恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

恐怖日和『口禍~くちわざわい~』

2023-10-14 13:43:54 | 恐怖日和
  
  
 職場の新人男子岩田君には、すでに新築一軒家で共に暮らす結婚間近の彼女がいるという。
 岩田君の実家は裕福らしく、なので二十歳そこそこでも、新人という立場でも、結婚の二文字に躊躇することがないのだろう。さらに高級車で通勤までしているし――
 職場の駐車場で見る度に古い軽自動車の自分は羨ましく思っていた。
 毎日が、仕事ですら楽しそうに、岩田君は人生を|謳歌《おうか》している。そこもとっても羨ましかった。

 ある日の休日、ショッピングに行くために軽自動車を走らせていると、見覚えのあるナンバーの車が前方を走っていた。
 あれ? 岩田君と同じ?
 だが、彼の車はシルバーのセダンだが、前を走る車は丸っこくて可愛らしいピンクの車だ。もちろん分類番号等は同じではないが、一連指定ナンバーはまったく一緒。
 あ、彼女さんだ。
 ピンときた。きっと同じ番号で登録しているのだ。
 その車は自分と同じ行先のショッピングモールに入っていった。
 どれどれ、未来の嫁の顔でも拝んでやるか。
 興味津々で同じエリアの駐車場に止め、見失わないように急いで降りて、後を追った。
 後姿はかっこいい岩田君とお似合いな可愛らしい雰囲気をまとっている。
 もしかしてナンバーの一致はただの偶然かもしれないが、入口の手前で思い切って声をかけてみた。
「こんにちは、あのぉ――ぜんぜん違っていたらごめんなさい。もしかして岩田君の彼女さんですか?」
 呼びかけに、びっくりした顔で彼女が振り向いた。あまりに突然で、しかも見知らぬ女に声をかけられたのだから当然だろう。
「あ、わたし岩田君の同僚です。よく岩田君から|惚気《のろけ》話聞かされてるんですよぉ。で、彼女さんで間違いないですか? 違ったら、わたしすっごい迷惑女なんで申し訳ないんですけど――」
 そう言うと|訝し気《いぶか げ》に歪んでいた彼女のきれいな顔に満面の笑みが咲いた。
「そうです。岩田の彼女です。彼の同僚さんですか――やだ、どうしてわたしのことわかったんですか?」
「車のナンバーが同じなの見かけて、もしかしてそうかなって――あ、たまたまわたしもここに買い物があって、追っかけてきたわけじゃないですよ」
 ゲスの勘繰りに思われるのが嫌で、慌てて言いわけした。
「そうなんですか」
 彼女は何も疑わず、にこやかに微笑んだ。
「で、きょうは岩田君と一緒じゃないの?」
「ええ。彼は用事があって――わたしも自分の買い物があったんできょうは別行動なんです」
「もうすぐ結婚式でしょ。もう新居にも住んでるんですって?」
 そこまで言って彼女の顔色が曇ったことに気づいて、
「ああごめんなさい――やだどうしよ。岩田君自身に聞いたとはいえプライベートなことをべらべらと。お喋りなわたしも悪いけど、会社でお喋りしている岩田君のこと叱らないであげて」
「大丈夫です。叱りません」
 そこでくすくす笑って、
「ほんと、男のくせにお喋りだなって思いましたけど――」
「だよね。でもよかったぁ。彼女さんが許してくれて。
 岩田君、すごく幸せそうに話してるんですよ。可愛い彼女さんと住む新居はお洒落でさらに新築、しかも誰もが憧れる一等地。そりゃ自慢もしたくなっちゃうわよね」
「え?」
「あ、やだまた喋り過ぎちゃった――」
「彼ったらそんなことまで喋ってるんですか――」
「うん。もう鼻の下、こーんな伸ばして、W市K町のS台なんだよって。あそこ高級住宅地だよね。普通あの若さじゃ買えないけど岩田君お金持ちだし、しかも親御さんが全部用意してくれたんでしょ?」
「ええそうなんです」
「ああうらやましい。わたしもあと二十年若ければね~岩田君を横取りして――なーんちゃって、冗談よ。二十年どころか三十年若くてもこの顔じゃ無理だわ。あなたみたいにきれいで、かわいくないと」
「とんでもない、そんなことないですよ」
 彼女は慌てて手をひらひらと横に振り苦笑を浮かべたが、まんざらでもなさが滲み出ている。
「あら、ごめんなさい、お忙しいのに引き留めて。じゃ、岩田君によろしくね」
 バイバイと手を振り店の中に入ると、
「ありがとうございました」
 後ろから明るい彼女の声が返って来た。
 わたし、何かお礼言われるようなこと言ったっけ? あ、きれいでかわいいって褒めたか。そんなぐらいで嬉しそうにお礼言ってくれるなんて、性格もなかなかかわいいじゃん。
 そう思いつつ笑顔で振り返ると、足早に車に戻っていく彼女の背中が見えた。

