恐怖日和 ~ホラー小説書いてます~

見よう見まねでホラー小説書いてます。
たまにグロ等閲覧注意あり

恐怖日和 第七十話『アイスおごって』

2022-10-02 11:41:32 | 恐怖日和



「で、好きなアイスってなんなん?」
「え、ほんまにおごってくれるん?」
「しゃあないやん」
「うーん、それがな、名前覚えてないねん」
「それでようおごってくれ言えたな。どんなか言うたらそれに似たやつ買《こ》うてくるかい――」
「あかん、ちゃんとオレの好きなやつやないと」
「え~、もうめんどくさいな――わかった。探すかい、どんなかゆうて」
「入れもんに入ってるアイスで、甘い氷みたいなやつや」
「みぞれ、いうやつかな?」
「氷だけちゃうで、とろっとした甘い乳も入っとんや」
「練乳入り? あれかなぁ?」
「それだけちゃうで、程よい硬さの小豆も入っとる」
「う~ん――商品名知らんけど、何となくわかったかい買うてくるわ」
「よっしゃ、たのんだで」
 薄汚れたランニングを着た坊主頭の少年がにたっと笑うと、真っ黒な岩が音を立てずに開いた。

 お父さんと遊びに来た山は怖いくらいセミが鳴いていた。
 セミだけじゃなく見たことない虫もいっぱいで、夢中で追いかけているうちにお父さんとはぐれて迷ってしまった。
 おまけに通り雨にもあってしまい、慌てて近くにあった洞穴の中に飛び込んだけど、入ったとたん出口が消えてなくなってしまった。
 真っ暗な中で途方に暮れていると、ぽうっと薄ら光って坊主頭の少年が現れた。
 だいぶ昔に山で迷って死んでしまった子で幽霊になってずっとここにいるという。
 友達が欲しかったんだと喜んで僕を解放してくれそうにない。どうしても外に出たいとお願いしたら好きなアイスをおごってくれたら出してやると言って笑った。
 たぶんアイスを持って戻ってきても僕を解放する気なんてないだろう。これじゃないと難癖をつけ、また閉じ込めるつもりかもしれない。
 だってやつの言うアイスには似たようなものがたくさんあるし、それに昔のものなら、もうとっくに販売されていないかもしれないからだ。
 いくつ買ってきても全部違うって否定されるのが目に見えている。
 だから戻る気なんてさらさらなかった。

 しばらく山の中を彷徨っていると、血相を変えたお父さんに発見された。
 一人で勝手に行動したことをこっぴどく叱られたけど、後はしっかりと抱きしめてくれた。
 洞穴の少年が不安と恐怖のせいで見た幻覚のように思えて来て、僕はお父さんや帰ってからもお母さん、その他の誰にもこのことは話さなかった。

 数日後、コンビニでアイスのケースを覗いていると、
「お前まだ探しとるんか? 遅いんで見にきたで」
 突然の声にぎょっとして振り返ると、あの少年が立っていた。
 穴の中で見た時はそれほどに見えなかったランニングの汚れは明るい照明の下ではどろどろで、血のようなものもこびりついている。顔も身体も傷だらけで、あの時見えなかった側頭部は大きく陥没していた。
「あわわ」
 慌てふためいて周囲を見回したけど、店員や他の客にはこの子が見えていないようだ。
「ふうん、今はこんななってんやな。おいしそうなんいっぱいあるけど、オレの好きなアイスないわ。他探しに行こっ」
 アイスより冷たい少年の手が僕の手を握りしめた。

恐怖日和 第六十九話『お祖母ちゃん』

2022-09-29 18:51:24 | 恐怖日和



 母の手助けで介護していた認知症の祖母が亡くなった。
 九十も半ばを超えていたので、わたしたちとしては大往生だと思うけれど、本人はどうだったのだろうか。
 どんなに歳を経ようと、どんな状態になっていようと、ただただ生きたいと思っていたかもしれない。
 そんな祖母の気持ちを慮《おもんばか》りはするけれども、介護疲れで大変だったわたしたちには「お祖母ちゃん、逝ってくれてありがとう」だった。
 もちろんそれは大往生だから言えることであり、けっして憎くて言っているわけではない。
 七十代後半から約二十年の介護生活。母や父のことだけでなく、かわいがってくれた孫のわたしのことですら忘れ、時には暴れ出し、時には泣き叫び、どんなに尽くしても報われることがなかった。それほど介護は大変だった。
 手助け程度のわたしでもため息だけでなく、悪態をつきたくなったのだから、母のつらさはいかばかりか。
「一番つらいのはお祖母ちゃんなんだから」
 そう言って母は愚痴一つ吐かなかったが、しんどいことはわかっていた。
 葬儀の際の母の号泣は悲しみの他にやっと肩の荷が下りたという嬉しさもきっとあったはずだ。
 そんなこと言うと母に叱られるかもしれないが。
 とにかく、この世の介護に携わる人たちに幸あれと思わずにいられない。

