恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

霊滓鬼 

2019-04-26 10:23:22 | 霊滓鬼

でーさい

「こんな遠いとこ、よう来てくれましたなあ。おおきに、おおきに」
 あさ枝は玄関先に突っ立ったまま佐和の手を握って離さなかった。
「ばあちゃんっ、早く中に入れてよ」
 いくつもの紙袋やボストンバックを持った義徳が祖母を諫める。
「ああ、すまん、すまん。
 ほんまお疲れでしたなあ。上がって、はよお茶でも飲んで」
 歓迎されていることがわかって佐和は胸を撫でおろした。
 義徳の言うとおり、あさ枝は優しいおばあちゃんだった。

「でな、目も腰も悪うなってしもて、もう店閉めよう思てんのやけど年寄り連中が辞めんといてくれ言うもんでな。
 ――まあうちも年寄りのひとりやけどな」
 あさ枝は久しぶりに会う孫よりも佐和との会話を楽しんでいるようだ。
 濃い目の緑茶と手作りのおはぎで旅の疲れが癒された。  義徳は座布団を枕に転寝をしている。
 あさ枝が押し入れからタオルケットを出してきた。それを受け取り義徳に掛ける。
「お店、さっき来るとき教えてもらいましたよ」
 そう言うと、「義徳ゃ、古うて汚い店や言うとったやろ」とあさ枝は笑った。
「いえ。ばあちゃんがここでぼくを育ててくれたんだって。感謝してるって言ってました」
 その言葉を聞き、「そうかぇそうかぇ」と乾いた皴手で目頭を押さえた。
 あさ枝は集落でたった一つの理髪店を営んでいた。今いるこの住まいは小高い山の中腹にある日本家屋だが、店はここからくねくね坂を下りた道沿いにある。
 レトロな理髪店の外観は当時の田舎ではさぞ洒落たものだっただろう。
 確かに今は外壁の白い塗装が剥がれ落ちたり、窓ガラスのひびにテープを張っていたりと年季が入っているが、まだまだ立派なものだ。
 入口に立つ黄ばんだ三色のサインポールもいい味を出していた。
「理容師やったおとはんと見合いで結婚してな。村長があさちゃんに合う人や言うて紹介してくれたんやけど、あとから考えたら村に理髪店が欲しかったんやろなあ。
 うちゃまんまとはめられたんや。おとはんもそう思とったやろけど。
 で、二十年経っておとはんが死んでな、それからうちも理容師の資格とったんや。
 長いことやらせてもうたけど、あの店ももう終わりや。皆にゃ悪いけどな」
 あさ枝は深い皴に埋もれた小さな目をしばたく。
「あのう、わたし義くんと結婚したら、ここに移り住んでおばあちゃんのお店継ごうかと思ってるんです。
 あ、よければの話ですけど」
 その言葉に目を大きく見開いた。
「えッ、何言うてんの。あかんあかん。こんな田舎、あんたら住むとこちゃう。義徳も嫌やかい出て行ったんやで。あかん。あかん」
 何度も首を横に振る。
「そんなことないです。村の人たちに受け入れられるかどうか自信はありませんけど、わたし、理容師の免許も持ってるし――」
「受け入れてくれるんきまってるわ。うちん孫になる娘やで。
 あ、ちゃう、ちゃう。
 あんた、実家に店あんのやろ、こんな田舎にすっこませたら親御さんに怒られるわ」
「うちはいいんです。もう兄が後継いでるんで関係ないんです。兄の奥さんともあまり仲良くないし。
 それにこういうのどかな場所でのんびり仕事やれたらいいなってずっと思ってたんです。だから、おばあちゃんさえよかったらお店継がせてください」
 あさ枝の小さな手を握る。
 何も言わず老女はうつむいた。細い肩を震わせ、手を握り返してくる。それが返事だと佐和は思った。