「おはようございます」
 職場に着いたが、挨拶しても異様に騒がしく、こっちを見る職員が誰もいない。
「どうしたの?」
 ロッカー室で隣にいた同僚に声をかけた。
「わたしも来たとこで詳しいことはわからないんだけど――岩田君がなにか事件に巻き込まれたらしいって――」
「ええっ? なにがあったの?」
「さあそこまでは――」
「襲われたんだって、彼女と一緒に」
 ロッカーの陰から別の同僚が顔を出して教えてくれる。
「彼女のほうは亡くなったみたいだよ」と、声を潜めて続けた。
「なんでっ――」
 きのうの嬉しそうな彼女の笑顔を思い出して声が詰まった。
「それがさ、ずっとストーカーに狙われていたんだって」
「ええっ! 彼女さんが?」
 再び彼女の微笑む顔が思い浮かぶ。
「違う。違う。岩田君が」
「え?」
「わたし前に、岩田君が課長に話してるの聞いたことあるんだ。彼、全然知らない女にずっとストーカーされていたんだって。結構ひどい女らしくて。警察が警告してもへっちゃらだし、ストーカー法違反で逮捕してもまた戻ってくるしで。で、彼の両親がいずれ恋人と結婚するんだからって、ひっそり遠く離れた土地に新居準備してくれて、職場も変えて。ストーカーにばれずにうまく逃げられたんだって。
 せっかく喜んでたのに、なーんでばれちゃったんだろう。きっと岩田君、安心して油断しちゃったんだね」


恐怖日和『一本又峠』

2023-04-01 17:04:33 | 山路譚
  
  
               1

「これからお前の歓迎会開くから」
 パソコンに向かう充明の肩を浜西が勢いよく叩いた。
「えっ、これからっすか? 僕まだ仕事残ってるんすよ、っていうか、なんで? もう三か月経ってますよ。いいっすよ。今さら」
「バーカ。課長が奢《おご》ってくれるからだよ。俺はな、お前の歓迎会を開こうと課長に三か月粘りに粘って頼み込んだんだよ。どうだ、この先輩の愛情」
「いやいや課長にたかって愛情もくそもないですよ。先輩がただ酒飲みたいだけっしょ」
「がはは。そうかもな。
 ってわけで、仕事が終わったらすぐ来なさい。はい、これ」
 浜西が社用車のキーを差し出した。ストラップにしては大きすぎる編みぐるみのクマがぶらぶらと揺れている。
「仕事終わってからって――あのう、僕の歓迎会なんすよね? みんな先に行くって、僕も終わっちゃあいけないんすか? しかも車で来い? じゃお酒飲めないじゃないっすか。それとも帰りは誰かの運転で送ってくれるんすか?」
「うん。アルコールだめのてっくんとふうちゃんが自車でそれぞれ俺らを送迎してくれることになってる。
 あ、でも君はこのおんぼろ軽のバンちゃんで来て、帰りもバンちゃんに乗って帰る」
 浜西が目の前で、再度キーを揺らす。クマの呑気な顔が腹立たしい。
「で、車は明日の朝会社に乗って来れば万事OK! ちゃんと課長に話つけてるから、無断借用じゃないよ、安心して!
 ってことで、じゃっお先!」
 開いた口が塞がらない充明と社用車のキーを置いて、浜西はさっさと行ってしまった。
「何が先輩の愛情だぁ」
 叫んでいると浜西が戻ってきた。
「あっ、そうそう、はいこれ、居酒屋の地図。お前まだここにきて日が浅いから道も店もわからないだろ? 
 安くておいしいお店って隣町にしかないから、ちょっと遠いんだよね。だから最短の近道描いといたから」
 折りたたんだ紙を机に置くと今度こそ本当に行ってしまった。
「もーっっ」
 頭をぐしゃぐしゃと掻いて充明はキーボードを乱暴に打ち始めた。

 小林充明が勤務する総合アパレルメーカーの支社は山間部の小さな町、鬼志谷町にあった。
 本社はビルの立ち並ぶ県庁所在地にある。
 充明は難関を突破しそこに籍を置いていたが、上司の失敗を押し付けられ、夏休み明けに支社に飛ばされた。
 怒りに任せ辞表を叩きつけてやろうかと思ったが、仕事がなければ生活ができない。苦労して入った会社だ。やめさせられないだけマシだと思うことにした。
 軋《きし》んだ心はなかなか元に戻らず、しばらく人間不信に陥っていたが、鬼志谷町にきて心の平穏を少しずつ取り戻した。
 この町の人はみな親切だった。初対面でも気さくに声をかけてくれ、困った時はお互いさまとすぐに助けてくれる。
 支社の社員たちも浜西を筆頭に、多少口さがないところもあるが、アットホームな雰囲気で出世争いや派閥などもここにはない。
 無駄なストレスがないだけでこんなにも仕事が楽しいとは、本社で過ごした日々は何だったのか。
 ここにきてよかった。
 心からそう思っていた。

               2

 業務をすべて終え、戸締りをし、バンちゃんと呼んでいる社用車に乗ってキーを回す。クマが揺れて膝に当たる。
「もう邪魔だな」
 素朴な顔をした編みぐるみは手芸が得意なみんなからふうちゃんと呼ばれている事務員の岩城楓子の手作りだった。五台ある社用車のキーにすべてつけられ、ほかにはタコ、イヌ、ネコ、カッパがあってどれもそこそこ大きい。
 以前キーの紛失者がいたので、防止のために大きなストラップを作ったらしい。車を利用する者みな口に出さないが、きっと全員がこれを邪魔だと思っているに違いない。
 好意でしてくれているのだから文句は言えないが――
 充明は苦笑いを浮かべ、バンちゃんを発進させた。
 浜西にもらった紙を片手で広げる。A5のコピー用紙にフリーハンドで大雑把な地図が描かれていた。
 会社前の二車線の道を左に折れ、二つ目の信号までの赤ラインを確認すると助手席に地図を置き、スピードを上げた。
 一つ目の赤信号で止まると再び地図をチェックした。
 次の信号を右か――
 赤ラインは簡素な山の絵に続いていた。くねくねの山道に赤色が走っている。てっぺんあたりに一本又峠と記されていた。
 信号が変わり、次の信号まで進む。対向車どころか先行車も後続車もない。
 時計の表示を見ると午後七時を過ぎたところだった。
 まだこんな時間なのに空いてるなんて――さすが田舎道だな。
 次の信号は赤にかからず、ウインカーを出して順調に右に曲がった。
 ヘッドライトに浮かぶ紅葉の隙間から案内標識が見える。
『一本又峠
  本路町 ↑』
 その下に一車線の道がまっすぐ伸びていた。