               *

 祖母の葬儀後一週間ほど経ってから、電化製品に不具合が生じ始めた。
「もう古いからね――同じ時期に買ったものだから、故障もだいたい同じくらいなのかも」
 父も母もそう言って買い替えを検討しているようだが、今の今まで調子がよかったのに、いきなりそんなことになるものだろうか。
 不思議なことにしばらくすると元に戻り、またしばらくすると不具合を起こすということを繰り返した。
 使用できるのであればと買い替えに躊躇しているが、原因不明なのは気色悪い。
 そんなある日、仕事や介護の手伝いやらのわたしの都合で長い間会っていなかった友人が訪ねて来てくれた。
 水鏡《みか》は玄関に入るとなり浮かべていた笑みをふっと消して顔をしかめた。
 長い間の介護で湿っぽい臭いが家中に染みついているのだろうか。
 わたしたち家族に気づかない臭いがするのかも、そう申し訳なく思ったが、
「最近いろいろあるでしょう?」
 と訊いて来た。
 わたしにはそれが例の電化製品の不具合のことだとピンときた。
 水鏡には不思議な力――いわゆる霊感があったからだ。
 ということは、家電の不具合は『そういうもの』が原因なのか。
「うん、ある。原因不明の家電の不調」
「それね、亡くなったお祖母ちゃんがあっちこっち触りまくっているからよ」
 そう言えば、認知が出始めの、まだ足腰が達者で歩き回っていた頃、いろんな家電を触りまくっていたっけ。
 機械本体をいじるのもさることながら、リモコンで設定を変えられていたりもした。一番頭に来たのはテレビ番組の録画予約を解除されていたこと。怒っても仕方ないとわかっていても怒らずにいられなかった。
 今回の状況はそれではなく、機械の不具合だけれど、祖母の仕業という水鏡の話はすんなりと信じられた。
「生きてる人が触《さわ》れない場所まで触るので原因不明の不調になるのよ。
 四十九日が過ぎればそういうのなくなっていくから。
 もしお祖母ちゃんがあの世に旅立つのを忘れたとしても、一年経つ頃までにちゃんと逝くから心配いらないわ」
 と、水鏡が笑う。
 わたしもつられて笑いながら、
「まあ言わば、お祖母ちゃんのいたずらみたいなもんね。
 じゃ、夢かと思ってたんだけど、夜中にわたしの顔を舐め回すのもお祖母ちゃんだったんだ。夢でも気色悪くて嫌だったんだけど」
「あ、それは違うわ」
 すっと真顔になって、水鏡がそう言った。


恐怖日和 第六十八話『自販機前の子供』

2022-09-03 10:19:29 | 恐怖日和



 一人暮らしを始めて三日目に駅からアパートへの近道を発見した。会社からの帰宅がどうしても夜遅くなるので、ショートカットできるのはありがたかった。
 街灯の少ない薄暗い路地だが、ちょうど中ほどに自販機が三台稼働していて、わりと視界が明るい。
 廃業した酒屋の閉まったままのシャッター前に置かれた自販機の二台は缶コーヒーやジュースなどの清涼飲料水で、もう一台はビールなどのアルコール類を販売していた。
 雨除けのテントは破れ、ぶらぶらと風に揺れている状態だが、自販機自体は最新で、明りに引き寄せられた虫の侵入もなく気持ちよかった。
 きょうは喉が渇いてないからいらないけど、欲しい時はここで買って帰ろうなどと思いながら通り過ぎた。

 次の夜、自販機の前に小さな男の子がいた。三台の釣銭出し口に指を突っ込んだ後、地面に寝っ転がって機械の下を覗き込んでいる。
 こんな暗がりじゃ見えないだろうと思いながら、後ろを通り過ぎた。
 にしてもこんな夜遅く、子供が一人で何をしているのだろう。
 飲み物がなくて買いにきた? 家が近所だとしてもこんな時間に? 親はどうしたんだ、親は?
 あまりに気になったので振り返ってみたが、帰ってしまったのか、もういなかった。