               *

 強風が激しく窓を揺らしていた。強い雨が屋根や外壁を叩く音も聞こえる。
「直撃はしないってラジオが言ってたけど、ものすごい雨ね」
 佐和は雨音の響く天井を仰ぎ見ながら布団に横たわったばかりの義徳に話しかけた。だが、返ってきたのはいびきだった。
 無理もない、半日以上運転していたのだからと佐和はそっと肌布団を義徳の肩まで掛ける。
 義徳が薄目を開け、両手を伸ばしてのびをした。
「――ばあちゃん、すごく喜んでたよ」
「あ、ごめん、起こした?」
「ううん。大丈夫、眠ってないから」
「うそ、いびきかいてたわよ」
「ちゃんと起きてたってっ」
 向きになる義徳にぷっと噴き出し、佐和は「はいはい」と返す。
「で、話の続きだけど、佐和が風呂入ってる時ばあちゃんにいい嫁選んだなって褒められたよ」
「まだ嫁じゃないけど、おばあちゃん認めてくれたってことかな。わたしなんかでいいのかな」
 佐和のつぶやきに義徳の目が大きく開いた。
「そんなの決まってるだろ。もしばあちゃんが認めなかったとしてもぼくは佐和と絶対結婚するんだから、どっちにしても嫁なんだよ」
 そう言って座ったままの佐和の腕を引き、自分の横に寝転がせた。
 激しい稲光が窓を照らす。数秒後に割れるような音が家を震わせた。
「きゃ」
 佐和は義徳の胸に顔をうずめた。音が止んで顔を上げると義徳のにやけた顔がある。
「今の佐和かわいかったな。『きゃ』だって」
「もう、からかわな――」
 いい終わらないうちに再び閃光が走った。佐和はぎゅっと目をつぶり両手で耳を塞ぐ。その頭を義徳の手が優しく撫でた。
 しばらくして両手を離すと、「――のこと――」と義徳の声がしていた。
「えっ、何?」
「さっきばあちゃんに聞いたんだ。香子のこと。
 結婚してこの家に来たらあいつとはご近所になるだろ。ちゃんとけり付けとかないと佐和に嫌がらせしかねないからさ。何とかならないかって言ったんだよ。
 ああ見えてばあちゃん怒ったら結構怖いんだよ。だから近所の悪ガキはみんなばあちゃんの言うことをよく聞くんだ。
 最近なりを潜めてたけど、香子はしつこい性質だから」
「わたしなら大丈夫よ。あの子より大人なんだし、うまくかわすわ。もしかしたら仲良しになれるかもよ」
「――――」
 さらに激しくなった雨音が義徳の声をかき消す。
「えっ? 聞こえない。何?」
「だから、死んだんだって、香子」
 空気がひやりと一気に変化した。
「なぜ――」
 絶句する佐和の頭や頬を撫でながら義徳が淡々とした口調で続ける。
「事故だって。
 ぼくのいない日にあいつ店に来たことあったろ? 菜摘先輩が髪染めたって日。あの日にナンパされて車で送ってもらった時、事故ったって。
 ほら、来る時見ただろ、花を供えたガードレール。あそこで。
 ものすごいスピードで突っ込んだんだって。酒か薬を飲んでたんじゃないかって、葬式の時に誰かが話してんのばあちゃんが聞いたそうだ。
 バカだよ、香子のやつ。自分で自分の命縮めて。
 でもこう言っちゃ悪いけど、ぼくはちょっとほっとしてるんだ」
 佐和は追いかけて来たでーさいを思い出した。あれは香子さんだったのかもしれない。
「そ、そんなこと――言っちゃいけないわ」
 光と同時に激しい雷鳴が轟き、雨がさらに勢いを増す。佐和の声は義徳に届かず、心配の種が消えた安堵いっぱいの笑顔が目の前に近づいてくる。
 不謹慎よ。香子さんに対して。
 そう続けようとしたが義徳の唇で塞がれた。
 凄まじい風雨が窓ガラスを叩いている。
 義徳に包まれながらも佐和はその音が気になって仕方がなかった。