               3

 峠道の幅員は対向できるぎりぎりの広さしかなく、街灯も少なくてとても暗かった。
 点在する民家の明かりも山に上がるにつれ見えなくなった。
 いったん路肩に止め、室内灯で地図を確認する。
 山の左横には本路町と書かれ、山を抜けた赤ラインはそこに向かう直線の道に重なっていた。
 信号マークを二つ越え、三つ目の信号で左折、そこから『500mぐらい走る』と走り書きされ、店の名前とそれを囲む赤い二重丸にたどり着く。
 山のカーブきついだろうな。おんぼろバンちゃんで辿り着けるかな。
 充明は急に不安になった。運転は得意なほうではないし、暗い山道を走ったこともない。
「まっ、注意しながら行けばいいか。道筋はわかりやすいし、こんな峠じきに越えるだろ。
 よしっ」
 ぱんっと太ももを叩いて気合を入れ、バンちゃんを発進させた。
 暗い道を慎重に走らせながら、そう言えば一本又峠にはなにやら謂れがあったなと、てっくんこと鉄井が話していたことを思い出す。
 この町に伝わる都市伝説らしく、その手の話が大好物な鉄井に、ここに来たばかりの頃、怖い話を知らないかしつこく訊かれた。そういうものに興味がないことを告げると残念そうな顔をしたが「じゃ、聞いて」と、得意げに地元の都市伝説を話し出した。それが一本又峠の怪だった。


 町が鬼志谷村と呼ばれていたはるか昔、流れ者が村に入り込んだ。
 よそ者を受け入れない村人たちが男を追い払い、村を出て行くまで監視していたのだが一本又峠で姿を見失ったという。峠を越えた様子もなく、村に戻ってもいない。峠には化け物が出るという噂があったので、みな男は喰われたのだと思った。
 だがその後、村の某が峠で男を見かけた。何となく不気味に感じ、距離が離れていることをいいことに黙ってその場を離れた。帰ってそのことを伝えると、村一の豪傑が自分たちの目をごまかして山に住み着いていると怒りだし、鉈をもって峠に向かった。
 だが、いつまで経っても帰ってこない。心配して探しに行った身内の者が峠の入り口でよだれを垂らしぼんやりしている豪傑を発見した。何があったか問うと、峠であの男らしき姿を見かけ、こっちへ来いと怒鳴りつけたらしい。
「あいつはえらい速さで走り寄ってきて、ほっかむりした顔をぱっと上げたんじゃ。その顔が、その顔がああああ――」
 そのまま発狂したという。


「――っていう都市伝なんだけど。
 だから、峠に誰かいても声をかけちゃいけない、気づかれないようにそっと逃げろって、今でも伝えられてるんだよ。
 この町では誰か精神病んだりすると『峠で呼びかけてきた男の顔を見た』って言われる。狐憑きとかと同じ系統なんだろうね」
 と、鉄井は締めくくった。
 どこにでもあるよな。そんな話。
 だんだんきつくなるカーブにうんざりしながら、ふんと鼻を鳴らす。
 ヘッドライトに浮かぶ赤や黄色の紅葉が少なくなり、蔦の絡まる荒れた雑木林が徐々に広がってきた。

               4

 カーブはさっきから上りばかりでいっこうに下りにならない。
 とうとう街灯が一基もなくなり、真っ暗な山道はバンちゃんのヘッドライトだけが頼りになった。
「おいおいおい。先輩の地図、間違ってないよな」
 地図には一本道しか描かれていなかった。実際に脇道なども見ていないし、本道から逸れたという覚えもない。
 これで正しいのだ。
 そう思うことにしてしばらく走ったが、峠を抜けるどころかどんどん上がっていくばかりで、周囲の雑木林はますます深くなってくる。
 適度な感覚で配置されていた小さな案内標識も今は全く見かけなくなっていた。
 やっぱり自分が気づかなかっただけで脇道に迷い込んだに違いない。
 充明は車を止めた。
「いったいどこでどうなったんだよ。もうっ」
 こんなところで嘆いても仕方がなく道を戻るしかないが、余裕でUターンできる広い場所もない。
 この先にあるとも思えず、よしっここでやってみようと決心した。やってやれない幅員ではない――自信はないが慎重に切り返しを繰り返せばきっとできる。
 充明はゆっくりハンドルを操作し始めた。
 だが、真っ暗なうえにガードレールのない道での切り返しはやはり怖かった。何度も右へ左へハンドルを切り返すも、結局、焦るばかりで方向転換できず、さらに道と雑木林との間の側溝に脱輪させてしまった。
「うそだろっ」
 ばんっとハンドルを叩いて項垂れる。
 ちょっとぐらい遠回りでもいいから、峠越え以外の道教えて欲しかったよ――
 浜西の顔を思い浮かべ恨みに思った。
「もう帰りたい」
 連絡を取ろうにもスマホは圏外で使用できない。
「今時使えない場所なんてあんの? ここどんだけ山奥なんだよ。おかしいだろぉ」
 鼻をすすりながらダッシュボードを探り、小さな懐中電灯を取り出す。
 車から降りても電波の状況は変わらなかった。とりあえず光を当てて車を調べる。
「あーあ」
 左前輪が側溝にがっちりはまっていて一人ではどうにもできそうにない。
 車が通らないか数分待ってみたが、一台も来ることはなかった。
「寒っ」
 冷気がスーツにしみこんでくる。
 とんでもない道に迷い込んでしまったな。ずっとここにいたら凍死? 
「はは、まさか」
 ぞくりとした。
 通勤に使用しているオレンジ色のマウンテンパーカーを取り出すと着用し、しっかりファスナーを締めた。
 歩いて戻るつもりだった。
 ポケットに財布とスマホを入れる。歩行の負担になるのでバッグは置いておく。
 車にキーをかけてから、このまま放置して通行の妨げにならないかふと不安になった。だが、懐中電灯に照らされた道に積もる古い枯葉の上には轍《わだち》は見えない。頻繁に車が通らないということだ。
 まだ、もう少しここで待機しているべきかと迷いもあったが、これで吹っ切れた。
「おお寒っ――」
 すっぽりフードを被り、充明は来た道を下り始めた。