 次の夜もまたいた。手が届く位置の押しボタンを全部押している。購入しているわけでなく、アルコール類の機械も含め、三台全部押しまくり、しゃがみ込んで商品の出し口を開けて中を覗いている。
 いやいや出て来んよと思いながら後ろを通り過ぎた。
 しゃがみ込んだ小さな後姿は自販機の明かりでもはっきりとわかるくらい衣服が薄汚れていた。半袖から見える細い腕には煙草の火を押し付けられた跡がいくつもある。
 この子、虐待されてるのか――もしかして親が寝静まってから飲み物がないか探しに来ているのかもしれない。お金がないから買うことはできないけど、ワンチャン釣銭や商品の取り忘れがあるかもと期待して。
 そこまで考えて振り返ってみたが、もういなかった。

 次の夜もいた。何か見つけたのか地面に寝転んで機械の下に左腕を突っ込んでいる。後ろに立って見ていると、小さな指が100円玉を引きずり出してきた。
「それだけじゃジュース買えないから、おにいさんが足りない分、出してあげる」
 こんなご時世の夜遅く、親がそばにいない子供に声をかけるのを憚《はばか》っていた僕だったが、あまりにかわいそうで、とうとう声をかけてしまった。
 座り込んだまま手に入れた100円玉を見つめていた男の子が顔を上げて嬉しそうに笑った。
 自販機の明かりに浮かび上がるその顔には真っ黒な目が一つと歯がびっしり並んだ小さな口しかなかった。

 ばたん。ばたん。
 何の音? 
 ピンポーン。
 チャイム?
 ばたん。ばたん。
 もううるさいな、なんだよっ。
 ピンポーン。
 あ、やっぱチャイム?
 目を開けるとベッドの中だった。
 耳を澄ませても何も聞こえない。
 夢か――夢だったんだな。
 毎晩自販機前で子供を見てたから――いやそれすらも全部夢か?
 大きな伸びをして上半身を起こす。時計を見ると朝の七時だ。
 きょうは日曜だっけ、もう少し寝るか。
 ぼんやりした頭をぼりぼり掻きながら、再び横になりかけると、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「あ、ほんとに鳴ってたのか――誰なんだこんな早く」
 ベッドから降りて玄関を開けると、にこやかな大家が立っていた。
「朝早く悪いね。君、日曜日しかいないからさ、今月のお家賃もらいに来たんだけど――」
「ああ、すみません。こちらから持ってかなきゃいけないのに――」
「いや構わんよ。わし暇だから。ところでさ、君、あそこの道通って通勤してる?」
「え? どの道?」
 バッグから財布を取り出しつつ、大家に視線を向ける。
「ほら大通りから外れた薄暗い路地。そこを通ればここまでだいぶ近道になるだろ? あれ、君に教えてあげなきゃって思ってたんだよね」
「あ、この前偶然見つけてもう通ってます。
 はいこれ、いつもありがとうございます」
「いえいえこちらこそ。君みたいにすぐ支払ってくれる店子さんは世話なくて助かるよ」
 数枚の一万円札と家賃帳を渡すと大家が捺印しながら話を続ける。
「それでね、あの路地のちょうど真ん中ぐらいに自販機あるだろ? 夜にあそこを通った時、もし子供を見かけても構っちゃいけないよ」
「えっ?」
「あれ、人間じゃないから」
「ええっ?」
 ばたん。ばたん。
 さっきチャイムと一緒に夢だと思っていた物音がキッチンのほうから聞こえる。
 ばたん。ばたん。
「それじゃ、また来月よろしくね」
 大家が玄関から去った後、そっとキッチンを覗いた。
「教えてくれんの遅過ぎだよ、大家さん――」
 自販機前のあの子供は夢ではなかった。
 その証拠に今は僕んちの冷蔵庫の前に立って、興味深げに扉の開閉を繰り返し遊んでいた。

