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「で、結局ダメになったんだよね。
ね、ちょっと。聞いてる?」
またあの咆哮が聞こえ、気を取られていた智子の手をかおるがつねる。
「いたっ」
申し送り事項を記入している最中、隣でかおるが恋話を語っていたのだ。
智子は「聞いてましたよぉ」と情けない声で手のひらを擦ったが、結婚する相手がいたというところまで聞いて、なぜ破談になったのかまでは聞いていない。
「つらかったけど、しょうがないよね」
「そう――ですね」
智子はばれないように神妙な面持ちでうなずいた。
「で、きょう大部屋に入院した田中さん。彼みたいなのよね。ドキドキしちゃった」
「え、かなりのおじいさんですよ」
「もうっ智ちゃん、優しさ足りない。どこか雰囲気があればそれでいいのっ」
「先輩――前を向きましょう。まだまだ若いんですから。年下だけど、山尾さんどうですか?」
「山尾? ダメダメ、あいつ智ちゃんのこと好きだから。あんたこそ付き合ってあげなよ。好きな人いないんでしょ?
ま、まさか松橋先生のこと――」
「いやいやいやいや」
智子は手と首を思い切り横に振る。
「そこまで否定しなくてもいいじゃない」
へこんだ顔をして松橋がナースステーションに入ってきた。
きょうは十分な睡眠がとれたのか、すっきりと目覚めた顔をしている。
「す、すみません。
あの先輩――先生にも聞きたいんですが――地下から聞こえてくる声のこと知ってますよね――
でもなぜ知らんふりするんですか?」
智子は思いきって訊いてみた。
二人の動きがこの前と同じく一瞬だけぴたりと止まったが、
「わたし巡回に行ってきます」
すぐにかおるが懐中電灯を持って立ち上がる。
「先輩っ」
もうもやもやしているのが嫌で、智子はかおるの腕をつかんで逃げるのを制した。
こちらを見守る松橋にちらっと視線を送り、かおるが智子を見下ろす。
「知らなくていいし、気にしなくてもいいよ。あなたには関係のないことだから」
今までにない冷たい声に智子はたじろいで思わず手を離した。
「でも――」
「気になるのはわかるけど、僕たちも気にしないことにしてるんだ。ボイラーの音だと思って、君も早く慣れて」
かおるをフォローするように松橋が優しく諭す。
まだ納得のいかない表情の智子に「とにかくあれについて、もう何も言わないで」そう言い捨てると、かおるは暗い廊下に消えていった。