               5

 ポケットからはみ出したストラップのクマが歩調に合わせぶらぶらと揺れる。
 やっぱ邪魔だな。
 だが、ただの編みぐるみでも今は共に歩く心の支えだった――
 もと来た道を引き返しているはずだった。間違えないように注意して歩いていたのだ、少しのアップダウンはあっても基本下っていないとおかしい。なのに、いつの間にか道は上《のぼ》りばかりになっていた。
 何度かスマホの電波を確認したがいまだ届く場所に出ない。なので助けも呼べない。
 充明は自分が登山の上級者コースに迷い込んだハイカーのように思えた。
「ここってそんなに高い山じゃないよな。何でこんなことになるんだろう」
 そう独り言ちたあと、急に鉄井の都市伝説が頭に浮かんだ。
 うわ、こんなところでやなこと思い出した。
 もし不審な男がいたらどうしよう――って、そんなバカなことないか――いやわからんぞ。あり得るかもしれない――
 あーだめだ、だめだ、こんなこと思ってちゃだめだ。もう忘れよう――はい、全部忘れた。 
 真っ暗い山中は時間の感覚がおかしくなるのか、スマホを確認してもまだ八時台なのにまるで深夜のようだった。とりあえず時間が時間なので、ひとまず安心したが迷った道からいつ出られるのかさっぱりわからない。
 先輩たち、遅いんで心配してるかな。今頃飲んだり食ったりして僕のことなんか忘れてるんじゃないの? 
「僕の歓迎会でしょぉ。誰か気づいて助けに来てよぉ」
 充明は白い息と一緒に泣き言を吐いた。
 前方を照らしていた懐中電灯の光の環が突然闇に吸い込まれた。
「な、なんだ?」
 慌ててぐるりを懐中電灯で確かめる。レンガが囲んでいるのが見え、その闇がトンネルの入り口だとわかった。
 扁額には右側から『一本又峠隧道』と書かれていた。
「やっと峠に来た? ってことは、地図通りに戻ったってことか? じゃ、ここから隣町まで歩けばいいのか。よかった――って、いったいどんだけ時間がかかるんだよっ」
 膝が崩れ落ちそうになるのを踏ん張って充明は頬を叩き、深呼吸すると「仕方ないっ。もう少しだ、がんばろっ」と、暗い穴に踏み込んだ。

               6

 暗く湿ったトンネルは山の中よりも薄気味悪かったが、それほど長くはなく、上りから下りに変わると出口が見えてきた。半円の向こうがきらきらと光っている。
 それを見て出口に向かって走った。
 トンネルを抜けると宝石をちりばめたような光輝く町が左側の眼下に広がっていた。
 これほどきれいな夜景を今まで見たことがなかった。
「よっしゃぁぁぁ」
 光を目印に坂道を下る。
 だが、町の光は下っていくにつれ木々に隠れ始め、完全に見えなくなってしまった。
 それでもこの道を下り続ければ地図に記された道に出るはずだ。きっと目印の信号もあるに違いない。
 そう信じ、充明は雑木林に挟まれた道をひたすら下った。