恐怖日和 第六十七話『焔~ほむら~』

2022-05-13 11:46:07 | 恐怖日和



 きゃはは。
 はしゃぐ子供の声が聞こえたような気がして、子供部屋を出ようとしていた恵子は思わず中を振り返った。
 たったいま照明を消したばかりの薄暗い部屋からは子供たちの寝息しか聞こえてこない。
 訝《いぶか》し気に眉を寄せ、恵子はそっと部屋に戻って幼い姉妹の眠る布団に近付いた。
 希美も香苗も頭を枕に埋めて深く眠っている。
 寝言?
 訝しげに眉を寄せ、子供たちの寝顔をもう一度確かめにベッドに近づく。
 幼い姉妹は枕に頭をうずめ、すやすやと寝息を立てていた。
 彼女はほっと溜息をつくと、今度こそ部屋を出てジーンズのポケットに入れた携帯電話を取り出し操作した。
「お待たせー。今から行くから」
 近所の居酒屋で待つ友人にそう伝える。電話の向こうから仲間たちの楽しげに騒ぐ声が聞こえてきた。 
 夫の出張日には子供たちを早めに寝かしつけ、友人たちと居酒屋で呑むことが彼女の楽しみになっていた。もちろん夫には内緒である。
 こんな楽しみでもなけりゃ、忙しい毎日やってけないわ。
 心中でつぶやき、玄関に鍵をかけた。
 彼女が自転車に乗り、いそいそと居酒屋に向かっている頃、子供部屋の片隅に置いたテディベアが動いた。まるで誰かが手に取ったかのように宙に浮いたそのぬいぐるみからぽっと赤い炎が灯った――

                 *

 一軒の家を燃やす烈しい炎が目の前で揺らいでいた。
 無数の火の粉が幻想的な舞いを踊りながら離れて消えていく。
 遠巻きに眺める野次馬たちの顔が炎に照らされ、好奇心に満ちた瞳がオレンジ色にきらめく。
「人なんてみんなそんなものだ。自分に火の粉がかからなければ火事はただの座興だ」
 女は渦巻く火の粉をまとい、野次馬や消火活動する消防隊員たちをじっと見つめていた。
 髪をふり乱した若い女が燃える家に走り込もうと、野次馬を掻き分けながら飛び出してきた。野次馬の整理していた警官が慌てて押しとどめる。
「子供たちが中にいるのおお。誰か助けて、子供たちがあああーのぞみぃぃぃかなえぇぇぇ」
 屈強な警官をものともせず、若い母親は叫びながら燃え盛る家に近づこうとし手を伸ばした。
 その瞬間、屋根が音を立てて崩れた。
 大量の火の粉がばっと吹き出す。
「いやああああああっ」
 喉がつぶれるほどの凄まじい悲鳴を上げて若い女は警官の腕の中で崩れ落ちた。
「お前たちの母親か」
 火の粉をまとう女が傍らに佇む黒焦げた幼女二人に問うた。
 炭の塊になった二つの頭がこくりと頷く。
「そうか。さぞかし悲しいであろう、そして己の愚かさを憎むであろう。哀れだ――
 だが、お前たちの母親はこうなる前に気づくべきだったのだ。
 子供だけ置いて留守にすべきではないことを。
 お前たちの母親はお前たち二人を殺したも同然なのだよ」
 二人の黒い体の内部からめらめらと赤い火が熾《おこ》り始めた。
 他にも数人の黒い子供たちが女の周囲にいた。どの子も身体の中心に赤い熾火を抱え、火の粉の舞う中、楽しそうに輪になって踊っている。
 黒い子供たちは新しく仲間入りした姉妹の手を取り輪に入れて踊り続けた。
 消防隊の決死の努力もむなしく火の消える気配はない。
 きゃはは。
 それどころか、子供たちが火の粉を舞散らしてはしゃぐたびに火の勢いは増した。
 興奮気味の野次馬や赤い炎を映した消防隊員、救急車に運ばれていくぐったりした母親を見ながら、女は人だった頃の自分を思い出していた。

                *

「娘が、娘がいるんですっ助けてくださいっお願いっ誰かっっ」
 あの時わたしは声の限りに叫んだ。
 人々はわたしを無視して燃え盛る炎に見入っていた。笑いながらスマホを向けている若者たちもいた。
 消防士たちは消火活動に夢中で、わたしの叫びを聞いてくれる者は誰一人いなかった。
 ならば自分で。娘が助かるなら自分の命など惜しくない。
 燃え落ちそうなハイツに飛び込もうとしたが、それも制止された。
「もう、手遅れだから」
 派出所の顔なじみの警官がわたしに言った。

 あの子を助けられないならわたしも一緒に死にたかった。だが、わたしの幼い娘は一人ぼっちで焼け死んだ。
 深夜、眠っていた娘を置いて、少しだけ、ほんの少しの時間だけ、と買い忘れた食材を求めて近くのコンビニへ出かけた。こんなことは初めてだった。
 ほんの少しなら、娘も目を覚ますことはないだろう。もし目覚めても、母親がいない恐怖を感じる間もないぐらいだろう。
 わたしは財布を片手にサンダル履きで急いで外出した。
 それが永遠の別れになろうとは思いもせずに。

