くりきんとんの『自転車に乗って』

くりきんとんの『自転車に乗って』、 いい風を運んでいきます
“Every day is a new day.”

短編小説

2009-05-10 18:51:57 | Weblog
短編小説です。

「余命は、あと半年もないくらいです。」

担当医の口からこう言われ、頭の中が真っ白になった。その後いろいろと聞かされたものの涙が止まらず、一人っきりで話を聞かされた私は、担当医の話を聞くのも精一杯だった。
いい大人が、ただひたすら声を上げることも無く、涙だけをボロボロ流しながら静かに泣いていた。

そもそも、覚悟はできていた。
1週間以上高熱が下がらず、体力が衰えていく状況を見かねて急遽入院してから、かれこれ1週間以上経っており、その間、連日採血したり、検査したり、いろんな種類の薬を試したけれども、一向に熱は下がらない。どころか、会うたびに彼女の様子はみるみる変わっていった。
日に日に弱っていく。気丈な彼女が弱気になっていく。酸素を吸入し始め、検査のために個室へ移ることになり・・・。
ここ数日でのあまりの急展開に、もう何が何だかわからなくなった。
「2週間前までは、こんなんじゃなかったのに。」

本人も「この症状は、おそらく血液系の病気かも。白血病か悪性リンパ腫か・・・」なんて口にしていた。
彼女は若い頃看護婦の仕事をしており、担当の科は違うものの、それなりに病気に対する知識は、他の人よりも詳しかった。

担当医の話が終わり、「さて、どうしたものか。」と考えた。
とりあえず、身内に連絡をしなければ・・・。それに、自身の心の動揺もなかなか収まってくれそうにない。この状態では、すぐに病室に戻れなかった。

事態はかなり差し迫っていた。とにかく、一刻も早く知らせなければ。
気持ちを抑えつつ、彼女の長男の携帯電話に連絡する。
既に入院したことは伝えてあったし、入院してすぐに、お見舞いにもかけつけてくれていた。
仕事中であるにも関わらず、彼はひたすら長い説明を聞いてくれた。相手も相当な驚きようで、「すぐにでも担当医から話を聞きたい。」とのこと。さすがに諸々のこともあり、彼は翌日一番で話を聞きに行くことになった。

その後、自らの家族にも連絡をとった。今後の入院スケジュールがどういう展開になるのかは判らないが、とにかく事態が深刻であり、この事態を受け入れるにあたって、家族の理解と協力は必須であった。子ども達の事だってある。私がおそらく病院に通い続けることだけは、間違いない。

ここまでの段取りが終わり、ようやく病室へ戻った。


「担当医がお呼びです。」
病室で、看護婦さんから突然こう言われ、「じゃぁ、ちょっとだけ行ってくるね。」と席を外した。すぐに戻ってくるつもりで。
なんの心の準備もないまま、【余命宣告】を受け、たまたま携帯電話だけをポケットに忍ばせていたことから、こういう展開になったわけだが、それにしても心中穏やかなはずもなく、どうにかここまでの段取りを追え、涙をぬぐって何事もなかったかのように病室に戻ってきた。


「本当の事を教えて欲しい。お願いだから。」
病室に戻るなり、母からいきなりこう言われた。
それもそのはず。「ちょっとだけ」席を外すつもりが、かれこれ30~40分は経っていた。その間、母もそれなりの事を考えていたはずで・・・。

果たして本人に【本当の事】を告げてもよいものか?
担当医曰く、
「もちろんご本人の性格にもよるのでしょうが、基本的に病院としては、今後の治療方針をご理解いただくためにも事実をお話しています。ご家族の方からお話しにくいようでしたら、こちらからご本人に説明しましょうか?」

治療してどうにかなるのであれば、こちらから話すのだが、【どうにもならない(治ることのない)病気】について、一体どうやって前向きな話をすればいいのか。
それにこの話、自分一人では判断できなかった。母は気丈なタイプだが、それでも万一のことがあっても怖い。
何よりどんな顔をして実の母親の【余命を宣告】しろというのか。気の小さい私には、そんなこと言えない。
結局、彼女には本当の事を言えず、ごまかしてしまった。彼女には、それが嘘であることを悟られていたのかも知れないけど。

「お医者さんからは、この前お話された事に、少し今後のことも含めて説明を受けたよ。やはり、血液系の病気かもしれないって。一応、兄さんにも連絡したからね。」
何気にここまで言うのが精一杯だった。