 ところが気が付くと再び山中に迷い込んでいた。
 アスファルトの車道を下っていたはずなのに、今は樹海のような深い雑木林を彷徨っている。もう町の方向がどっちだったのかさっぱりわからなくなっていた。
「なんなんだよぉ――なんなんだよぉ――」
 折れた枝や飛び出た根っこに足を取られ転びながらも、充明は懸命に歩いた。
 電池が切れて懐中電灯の光が消えた。暗闇の中を一歩も進めなくなりしゃがみ込んだ。スマホのライトを使いたいが、電波が届く場所に来るまでバッテリーを消耗させたくなかった。
 あまりの寒さにフードの紐を締められるだけ締めて顔を隠し、時々服の上から腕や腿を激しく擦った。両手の平で鼻と口を囲み、はあと息を溜めて冷たくてもげそうな鼻も温めた。
 暗闇に目が慣れてくると、思いのほか周囲が見えることに気づいた。ぼんやりとだが歩けないことはない。
 立ち上がった充明はゆっくりと歩を進めた。
「あっ」
 走行音が聞こえる。
 少し先の木々の向こうからちらちらと光が近寄って来た。
 車だっ。あのあたりが車道なんだ。
 枝を散らし、枯れた倒木につまずきながらヘッドライトを目指して走った。
 間に合ってくれっ。
 車道に飛び出すと大きく両手を振った。
 目の前で車が停止する。
 急いで運転席側に近づき、不審者に思われないよう笑みを浮かべて会釈し、
「すみません。道に迷った者ですが――」
 開けてくれるのを待たず、息を弾ませて窓を覗き込んだ。
 ドライバーが身動きもせずにこちらを見つめている。その顔が浜西に似ていた。
「あれっ先輩? 探しに来てくれたんですかぁ」
 充明の目に涙が浮かんだ。
 やっぱり浜西さんはいい人だ。
 だが雰囲気が少し違う気がする。なんとなく老けているような――兄弟か親戚なのか?
 確かめるためガラスに張り付いた。
 するとドライバーの顔がみるみる歪み、裂けるほど大きな口を開けて悲鳴を上げた。
「あ、やば。やっぱり先輩じゃなかった――
 すみません、怪しいものじゃないです。道に迷ったんです。乗せてって下さい」
 懸命にガラスを叩く。
 しかし車はいきなり発進すると、止める間もなく猛スピードで道を下っていった。
 充明は再び暗闇に取り残された。
「なんでだよぉ」
 肩を落としてふらふらと車の跡を追いかける。
 子供のように声を上げて泣きながら、そのまましばらく歩き続けた。
 我に返るとまたもや暗い雑木林に迷い込んでいた。

               7

 浜西が精神を患って入院してからひと月が経った。
 鉄井は不謹慎だと思いつつも心が弾むのを抑えられなかった。発病が峠を通った後だと知ったからだ。
「絶対、一本又峠の怪だよな」
 ふうちゃんと噂話をしていると、横を通った課長に頭を小突かれた。
「馬鹿なこと言うな」
「でも課長。きっと峠は関係してますよ。小林さんもあそこでいなくなったし」
 小林はトンネルの少し手前でバンちゃんを側溝に脱輪させていなくなっていた。
「あのな、鉄井。小林は左遷させられた悩みから失踪したんだ。あいつがミスしたわけじゃなかったのに――
 本社で問題になってたろ。自分の失敗を部下に擦《なす》りつけたやつのこと。小林ももうちょっと我慢していれば本社に戻れたかもしれんのに――
 しかし、いなくなって何年経つんだ。五年か、六年か――」
「七年ですよ、課長。わたしのクマちゃん持ったまま」
 ふうちゃんがデスクに緑茶の入った湯呑を置く。
「そうか。もうそんなに経つか――」
 課長が深いため息をつき、茶をすすった。
 だが、鉄井はいまだに充明が自ら失踪したのではないと思っている。
 小林さんには身辺を整理した様子も書置きもなかった。支社に来た当初ならともかく、あの頃にはもうみんなと仲良くやっていたから思い悩んでいたとは思えない。
 バンちゃんが脱輪したんで歩いて峠を越えようとしただけだ。きっとそこで何かが起こったんだ。
 そう課長に何度も言ってみたが聞いてくれなかった。鉄井の説が都市伝説に由来しているので子供じみた話だと相手にしてくれないのだ。
 どこかで自殺している。はっきりと口にしないが課長はそう思っているのだろう。
 だが、鉄井は自分の説を信じていた。
 今現在ネットで飛び交う『一本又峠の男』の目撃情報。
 クマの人形をポケットからぶら下げたオレンジ色の男が雑木林の中に立っているという。
 小林さんは同じ色のパーカーを持っていた。人形はふうちゃんのだろう。
 きっと浜西さんは一本又峠の男になった小林さんの顔を見てしまったんだ。

               *

「いったいここはどこなんだ? 早く行かなきゃ、僕の歓迎会だ。先輩たちきっと待ってる」
 充明は膝まで埋まる下草を踏み分けてますます深くなる雑木林を歩き続けていた。
 立ち止まってスマホを確認する。相変わらず電波は入ってこない。
 時間の表示はさっき先輩に似た人の車に逃げられてから数分しか経っていなかった。
「あれからずいぶん歩いたと思うけど――山の中はやっぱり時間の感覚がへんだな」
 なんだかおかしくてくすくす笑っていたが、微かな走行音が聞こえてきて顔を上げた。
 ヘッドライトの光が木々の間から見え隠れしながら近づいてくる。
「おーい。おーい」
 充明は大声を上げ、車に向かって走り出した。

恐怖日和『ここ見てみ』

2023-02-20 14:57:56 | 恐怖日和


 10歳くらいの痩せた少年。
 被害を受けた数人の幼児たちが口をそろえてそう証言した。
 みな3~5歳くらいなので、ただ「おにいちゃん」というのが実際の言葉なのだが、警官や親たちがなんとか訊き出し、ようやくその風体を形作った。
 だがショックを受け過ぎて放心状態の子もいるという。

 ほとんどの幼児は親と一緒に公園に来て、目の届く範囲で遊んでいるが、被害児たちはほんの瞬間目を離した隙にいなくなってしまったのだそうだ。
 彼らは遊び場から離れた遊歩道の途中にある公衆トイレのそばに引き付けられるように集まり、そこでその少年に出会ったという。
 これも拙い証言から要約したものだ。