 失火の原因は隣の部屋の住人だった。灰皿に溜めた吸殻の山から火が出てのだという。スマホゲームに夢中で、気づいた時は周囲に燃え拡がり、なす術がなかったらしい。
 とはいえ、当人は消火活動の努力を一切せず、いち早く逃げ出してかすり傷一つ負わなかった。
 何の罪もないわたしの娘は焼け死んだというのに。
 娘はわたしの宝物だった。
 なぜあの時、あの子を一人にしたのだろう。
 身体を絞るような悲しみの中、自責の念に苛まれた。
 気が狂いそうだった。いっそ狂ってしまえと思った。
 どんなに後悔しても時間はもとに戻せない。あの子は元に戻らない。泣いても、泣いても、悔やんでも、悔やんでも、どうにもならない。
 出張から帰って来た夫に責められた。夫の両親にも責められた。実の両親からも責められた。
 床に頭を擦りつけて謝っても夫も両親たちも許してはくれなかった。それは仕方のないこと。
 あの子にもずっと謝り続けていたが、けっして許してくれないだろうとわかっている。
 わたしは近隣の住人たちからも白い目で見られた。
 なんてひどい母親だと。
 ひどい母親?
 確かにそうかもしれない。しれないが――
 ずっと下を向いたままだったわたしは涙が枯れ果て乾いた目を上げた。
 もっとひどい母親が他にもたくさんいるじゃないか。
 言い逃れするつもりはない。自分を正当化するつもりもない。わたしはあの子にとって本当にひどい母親だから。
 でも――
 娘が焼け死んでまだひと月も経っていないある夜、わたしはハイツの焼け跡で自分の身を焼いた。
 ただ焼いただけではない。愚かな母親への悲しみと憎しみと怒りを呪力に自らを焔に変えたのだ。
 わたしは焔だ。
 子供だけを置いて出かけた部屋に出《い》でる焔――
 ひどい母親に同じ思いをさせるための焔――
 泣くがいい。わめくがいい。どんなに悔やんでももう遅い。
 これからもわたしの焔は燃え続ける。

                 *   

 ようやく鎮火し、水浸しの焼け跡に湯気が立ち上り始めると黒い子供たちは踊りを止《や》めた。
「さあ、もう行《ゆ》こう」
 黒い子供たちが駆け寄ってくる。
 火の粉を散らしながら焔の腕を伸ばし、子供たちを抱えた。
「いやあああっいやあああっ」
 救急隊員の手を振りほどいて母親が戻ってきた。
「のぞみぃぃぃかなえぇぇぇ」
 煙のくすぶっている焼け跡の前に座り込み、涙と鼻水で濡れた顔を流れ出た煤だらけの地面に擦りつける。
 女は熾火の宿る目で冷ややかに母親を見ていた。
 警官と隊員が地面から引き剥がすように母親を立たせてその場から連れ出そうとした。
 だが、母親は途中で子供の名を繰り返し呼んで泣き崩れ、地面に伏した。
 黒い子供が二人、女の腕から離れて母親に駆け寄った。『ママ』『ママ』と泣きながら寄り添い抱きしめる。
 母親に二人は見えない。
 だが「ごめんなさい。ごめんなさい」と二人がそこにいるのを知っているかのように土下座し続けた。
 二人の黒い身体の奥から熾火が消えた。ぽろぽろと煤を落としながら、隊員に起こされ連れられて行く母親の後を手をつないでついて行く。
 他の子供たちがそれを見て『ママ』『ママ』と泣きだした。
「泣くのはおやめっ、お前たちの母親はわたしなのだよ」
 女の内から焔が激しく燃え、火の粉が噴き出した。
 だが子供たちはいっこうに泣き止まず、母を求めながら一人また一人と女のもとから消えていく。
「待ちなさい。待って――」
 女の目から二度と浮かぶことのなかった涙が滲み出た。それは頬を伝うことなく、自らの焔ですぐ蒸発した。
「なぜお前たちは愚かな母親を慕うのだ。なぜっ」
 女の中で火が爆ぜ、全身が燃え盛る焔となる。
 だが、燃える手にそっと何かが触れたことに気づいた女はうつむいて自分の手を見た。
 一人残った黒い子供が女の手を握りしめていた。
 その子の目が女をじっと見つめている。
 炭の奥の瞳が輝いていた。赤い熾火ではなく、無邪気な光だ。
 女はそれに見覚えがあった。
 握られた手から焔が消えていく。
「ずっとわたしのそばにいたの?」
 子供がこくりとうなずいた。
「ママを許してくれるの?」
 もう一度こくりとうなずく。
 女の目から涙が溢れた。
 それは蒸発することなく頬を伝い流れ、燃え盛っていたすべての焔を消していった。

