チェーホフの銃、その意味するところは「ストーリーに持ち込まれたものは、すべて後段の展開の中で使わなければならず、そうならないものはそもそも取り上げてはならないのだ」と説明されています(Wikipedia)。
その見解に反対するつもりはなく、しかし私にはあまりにも露骨なご都合主義を戒めた言葉にも聞こえます。
チェーホフの言葉とされる「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである。そうでないなら、そこに置いてはいけない」(同上)は、反対に、後で拳銃を発砲するのだったら初めから拳銃の存在を提示しておけ、という教訓というか戒律のように思われます。
実は、夏コミ原稿の進みが悪い理由のひとつは、後になって登場する初登場のアイテムをどのようにしてより早い段階にねじ込んでおくかという見直しを常に行っているためでもあります。
別に特別なアイテムを登場させようとしているのではありません。コップでも何でもいい、場合によってはそこにあるのがむしろ当然なくらいにありふれた品物でも、最初からそこに置いてあることを述べておかないと、後出しじゃんけんのようになってしまうことがある、と私は感じています(少なくとも、私はそうです)。
チェーホフの場合、基本的に劇作家だから何を舞台の上に見せておくかについては非常に神経を使ったに違いありません。
一方、小説では文字で書かれなければそこに何が存在し、何が存在しないのか必ずしも明白ではありません。
これは何も伏線などというたいそうな仕掛けのことではなくて、単に描写の話です。
おもしろ難しいです。
その見解に反対するつもりはなく、しかし私にはあまりにも露骨なご都合主義を戒めた言葉にも聞こえます。
チェーホフの言葉とされる「もし、第1幕から壁に拳銃をかけておくのなら、第2幕にはそれが発砲されるべきである。そうでないなら、そこに置いてはいけない」(同上)は、反対に、後で拳銃を発砲するのだったら初めから拳銃の存在を提示しておけ、という教訓というか戒律のように思われます。
実は、夏コミ原稿の進みが悪い理由のひとつは、後になって登場する初登場のアイテムをどのようにしてより早い段階にねじ込んでおくかという見直しを常に行っているためでもあります。
別に特別なアイテムを登場させようとしているのではありません。コップでも何でもいい、場合によってはそこにあるのがむしろ当然なくらいにありふれた品物でも、最初からそこに置いてあることを述べておかないと、後出しじゃんけんのようになってしまうことがある、と私は感じています(少なくとも、私はそうです)。
チェーホフの場合、基本的に劇作家だから何を舞台の上に見せておくかについては非常に神経を使ったに違いありません。
一方、小説では文字で書かれなければそこに何が存在し、何が存在しないのか必ずしも明白ではありません。
これは何も伏線などというたいそうな仕掛けのことではなくて、単に描写の話です。
おもしろ難しいです。