「ここ見てみ」
 謎の少年は被害児たちを見ながらそう言い、トイレ横の側溝を指さした。
 幼心に不審を抱きながらも好奇心に駆られ、被害児たちはつい側溝を覗いてしまった。
 コンクリートで囲んだありふれた側溝はグレーチングという鉄格子の蓋がはめられていた。中は暗くて何も見えない。一体何を指さしたのかわからず、被害児たちは視線を上げ、首を傾げながらお互いの顔を見合わせた。
 少年は「よう見てみ」と、もう一度側溝を指さす。
 夥《おびただ》しい数の蟻が列をなして四方八方から側溝へと侵入していく様を横目に、グレーチングの奥へと焦点を合わせた被害児たちの見たものは、やはりただの闇の黒だった。
 しかし、その闇はぞわぞわ蠢いて見えたという。 
 少年がしゃがみ込み、ふうううっと大きな息を吹きかけると暗闇がざああと散らばった。
 深い側溝の陰だと思っていたものはすべて蟻だった。
 実際は浅かった底に転がる蟻群の下から出てきたものを被害児たちはもろに見てしまう。
 それは額がぱっくり割れた女性の頭部で、へこんだ白い眼球がきょろりとこっちを見たという子もいた。
 恐怖で悲鳴を上げたり、泣き叫んだり、被害児がパニックに陥っている間に少年も頭部も跡形なく消えていたという。

 警察は手の込んだ悪質ないたずらと判断し、目撃者や地域に住む少年たちを調べてみるも証言に合う少年は特定できなかった。また女性の頭部も見つかっておらず、両方とも実在しているのかどうかいまだわからずじまいで、心に傷を負った幼児たちだけが残された。


 その男は未来から来たという。
 SF的だが、そんな科学的な話ではなく、未来といってもほんの十数年後らしい。
 男は生首を入れたレジ袋を持っていた。
 そんなものを持って、なぜ突然僕の部屋に来たのか、男自身もわからないと言った。指名手配されての逃亡中、気づいたらここにいたという。
 今は男にとって過去だから、追い出しても逮捕される心配はないだろうが、ヤバそうなバキバキの目をしているし、持っているものからして職質でもされたら一発アウトだ。
 だから追い出しはしなかった。

 男は幼い頃に受けたトラウマで外に出られなくなったらしい。常に頭の中がぞわぞわ落ち着かず、殺人衝動に駆られていた。
 そしてとうとうある日の夜遅くに家を出て、帰宅途中の女性を鉈で襲って首を切断したのだそうだ。首から下は道端に放置、その場を後にして逃亡した。
 頭の中のぞわぞわが消えていたという。
 僕も幼い頃、男と同じトラウマを負っていた。もう十歳にもなるのに小学校に通うどころか、玄関から出ることすらできなくなってしまったのはそのためだ。
 あの日あの時、側溝の女の生首を見たせいで外に出られなくなったのだ。まともな食事もできず、肉を食べても吐いてしまう。口にできるのはお菓子類だけ。
 頭の中がぞわぞわと落ち着かず、こんな気持ちをわかってくれるのはこの人だけと思ったが、レジ袋を置いたまま、男は来た時と同じく唐突に消えた。
 袋の中身を確認する。あの時の、額がぱっくり割れた女性の生首だ。白く濁った目が虚ろに開かれている。
 でもただそれだけだ。
 きょろりと動いたように見えたのは、幼い恐怖心が見せた錯覚なのか。それとも眼球内に入り込んだ蟻が蠢いていただけなのか。
 僕は生首の髪を引っつかんで勢いよく立ち上がった。
 ぐらりと立ち眩みがして、気づけば遊歩道の、あの公衆トイレ横の側溝脇に立っていた。
 遊び場から子供たちのはしゃぐ声が聞こえてくる。
 僕はグレーチングを持ち上げ、側溝に生首を転がした。
 腐肉の匂いに誘われた蟻がすぐに集《たか》り出し、いくつも列を作る。生首は瞬く間に真っ黒になった。
 しばらくして幼い子供たちが集まり始めた。
 あの中のどこかに自分もいるのだと思いながら、
「ここ見てみ」
 そう言って、僕は側溝を指さした。

恐怖日和『牽制』

2023-02-18 17:01:05 | 恐怖日和


 新しい職場に入社が決まった時から、同じ部署にイケメン君がいると、聞くとはなしに聞いていた。
 まだ右も左もわからないうちからそんな噂が耳に届くのだから、会社ではよほどの有名人なのだろう。
 イケメン好きではない自分からしたらどうでもいい話で、でも同時入社のギャル、栄田さんにとって鼻息を荒くする噂だったらしい。
 指導係の先輩に連れていかれた部署には、確かに誠実そうで柔らかい物腰のイケメン君がいた。
 だが、訊いてもいないのにイケメン君本人から彼女がいることを告知され、さらに牽制のつもりか、スマホの待ち受けを半ば強引に見せられた。
 写真には彼と並んだ、わたしや栄田さんよりはるかに美人でレースやリボンがよく似合う髪を縦カールした女性が映っていた。
「彼、タイプだったのにぃ」
 イケメン君が立ち去った後、歯軋りする栄田さんに、
「いい男は女がほっとくわけないですよ」
 そうわたしは笑った。
「よっしゃぁ、あの女から略奪するぞっ」
 こういうことに闘志が燃えるタイプなのか、こぶしを握って栄田さんが意気込む。
 やれやれと心の中で苦笑した。栄田さんにもだけど、イケメン君にもだ。
 モテないのもつらいけど、モテるのも大変なのだ。