               * 

 ふと目覚めた。眠れないと思っていたがいつのまにか眠っていたようだ。
 部屋の中が暗いからまだ朝にはなっていないのだろう。いったい今は何時頃なのか。
 雨はまだ激しく屋根を叩いていた。
 湿った風の流れを感じて佐和は首を向けた。地窓が開いている。
 この部屋に通された時にはすでに雨が降っていたので開けた覚えはなかった。
 義君があけたのかしら。こんな雨だと降り込むかもしれないのに。閉めなきゃ。
 体を起こそうとした瞬間、きーんと耳鳴りがして動けなくなった。
 手足の先から虫が這うようなぞわぞわした痺れが体の中心に向かってくる。
 地窓から禍々しい気配を感じ、佐和はただ一つ自由な目を向けた。
 窓から何かが覗いている。
 そこではっと佐和は目覚めた。
 夢? 
 ぼんやりした頭にきーんと耳鳴りが響く。体が動かなくなりぞわぞわと痺れが来る。気配を感じ、ただ一つ動かせる目でそれを見る。
 畳の上を何かが這っている。
 そこで再び佐和は目覚めた。
 全身が痺れ、体が動かない。
 嫌な気配が重くのしかかる。目の端から徐々に白い布が見えてくる。
 でーさい? 
 これは夢? それとも現実? 
 顔を覗き込む白布の中心にぎゅっと皺が寄る。
 お守り、お守りは――
 あれは昼間――そうだ。あのでーさいにぶつけた――
 また、目覚める。
 激しい耳鳴りと体の痺れ。
 すべて夢なら、はやく覚めて。
 虫の脚のような細くて長い腕が佐和に伸びてくる。
 やめて触らないでっ。あっちに行って。
 心の中でいくら叫んでも白い手は退かない。
『佐和ちゃん』
 突然自分を呼ぶ、今は亡き祖母の声が聞こえ、体中に電流が走った。
 でーさいの手が引っ込み気配が乱れる。
 耳鳴りが遠ざかり、体の痺れが治まった。
 佐和は体を起こそうとしたが、すぐ深い眠りに引き込まれていった。

 再び目覚めた。まだ夜明け前のようで、部屋中が深海のような紺色に染まっている。
 音が聞こえないので雨は止んでいるようだ。
 佐和はだるさの残る上半身を布団から引き剥がすように起こし背筋を伸ばした。気分がすっきりしないし頭痛もする。
 どこから夢でどこから現実だったのか、すべて夢か、それとも現実か。
 パジャマの襟元が寝汗に濡れて気持ち悪く、寒くもないのに背中がぞくぞくした。
 横には足元まで肌布団のはだけた義徳がまだ眠っている。あっちを向いた顔が暗がりに紛れていた。
 あまりに静かで佐和は胸騒ぎを覚え、義徳の顔を覗き込んだ。
「義くん?」
 義徳は白目を剥き、苦悶の表情を浮かべてすでに息をしていなかった。
「うそっ。義くんっ、義くんっ」
 頬を叩き、体を揺さぶってもぴくりとも反応しない。
「おばあちゃんっ」
 佐和は廊下を走った。
 あさ枝はすでに起きて居間にいた。電気もつけず窓から外をじっと見ている。
「おばあちゃんっ。義くんがっ、義くんがっ」
 泣き叫びすがる佐和の体を支え、それでも窓から目を離さないあさ枝はゆっくりと外を指さした。
「あれ見てみぃ」
 見えるのは青に染まる風景に白く浮かび上がったくねくね坂だった。
 その坂を何かが跳ねながら下っている。
 赤い髪をしたでーさいだった。人の形をしたもやのようなものをつかんで離さない。
 それは悲痛に歪んだ義徳の顔をしていた。
「まだ間に合うわ」
 佐和は慌てて後を追おうとしたが「あかんっ」と、あさ枝に手首をつかまれた。
「なぜですか? 早く行かないとあいつに連れてかれてしまう」
「あかん。あんたまで巻き添え食う」
 小さな老女のどこにこんな力があるのかと思うほど手首をつかんだ力は強かった。
「あの赤い髪見てみぃ。香子はただのでーさいやない。滓になってまで火みたいな赤い髪してる。
 義徳はあのこに魅入られてたんや。だいぶ前からずうっと。もうどうやっても助けられん」
 皺に埋もれたあさ枝の目から涙が溢れる。
 赤い髪のでーさいが坂の下からこちらを振り向いた。白い布にくしゃりと皺が寄る。
 佐和にはそれが香子の勝ち誇った笑みのように見えた。

