前回に引き続き大阪城の下見報告。
大手口より大阪城内に入る。ここから入るのがもっともメジャーな方法で、その昔、NHK大阪放送があった場所は大型バスの駐車場となっているので、バスを利用した観光客もこの門から入るのだろう。
大手門。向こうに見えるのが多聞櫓。例によって
[大阪市立図書館デジタルアーカイブ]から、大正から昭和初期の大手門あたりの写真を掲載します。「大手口」の様子は今とそう変わらない。
写真の門は「大手門」。ここが大阪城の正面玄関で「追手門」ともいわれる。他の「玉造口」「京橋口」「青屋門口」は「裏門」ということになり、「裏門」のことを城郭用語では「搦手(からめて)」という。
正面玄関の割になんか頼りなげな門だが、黒塗りの鉄扉や後ろを支える控え柱でその重要性が分かる。
屋根の瓦に注目すると、「葵」と「巴」のマークを発見。
下の左から「桐(きり)」「葵(あおい)」「巴(ともえ)」。
大阪城を見学するとき、屋根の瓦に注目するのも面白い。マークによってその建物の建造された年代が分かることがある。
要するに、16世紀後半に豊臣秀吉がつくった大坂城は、17世紀前半の江戸幕府による大坂城の再建で、石垣もなにもかもが埋められたので、現在、地表に出ている秀吉時代のものは何もない。まずこれをしっかり覚えておく。
「桐」=豊臣家の家紋
「葵」=徳川家の家紋
ということで、「大手門」の瓦の「葵」は、「大手門」が徳川時代のものである証拠で、1628(寛永5)年に創建された御年「389歳」の由緒ある建物なのだ。
ちなみに「巴」は日本の伝統的な文様のひとつで、古代にアクセサリーとして愛用された「勾玉(まがたま)」を図案化したという説もある。
じっくり見たら「巴」は水が渦を巻いているようにもみえ、落雷や失火の火事が一番怖かった人々が「火災除け」として、平安時代ぐらいから瓦のマークに使用されるようになった。
そういえば天守閣の屋根にある一対の「鯱(しゃちほこ)」も、火事の時には水を噴出して消火することを期待して設置された。残念ながら、豊臣時代の初代天守閣は、1615(慶長20)年の「大坂夏の陣」で焼失して「33歳(推定)」で、徳川時代の2代目天守閣は1665(寛文5)年の落雷で全焼してわずが「40歳(推定)」でその命を終えた。
よって、1931(昭和6)年11月に完成した現在の3代目天守閣が、大阪城の歴史の中で一番長寿を誇っているのである。現在御年「86歳」。
名古屋城の鯱 [かわいいフリー素材いらすとや」より
このあたりの最大注目ポイントは、「大手門」入った右の控え柱の継手。柱の下部の腐食がひどかったので、1923(大正12)年、補強のための「継手」を「石浜組」の創業者・石浜太郎平氏が手掛けた。後年「石浜組」は「田中建設株式会社」となり、その会社のホームページにこの継手の謎が紹介されているので、ぜひ見てほしい。
[田中建設株式会社 大手門柱継手の謎]
以下次号