恐怖日和 第六十六話『兄想い』

2022-05-12 00:37:09 | 恐怖日和



 永瀬晋也は職場の先輩、渡辺の住むハイツの二階を見上げた。
 まじめな渡辺が三日も無断欠勤したので、上司から見て来てくれと頼まれたのだ。
 連絡するのも無理なやむを得ない急用でも出来たのか。そう様子を窺っていたが、さすがに三日も連絡がないのはちょっとおかしい。
 一人暮らしの身で病気か事故などの不測の事態に陥っているのではないか、と上司ともどもみな不安になった。
「若いから大丈夫だと思うが――」
 もごもごと言葉を濁しているのは最悪の場合を考えているのかもしれない。
 そんな状況の中へ一人で行かされるなんて、と晋也はふと思ったが、自分を可愛がり何かと助けてくれる先輩だ。少しでも恩返ししなければ――
 外階段を上って『渡辺』と書かれたプレートの下にある小さなインターホンを押す。
 ドアの向こうには何の気配もない。もう一度押し、ドアに耳を寄せて気配を窺うも同じだ。
「せんぱーい」
 ノックしながら呼びかけ、もう一度ドアに耳をつけた。
 かさこそと微かな音が聞こえた途端、ドアが開いて晋也は側頭部を打ち付けた。
「いったぁ」
「ご、ごめんなさい」
 顔を覗かせたのは先輩ではなく可憐な女性だった。
「え、あれ? 先輩の部屋――ですよね」
 晋也はしどろもどろになりつつ、ネームプレートを確認した。やはり渡辺と書かれているが、同性の部屋違いなのだろうか。
 いや以前、飲み会の後、二人で飲み直そうと連れて来てもらった部屋に間違いない。
 ということは、か、彼女ぉ?
 戸惑いから驚きに変わった晋也の表情を見て、女性はくすくすと可愛らしく笑い「わたし、妹です」と自己紹介し始めた。
「千弥子と言います。お兄ちゃんがいつもお世話になってありがとうございます」
 年齢は不明だが学生ではなさそうだ。衣服の雰囲気が瀟洒《しょうしゃ》で大人っぽい。すらりとした色白の美人で、黒目がちの大きな瞳は自分の好きな女優に似ているな、と自己紹介をしながら晋也は思った。
「僕のほうこそ、いつも先輩にお世話になってます」
「面倒見のいい兄ですから」
 うふふと口元に手を当てた笑顔を見て、マジ先輩の妹でよかったと心の中でガッツポーズをとる。
 だが、先輩が僕なんかと交際させてくれないだろうなとも思った。
 妹がいるなんて今まで教えてくれなかったのがその証拠だ。きっと先輩にとって僕は出来の悪い後輩なんだ。
 少々失望しながら、
「あの――先輩は? この間から無断欠勤してるんで様子を見に来たんですが――」
 千弥子の肩越しに奥を覗く。確か玄関入ってすぐはダイニングキッチン、右手に浴室やトイレがあり、奥には六畳の和室があったはずだ。
「わざわざすみません――ずっと動けないくらい具合が悪かったらしくて。少しマシになったんでって、わたしに連絡が来て――念のため、今病院に行ってるんですけど――申し訳なかったです。会社に連絡してなかったんですね。知っていたら先に連絡させたんですが」
 千弥子が深々と頭を下げた。
「いえいえ。でも水臭いなぁ先輩。いくら動けなくても電話くらいくれてもよさそうなのに――僕ならすっとんで来れるのに――で、病状は?」
「まだ連絡来ないんですよ。でもだいぶ良くなってたみたいですから大丈夫だと思います。永瀬さんもお忙しいでしょうから、もうお帰りになって下さい。帰宅したら連絡させますので――」
「きょうはこのまま直帰してもいいって上司が許可くれてるんで、僕このまま先輩待ちます。心配ですから」
「でも――いつ戻るかわかりませんし――」
「大丈夫です。ぼくひとり暮らしで、遅くなっても大丈夫なんで」
 ちらりと千弥子に対する迷惑を考えたが、先輩のいない間に自分をアピールをしておこうと、いつになく積極的になった。
「――じゃ、どうぞ」
 ようやく千弥子に招かれ靴を脱いだ晋也はダイニングに上がった。きれいに掃除され、前は開けっ放しだった和室の襖も浴室のガラスドアもきちんと閉められている。
 ピカピカに磨かれたシンクや整理整頓されたテーブルの上を見て感嘆の声を上げた。