霊滓鬼

2019-04-25 14:26:38 | 霊滓鬼

供の花

 深い山間の細い道を黒い軽自動車が走っていく。
 秋とは名ばかりの暑い日々だが、畦には彼岸花の赤が鮮やかに際立っていた。
 ラジオから流れる天気予報が台風の接近を知らせた。直撃は免れるが大雨への注意が必要だという。
 佐和は助手席から空を見上げた。
 まだ荒れる気配はないが、雲の層が厚く重くなっている。
「疲れた? もうすぐ着くからね。
 ふふ、すっごい田舎でびっくりしたろ?」
 運転中の義徳が前を見たまま笑った。
「全然だいじょうぶ。それにこういうところ大好きよ」
 佐和はその横顔に微笑んだ。
 でも、気力が持つかな――
 確かに身体の疲れはそれほどでもない。
 だが数日前から不安感がつきまとい、ずっと心がざわついている。
 それを悟られないよう佐和は再び窓外に目を向けた。

 義徳と交際を始めたのは美容師の先輩として指導を受け持ったことがきっかけだった。
 七つ年上の佐和はこの恋愛はすぐ破綻すると予想していた。義徳は田舎から出て来た心細さをただ埋めているだけなのだと。
 幼い頃に両親を亡くしたお祖母ちゃん子だから、わたしを母親か姉のように感じているのだ。
 きっと華やかな街に慣れ、若い女子に囲まれれば、やがて――
 だが、いつまでたっても義徳から別れを切り出されることはなく、もう五年が経つ。
 ようやくこの幸せを噛みしめてもいいのだと思うようになった頃、幼なじみだという少女が義徳を慕って店を訪ねてきた。数か月前のことだ。
 香子という少女は田舎から遊びに来たのではなく家出していた。まだ高校も卒業していないらしい。
 義徳は祖母にすぐ連絡を取り、知らせを受けた彼女の両親が慌てて迎えに来た。
 生真面目そうな両親は義徳を垢抜けたと褒めちぎり迷惑を詫びた後、反抗する娘を無理やり引っ張って帰った。
 佐和たちの仲を知る菜摘が、
「強敵あらわる! 佐和、しっかり義くんつかんどかないと盗られるわよ。あの子地味だけど、ちょっと磨けばすごい美人になるわ」
 応援してくれているようで、なぜか嬉しそうな同僚に辟易しながら一応「大丈夫よ」と微笑んだ。
 だが香子は何度も家出を繰り返し、そのたびに両親、もしくはどちらか一方が迎えに来た。
 幸せを味わい始めていた分、佐和の落胆は大きかった。 
 わたしよりきっと香子のほうがお似合いよね。
 義徳が彼女に惹かれていくのなら潔く身を引くつもりの佐和だったが、彼は香子を面倒な幼なじみとしか思っていなかった。
 そのことが佐和には嬉しかった。あまりに嬉しくて自分が少女に嫉妬していたことを今更ながら気付いた。
 義徳は香子が来る度に彼女の行動を謝り、自分には無関係だと言い訳した。
 佐和が何度うなずいても謝罪と弁解をやめない。
 結果、愛の証にとプロポーズされた。
 それは菜摘が面白がって、香子が来る度に佐和がかんかんに怒っていると義徳に嘘をついていたのだ。
 婚約の報告に「わたしのおかげだからね」と笑った。
 佐和は改めて幸せを噛みしめた。
 だがその後も香子の家出は続いた。
 必ず店に立ち寄り、客ならば叱られないと考えたのか義徳を指名し、終わったら連絡されないうちに出て行く。
 義徳は仕方なく接客しながら会話の中にさりげなく恋人の存在をアピールした。
 その度に佐和の両頬は緩み、鏡越しに香子から挑戦的な視線を送られた。
 義徳が研修でいない時は菜摘を指名する。先日は義徳なら決して許さない真っ赤で髪を染めた。
 佐和にとやかく言う権利はないが、まだ高校生なのよと菜摘を咎めると、
「わたしがお勧めしたんじゃないし。客が赤に染めてって頼むんだから仕方ないでしょ」
 と唇を尖らせた。
 義徳に叱られると思ったのか、その日から香子は来店しない。
 一安心する恋人とは反対になぜか佐和の心は晴れなかった。