 あれから数か月が経ち、結局、栄田さんは己に勝ち目がないとわかって略奪を諦めた。それでも時々イケメン君の端正な横顔を物欲しげに眺めていたが。
 そんな頃、イケメン君に昼食を誘われた。
 断る理由がなかったので、会社の近くにあるパスタ屋に一緒に行くことにした。
 店に到着してから栄田さんも誘ってあげればよかったと後悔した。その場にいなかったのでつい失念したのだ。
 もしこのことが彼女に知られれば、いくら諦めたとはいえきっと恨まれるに違いないと、自分のうっかりを悔やんだ。
 今からでも呼ぼうかと考えてみたものの、なぜイケメン君がわたしを誘ったのか――例えば栄田さんがいまだしつこく言い寄ってくるとかなどの相談をしたいのなら呼ぶことはできない。
 だが、注文したパスタが来るまでの間も、来てから食べ終わるまでの間も、お勘定を済ませて――ちなみに|奢《おご》りではなかった――会社に戻るまでの間も、一切相談事のような話はしなかった。
 イケメン君がずっと口にしていたのは、わたしに対する賛辞だった。
 仕事の覚えが早い。ミスが少ない。化粧や身につけるものがシンプルなのに女らしさも表現できていて。さっぱりした性格で、いざこざが多発する職場の中でも柔軟に上手く対応できているなどなど。
 会社に戻る道すがらも歯の浮くような賛辞が次々と並べられた。
「はあ――まあ――そう言ってもらえて――えっと――うれしいです」
 戸惑いつつ栄田さんを誘わなくてよかったと心から思った。こんな話聞かれたら、栄田さん、いや女子全員を敵に回しかねない。
「でさ、澤路さんは彼氏いるの?」
 はあ? 
 思わず出そうになった声はうまく呑み込んだ。相手は先輩だ。
「いえ、今はいませんけど」
 もしかして誰か紹介しようとしてる? うわっめんどくさ。先輩の紹介って断りにくい――彼氏いるって言えばよかったーっっ、後悔先に立たず。
 イケメン君は会社の玄関脇に立ち止まると、満面の笑みで、わたしの手を握った。
「澤路さん、ぼくと交際してください」
「はあ??」
 今度は思いきり声が出てしまい、その大きさに自分で驚いてきょろきょろしてしまった。
「いやいやいや、イケメンじゃなく――佐藤さん、かわいい彼女さんいるじゃないですか。だめですよ。そんなこと言っちゃ」
 冗談にしても気しょくて笑えない――でも、ふざけんなって怒るのも大人げないし。
 そう頭の片隅で考えながら、
「ははは、やだなーもう」
 笑ってごまかし、手を振り放した。
「ぼく本気だよ。理想に合う女性をずっと探してたんだ」
 もうわけわからん。だいじょうぶか、こいつ――
 わたしの笑顔が消えたことに気づいたのか、イケメン君はポケットからスマホを取り出して待ち受けを見せた。
「これね、フェイク画像なんだよ。SNSで見つけたかわいい女性の写真を自分の画像と合成したんだ。ぼくってむやみやたらモテるでしょ。だから、いい寄る女性を牽制するために」
 あー、はい、はい。そういうことでございますか。ご苦労なことで――でも、牽制のためっていうのは当たってたんだ。って、今そんなこと言ってる場合じゃない。
 わたしは背筋を伸ばし、両手を前に重ね、丁寧に頭を下げた。
「すみません、佐藤さん、お気持ちはありがたいんですけど、今は仕事が大事というか、誰ともお付き合いするつもりはないんで――」
「はあ? もしかして断ってる? このぼくが見初めて上げた女性なのに?」
 うわっダメだ、これマジでトリハダものだ。
「はい。お断りさせていただいております。
 はっきりいってタイプじゃないし――理由の大半はそれです。もう一回いいましょうか? 
 お断りいたします。
 イケメンだからって、誰もかれもあなたの顔が好みなわけじゃないんですよ」
 わなわなと震え、それ以上何か言うことも動くこともできない顔だけイケメン君をその場に置いて、わたしは玄関の自動ドアをくぐった。
 中に入るとドア横の壁にもたれて栄田さんがわたしを睨んでいた。今の件をすべて見られていたに違いない。
 もうっ次から次へと――
「玄関出たら、佐藤さんに手握られたあんたが見えたのよ」
 凄まじい殺気をつり上がった目から発射して栄田さんが私の前にゆっくり近づいてくる。
「わ、わたし、栄田さんを出し抜こうとしたわけじゃないですよ――えとぉ、どう言ったらいいのか――」
「向こうが勝手にいい寄って来て、あんたがそれを断ったってことだよね」
 栄田さんがにっと笑った。
「そ、そうっ! ちゃんとそこも見ててくれたんだ。あーよかったぁ」
 安堵の息を吐いてわたしは胸を撫で下ろした。
「だって澤路さん、ごつい顔のマッチョが好きじゃない」
「え。知ってたんですか?」
「うん。もしかして隠してた? なら待ち受け、プロレスラーにしちゃだめだよ」
「別に隠してるつもりなかったけど――いやあ見られてたか――あはは」
 わたしが笑うと栄田さんもぷっと吹き出し、
「でもさ、あいつ何様? 超幻滅したんですけど」
 そう言いながらドアのガラス越しに外を覗く。
 そういやイケメン君入ってこないな。くそ高いプライドずたずたにされてまだ動けないの? 生意気な割にメンタル弱いのね――
 そう思いながら栄田さんの隣から外を覗こうとした時、
「ねえ、あれ」
 栄田さんが指をさす。
 玄関前の歩道に突っ立ったままのイケメン君の前にあの待ち受けの彼女がいた。
「え、フェイクって言ってたのにウソだったの――」
「しっ」
 栄田さんが遮り「なんか言い合いしてる」と言いながら、ドアに耳を付けて二人のやりとりを聞いている。
「彼女、あんたにいい寄ってた佐藤を裏切者って罵ってるよ」
 栄田さんがふんっと鼻を鳴らし嗤った。
「じゃ、やっぱり本物の彼女の画像だったんだ。ひどい。わたしを騙すなん――」
「ちょっ待って、お前なんか知るかって佐藤が怒鳴ってる。フェイクって言うのは本当なのかも」
「え? じゃ、そっくりなあの彼女は一体?」
「たまたまフェイクに使った写真の本人が、佐藤の待ち受けを真に受けたってことじゃない? 普通そんな使われ方したら不愉快で抗議しそうだけど、相手がイケメンだし、あの女メンヘラってそうだから、マジで自分が恋人だと思い込んじゃったみたいだね」
 さもおかしそうに栄田さんが「ぷぷっ」と吹き出し、
「いやあまさかこんなことになるなんてね」
「え?」
「佐藤がさ、わたしに全然なびかないから、腹いせにあの待ち受けを写真に撮ってSNSにアップしちゃったんだよね。
 ほらあいつスマホそこらに置きっ放しにしてるじゃん、その隙にさ、イケメン先輩、恋人とラブラブで~~すってコメントと一緒に」
「ええっ!」
「絵に描いたような美男美女カップルなんか炎上しろって思ったけど、結構評判良くってよけいムカついてたんだよね。まさかフェイクだったなんて――おまけにこんなことになるなんて」
「えええっ!」
 怖っと思いながら驚いていると、まだ二人の様子を窺っていた栄田さんの表情が一変した。
「うわっやば――」
「どうしたの?」
 つられて外に目をやる。
 佐藤が彼女に刺されていた。
 深々と胸に突き刺したナイフを彼女が抜き取る。鮮血が噴き出すのが見えた。
 佐藤本人は何が起きたのかまだ把握していないような顔つきでぼうっとしている。
 それはそうだろう。こんな可愛らしい女性がナイフを持ち歩いているなど、それが自分に向けられるなど、誰だって想像もしない。
 佐藤は返り血で真っ赤になった彼女の顔を数秒間じっと見つめた後、膝から崩れ落ちた。
 通行人から悲鳴が上がり、エントランスにいた社員たちも何事かとドアに群がって来る。
 慌てて警備員たちが飛び出して彼女を取り押さえた。男性社員たちも次々飛び出し、泣き叫び暴れる彼女を警備員たちと共に押さえ込んだ。
 警察や救急に通報する殊勝な者たちからただの野次馬まで、玄関前は大騒ぎだ。
 わたしは傍観したまま。栄田さんも口をあんぐり開けたまま動かない。まさかこんなことになるなんての二乗、今度は嗤うどころではないようだ。
 血の気を失った佐藤は応急手当を受けているが、ぐったりしたまま動かない。
 ほんと、モテるっていうのも大変だ。