「この前来た時はすっごい汚かったのに、いいなあ先輩はできる妹さんがいて」
「永瀬さんったらお上手ですね。確かに兄は片づけが下手だけど」
 くすくす笑うと千弥子は「どうぞおかけになって」とダイニングチェアを勧め、流し台で飲み物の準備に取り掛かる。
「あ、お構いなく。うわ、こんなことなら菓子折りの一つでも持って来るべきだった。先輩甘いものきらいだし、大好きなビールっていうのも遊びに行くんじゃないしと思って――」
 気の利かないやつだと思われたくなくて、饒舌に言いわけを並べ立てていた晋也は、マグカップを持ったままじっと見つめる千弥子に気づいて口を閉じた。
 うわっ、急に緊張してきた。
「インスタントコーヒーしかないですけど、どうぞ。こんなコップでごめんなさい」
 ことっとテーブルに黒いコーヒーのマグカップを置くと向かい側に座る。
「いえ、ありがとうございます」
 晋也はカフェオレが好きだが、先輩はブラック派だからミルクはないだろうなとあきらめて口をつけた。せっかく千弥子が入れてくれたのだからここは我慢しないと。
「わたしね、兄のこと大好きなんです」
「へ?」
 唐突な千弥子の告白に晋也は素っ頓狂な声を上げてしまった。
 ああ兄妹愛ねと思い直し、
「かっこいいですもんね、先輩。その割に彼女いないんだよな」
 しまった、一言多かったと思ったが、出してしまったものは仕方ない。悪口に聞こえまいか、どう言いわけしようか、晋也は思案した。
「わたしのせいなんです。兄に恋人が出来ても邪魔しちゃうから」
「ええ?」
「だってあんな素敵な兄なのに、彼女はみんな嫌ぁな女ばかりなんだもの」
「へ、へえ。僕まだ先輩と付き合ってる女性誰も見たことないんでわからないですけど」
 コーヒーが苦くてテーブルに戻す。
「やっぱり兄とつり合う人でないとって思うの。だからわたし、つい邪魔しちゃって」
 しなやかな指を口元に当て、くすくすと千弥子は笑った。
「彼女なんかいなくても妹さんがいてくれたらいいですよね。こうやって身の回りの世話してくれるんですから。僕はすごくうらやましいです――って、あれ?」
 千弥子を褒めて自分に好意を持ってもらいたいのに、これじゃ兄妹愛が強まる一方じゃないか? 僕はいったい何を言ってるんだ?
 慣れない体験に緊張し過ぎて、彼女に振り向いてもらうにはどう言えばいいのか、わからなくなってきた。
「そうですよね。わたしがいれば彼女なんていりませんよね。さすが永瀬さん。わかってくれて嬉しいわ」
 さすが? 嬉しいわ? これって僕に好意を示してくれてるのか? いやいやなんか違うな。どうすればうまく伝わるんだろう。
 頭の中が整理できない。しかもさっきから閉じられた和室のほうから聞こえるどんどんという音が邪魔をして、よけいに考えがまとまらない。
 うるさいなあ、静かにしてよ、と心の中で舌打ちした。
 焦る晋也に気づきもせず千弥子は、
「ほんと、そう。秀匡《ひでまさ》さんにはわたしがいればいいのよ」
 夢見心地な表情で笑みを浮かべている。
「秀匡さん? どうして先輩を名前で呼ぶんですか。ああ、兄妹でも名前で呼び合うタイプなんだ」
 晋也が一人で納得している間も、「そう、わたしがいれば――うふふ」と、こちらの言葉など聞いていない。
「えっとぉ――千弥子さん?」
 晋也の呼びかけにも反応せず、視線を遠くに向けたままだ。
 どんどん。
 また奥から音が聞こえてきて、それでやっと晋也は冷静になった。
 何の音なんだ?
 ちらっと千弥子を窺うも聞こえた様子はなく、笑みを浮かべたままずっと心ここにあらずな様子だ。
 晋也は全神経を耳に集中させ、考えを巡らせた。
 以前、先輩からテレビの音量で隣人からクレームが入りトラブったという話を聞いたことがある。でもあれは言い掛かりで、先輩が正論で打ち負かしたと言っていた。
 それに、その隣人はとっくに引っ越したとも言っていた。だからこれはクレームの壁どんどんではない。
 しかも、壁というより襖を叩いている音に近いような――
 ふと目を上げると、千弥子が吸い込まれそうな真っ黒い瞳で晋也を見ていた。
「秀匡さんからわたしのこと聞いたことあります?」
「え? いえ。聞いた事ないです」