 車窓を流れる山の稜線を見つめながら左手首に巻く数珠を撫でた。それは祖母からもらった黒水晶のお守りで佐和は肌身離さず着けている。
「なんか心配事?」
「えっ」
「浮かない顔してるしさ、心配事あるといつもそれに触るだろ。
 もしうちのことなら、ばあちゃんはそんな気難しい人じゃないから心配しなくていいよ」
 微笑んで佐和はうなずいた。
 きょう初めて義徳の祖母に会うのも気がかりの一つではある。
 大切な孫を奪う年上の女をどう思っているのだろう。
 緊張して昨夜はほとんど眠っていない。
 眠気もあったが、カーブの多い山道に入った途端、目が冴えてしまった。
 整備されているが片方は山の斜面で、もう一方のガードレールの下は険しい崖だ。
 義徳は安全運転だが、他の車に巻き込まれて事故が起きる可能性もある。
 カーブの向こうから対向車線ぎりぎりでダンプカーが現れた。
 佐和の悲鳴に、「ここはこんなもんだよ」と義徳は笑う。
「笑いごとじゃないわよぉ」
 佐和は涙目になり、姑のことは会ってから対処しようと決めた。
 カーブの上り下りを繰り返し、雑木林に囲まれたトンネルのような峠道を抜ける。
 はるか右下に集落が見え始めた。
「あそこだよ。あとはもう下るだけだ」
「そう」
 ほっとしながら視線を前に戻す。
 ガードレールの下に花が供えられているのが見えた。
 曇空に映えるほどそこだけ白いのは防護柵が新しくなっているからだ。
 ほらね。笑いごとじゃない。こんなところから落ちたらひとたまりもないでしょ。
 佐和は心の中でつぶやいた。 
 朽ちかけた供花の前を通り過ぎる。
 佐和はすっと心を無にした。
 気にかけていることを悟られてはいけない。同情心など以ての外だ。
 道端の死骸や無縁仏など供養されないものに憐れみをかけてはいけない――幼い頃から祖母にそう教えられた。
「かわいそう思たらあかん。憑いて来て災いを成す。
 そやかい知らんふりや。
 けどな、知らんふりせなあかんって、必死に考えてもあかんのやで」
 それは今のような供花に対してもらしい。その場で死人が出たために供えられたものだから。
 ちゃんと供養されればいいが、自分の死が理解できず地縛霊となる者もいる。
 だが。それより厄介なのはごくまれに未練や恨み、執着などが『かす』だけになって留まっているものだという。
 それを霊滓鬼と呼ぶそうだ。
 祖母は生まれ育った土地の呼び名で「でーさい」と呼んでいた。
 こういう場所にはでーさいがいる可能性がある。
 軽はずみに思いを寄せればこちらに気づき、引き寄せてしまうかもしれない。
 だから、心を無にする。
 佐和は山の斜面に揺れる草花を眺めた。
「ここは危ない場所なんだよなあ」
 ふいに義徳が大きな溜息をついて「交通の便が悪いからさ、よぼよぼになってもお年寄りが免許の返納しないんだよ。この村はそんな老人ばかりだ」
 止める間もなかった。
「今の花見たろ。あそこで誰か事故ったんだよ。かわいそうに、じいさんかばあさんか――まだまだ生きたかっただろうに」
「そんな話、やめて」
「あ、ごめん、ごめん。
 大丈夫だよ、怖がらなくても。ぼくは安全運転だから」
 そう言うと、義徳はカーステレオのボタンを押した。軽快な曲が流れ、それに合わせてハミングする。
 ちがう。そういう意味じゃない。
 佐和はサイドミラーを見た。
 カマドウマのような四肢を跳躍させて、白い何かが追いかけてきていた。
 でーさい――
 白髪を振り乱し、死人に掛ける白い布を顔に張り付かせている。
 初めて見たが祖母の教えてくれた姿形そのままだ。
 義徳には見えておらず、機嫌よくリズムを取ったままだ。だが、祖母の血を継ぐ佐和にははっきりと見えていた。
 でーさいがぐんぐん追いついてくる。
 佐和はそっと数珠を外した。
 かちゃりと石のぶつかる音がしたが、義徳は音楽に夢中で気にも留めていない。
 窓ガラスを少し下ろして素早く数珠を放した。
 白布の顔にぎゅっと皺が寄る。
 黒水晶が空中でぱんっと弾け、すべての石がでーさいの身体を撃ち抜いた。
 地面に崩れ落ちたのを確認して窓を閉める。
「なに? どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
 そう言いながら佐和はサイドミラーをもう一度確認した。
 ついて来るものはもう何もいなかった。