夜になり、私は家に帰ることになった。
主人が子ども達を連れて迎えにきてくれた。
「(病院の)駐車場に着いたよ。子ども達をそっちへ連れていくから、待ってて。」
数分後、久々に孫達の顔を見て、母は喜んでいた。
子ども達は、おばあちゃんのあまりの変わりように、少し驚いて言葉がすぐには出てこなかった。それでも、おばあちゃんの傍に行き、何か話していた。
「もう夜も遅いから、帰りなさい。」
母からそう促され、後ろ髪を引かれる思いで病室を後にした。

「ありがとう。」
帰り際に母がそう言った。


翌朝、兄がやってきた。一緒に病院へ行き、担当医から話を聞いた。
1日経っても事態は全く変わっていない。むしろ、悲しむ人間が増えたにすぎない。
わずかな可能性を信じて、大学病院に移るべきか、本人の体力的な問題も考慮して、このままここに残るべきか。
「とにかく、今出来るだけの事はしたい。」
我々の思いは同じだった。

兄と二人で病室へ行く。幸いにもこの日は土曜日で、兄がお見舞いにやってきても、何の違和感もない。
少しの間病室で過ごした。兄は何の話をするわけでもないが、最近の話や、母の具合をたずねたりする程度。そして、近々大学病院へ移るという話をした。
「苦労かけてごめんね。」
「苦労じゃないよ。早く病気を治さないと。」

週明けに大学病院へ転院の手続きをとった。
その後、いつものように病室で付き添っていると、彼女はこう言った。

「生まれてきてくれてありがとう。」

実は、数日前に兄と一緒に来たときにも同じ言葉を言われたのだが、数日前と今とでは、その言葉の重みが違う。

本当は、私が言うべき台詞だったのではないか。「お母さん、生んでくれてありがとう。」と。

やはり母はすべてを悟っていた。もちろん自身の病状を詳しくは知らなかったのだろうけど、自分自身が、もうそれほど長くは生きられないということと、そのことを知りつつも隠している我が子の心の中を。全てお見通しだったのだ。

翌朝、病状が急変し、母は帰らぬ人となった。

本当にこれでよかったのだろうか?
本当の事を告げることなく、母にろくにお礼の言葉を言うこともなく終わってしまった。
その後しばらくの間は、このことでずいぶん自分自身を責めた。

しかし・・・。
母はそんなこと思ってもいないだろう。終わったことにいつまでもくよくよしていても仕方ない。
おそらく、これ以上のことはあり得ないのだし、これが全てなのだ。

私には、今、生きている家族のことを大切にしていかなければならない。いったい誰が彼らを守るのか。
だから、もうこれ以上自分を責めるのはよそう。今生きていることに感謝して、前向きに生きていかないと。そして、大切な人たちを守っていかないと。

あれから2年の月日が流れた。

今日、庭でバラのつぼみを見つけた。
私は植物を育てるのが苦手で、というか、かなり無頓着な性格で、母が実家からこちらへ持ってきた植木は、申し訳ないが、ずいぶんと枯らしてしまっていた。
しかし、唯一残っていたのが鉢植えのバラで、これを、主人が私の知らないうちに、丁寧に庭に移し変えてくれていたのだった。
相棒よ、ありがとう。

もうすぐ咲くよ。

今日は母の日。「お母さん、生んでくれてありがとう。」











コメント (2)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 明日は何の日? | トップ | 『帰れない二人』 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
短編小説ですか… (いま)
2009-05-12 01:50:31
これはくりきんとんさんの実話ですか?家族を亡くすのは本当につらいです…。涙がでました。私はかれこれ17年前に弟を亡くしました。余命2週間と診断された白血病でした。その後なんとか持ち直し、1年8ヶ月命を長らえましたが、壮絶な闘病生活。幸い私の両親は健在です。子供を亡くした苦しみ悲しみを味わった分、大事にしてあげないと…といつも思っていますが…。
返信する
事実は小節よりも・・・ (くりきんとん)
2009-05-12 13:31:29
いまさん、つらい出来事を思い起こさせてしまい申し訳ありませんでした。弟さんのこと、大変でしたね。いまさんとご両親のお気持ちを思うと簡単に言葉にできません。ごめんなさい。

人間誰しも心の底に、いくつか辛い思いがあるのかもしれません。もちろん、常日頃からそのことだけを考えているわけではない。普段はなんでもないんだと思います。ただ、時折思い出し、それをかみしめることもあります。

心の底に沈んでいた澱に、ふと目を留めてしまいました。
もう拘り続けたくなかったから。前を向いて歩くため、気持ちを整理する意味で書きました。

返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。