恐怖日和 第七十二話『愛の詩』

2022-12-06 16:39:47 | 恐怖日和



「桃ってすごく甘いんだね。初めて食べた」
 両手に一個ずつ持った大ぶりの桃を交互に貪り、手のひらから腕に伝う汁を肘の先で滴らせながら晶乃は嬉しそうに笑った。
 箱詰めの高級な桃は自分たちで買ったものでなく、この屋敷に来た時、すでにテーブルに置かれていたものだ。
 もちろん俺たちのために用意された物じゃない。
「そんなもんじゃなく、金が欲しかったんだけどな――」
 大きな屋敷のわりにまとまった現金がなく、溜息をつく俺に、
「これでも充分だよ、ありがと」
 晶乃が本当に嬉しそうに笑う。
 その笑顔に泣きそうになり、涙が零れないよう上を向いた。
 泣いてる場合じゃない。こいつをもっともっと愛で満たしてやらなければ。
 今まで家族から与えられなかった分を、命が残っている間に――
「桃ならまだあるから、もっともっと食え」
「え~、そんなに食べれないよ」
 晶乃がまた笑った。
 ぽたぽたと伝い落ちる汁が、晶乃の足元にうつむいて倒れている女の、血塗れの背中に滲み込んでいく。
 食べれないよと言いながら、最後の一個まで食い散らかして、晶乃はぴくりとも動かない女の背中に向かって「ごちそうさま」と手を合わせた。
「じゃ行こうか」
 座って晶乃を眺めていた俺は、これも血濡れで横たわる屋敷の主《あるじ》の出っ張った腹から尻を上げた。
 次こそもっと金のある家を。
 できれば晶乃の病気を治せるほどの大金を手に入れてみせる。
 そう心に誓い、俺は晶乃の手を取って屋敷を出た。
 空に浮かぶ満月の澄んだ月明かりが、俺たち二人を静かに照らしていた。