は、「前の高校は、1年時から大学受験意識が強かった。きっと受験対策の差だろう」。
それからの授業中の私は、「この時間、前の高校の同級生は受験教科を勉強している。うーん、差がつくなあ」という焦燥感に襲われていた。

高校生活には、友情も、クラブ活動も、恋も、喜怒哀楽も、葛藤もあった。高校で学んだことは、受験対策知識だけではないと確実に言えるのだが、授業意欲を支えていたものが受験であったことも否定できず、そうした意識を醸成していたのは、日本社会の価値観だった。

必修科目の授業内容が、この社会を生きるための最低限必須のものであると、今も私は自信をもって断言できない。「暗記すべきこと」が多すぎる。

中学校で社会科を教えている友人が、「高校受験さえなければ、もっと洞察力や想像力や構想力を養うための時間をかけた歴史の授業を展開できるのに」と嘆くのも、彼の力不足とばかり責めることのできない日本の学校教育の実情である。



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