 千弥子の眉間に少しだけ皺が寄る。
 それにどんな感情が含まれているのか、晋也には知る由もないが、妹が想うほど兄は想ってはいないなどの寂しさを感じているのだろうか。
「たぶん僕に話すと自慢の妹さんにちょっかいかけられると思ったんじゃないですか――あ、ぼ、僕そんなすぐちょっかいかける人間じゃないですけど、あの、その――」
 そんな晋也の慰めも言い訳も千弥子の耳には届いておらず、
「ひどいわっ。こんなに愛しているのにっ」
 いきなり激昂し怒鳴り始めた。
「え、え、千弥子さん?」
 どんっ、どんっ!
 怒鳴り声に呼応したように奥の音も大きく響く。
「いつもっいつもっ! わたしを無視してっ! しょうもない女ばっかり彼女にしてっ!」
 どんっ、どんっ!
「こんなにこんなにこんなに思っているのにっ!」
 どんっ、どんっ! どんっ!
 怒りを露わにした千弥子が腕を振り回した瞬間、手に当たったマグカップが床に落ちて割れた。
「ち、千弥子さん、落ち着いてっ!
 なんなんだよぉ、もう」
 振り回している腕を止めようと近づいた晋也は、居酒屋で飲んでいた時の先輩の言葉をふと思い出した。
「俺一人っ子でさ、ずっと弟が欲しかったんだよ。お前まだまだ半人前で頼りないけどさ、弟みたいでなんか嬉しいよ。なんでも相談してくれよ。兄貴が守ってやるから、なんつってな」
 一人っ子。先輩は確かにそう言った。
 じゃ、この女は誰?
 手を伸ばしかけたまま固まった晋也は恐る恐る目だけ動かし、千弥子の様子を窺った。
 何事もなかったように静かになった千弥子が光のない大きな黒目でじっと晋也を見ている。
 やばい――妹じゃないのわかったって気づかれないようにしなきゃ。もしかして先輩、奥の部屋に監禁されているのか? あ、そっか、あの音は助けてくれの合図だっ。
 晋也は平静を装い、
「えっとぉ――やっぱ帰って来そうもないから、僕もうお暇します」
「もっといてくださいよ。コーヒー淹れ直しますから――あらやだ、カップが割れてるわ」
 イスから降りた千弥子はしゃがんでマグカップの欠片を拾い始めた。撒き散らしたコーヒーをテーブルの箱ティシュを取って丁寧に拭いている。
 それを見ながら晋也は後ろ手で襖に手をかけた。
「あー、えーと、先輩にゲーム貸してたんだけど、ついでに返してもらっとこうかな。確か奥の部屋にあったよね」
 千弥子は床を拭くのに夢中でこっちを気にしてもいない。
 そっと襖を開け、千弥子に注意しながら中を窺った。
 和室は突き当りの窓に遮光カーテンが引かれていて薄暗かった。
 右側に押し入れ、その横の壁際に26型のテレビが置かれ、先輩の大事にしているゲーム機が台の前に出しっ放しにされている。
 和室に先輩の姿はなかったが、
 どんっ!
 音とともに押し入れの襖が揺れた。
 晋也はごくりと唾を飲み込んだ。
 先輩はここに押し込められているんだ。
 一歩畳に足を踏み入れた時、
「ここは見ちゃあだめよぉぉぉ」
 叫びながら千弥子が突進してきた。いつの間にか手には包丁が握りしめられている。
 晋也は中に逃げ込んだ。
 どんどんどんどんどん!
 押し入れが揺れる。
「やっと秀匡さんと一緒に慣れたのになんで邪魔するのぉぉ!」
 千弥子が包丁を振り上げた。
 どどどどどん!
 わかってます、先輩。今助けますってっ。
 晋也は切っ先を避けてしゃがみ込み、とっさにゲーム機を両手でつかむと「先輩、ごめんっ」と、千弥子めがけて振り回した。
 赤や黄色の配線が外れ落ち、ゲーム機の角が千弥子の顔面にヒットした。千弥子は倒れ込み、握っていた包丁を畳の上に落とした。
 晋也は慌ててそれを拾い、ポケットから携帯を出して110番に通報した。
 顔面を血だらけにして悶える千弥子に起き上がってくる気配はない。
 晋也は急いで押し入れを開けた。
「もう大丈夫ですよ、先輩――先輩?」
 先輩――渡辺秀匡は下段の荷物の間に押し込まれていた。とっくに息絶えているのが見開いた白く濁った目でもわかる。
 近付いてくるパトカーの音を聞きながら、晋也は泣いた。
 先輩は助けを求めていたのではなかった。晋也に逃げろと警告してくれていたのだ。