NINAの物語 Ⅱ

思いついたままに物語を書いています

季節の花も載せていきたいと思っています。

仮想の狭間(8)

2010-04-13 11:27:33 | 仮想の狭間
「何がそんなに可笑しいの?」
「うふふふ・・ 彼がなかなか現れなかったのよ。」
「どこで待ち合わせをしたの?」
「京都駅地下のコーヒーショップ[I]でなの。」
「ああ、あそこね。」
「午後2時に待ち合わせをして、その時点でどちらかが携帯で知らせることにしていたの。顔の写真を送るのも嫌だったしね。
私は2時10分前に着いて、そのお店に入ろうとしたら、入口に背の高い男性が立っていたので避けて中に入り、客を見回したけれど皆カップルか女性グループの客で、それらしき男性はいなかったわ。
仕方なく空いた席に着いて、入口付近を見ながら待っていたの。
だけどなかなか現れないのよ。
先程入口のところに立っていたゴマ塩頭の男性が出たり入ったりしているだけなの。
2時になっても中の客が出て行くだけで誰も入って来ないので、彼に携帯を入れようかと思ったけれど、何かの都合で遅れているのかもしれないと思い、もう少し待つことにしたわ。
入ってくるのは営業マンらしき二人連れの男性とかカップルだけ。」
「貴女、待ち合わせ場所を間違えたんじゃないの?」
「そう、私もそれに気が付いて、慌てて携帯を入れたの。
直ぐに応答があたので、
『待ち合わせ場所はコーヒーショップ[I]ですよね。』って訊ねたら、
『そうですよ。京都駅地下の・・・ 先程から待っていますが、都合が悪くなりましたか?』そう言うじゃない。
『私もずっと待っています。』
『ええっ! どこにいるんですか?』
こっちこそ『ええっ!』よねえ。
キョロキョロ見まわしてもいないし、するとまた携帯で、
『入口の所にいます。貴女は?』
何ですって! 入口のところにはあのゴマ塩頭の初老の男性しかいないではありませんか。
近寄って行って、『失礼ですが、Tさんですか?』
『もしかして秋絵さんですか?』向こうも驚いた表情で言ったの。」
「まあ、相手はそんなに老けて見えたの?
貴女は10歳も歳を誤魔化していたのだから、彼が分からなかったのは仕方がないけど。」
「そうじゃないのよ。」
秋絵はまた笑いが止まらなくなった。
やっと落ち着いて、先程はいらないと言っていたショウートケーキをパクパクと口に入れている。
そして話したところによると、相手も歳を偽っていて年齢が65歳という。
Yは秋絵をもっと若くてほっそりとした女性をイメージしていたらしい。
「酷いでしょう。
20歳もサバを読むなんて。」
「貴女だってサバ読んでいるじゃない。」
「だって私は10歳よ。だけど彼は20歳もよ。」
「五十歩百歩、相手を騙したことには変わらないと思うわ。
ところで その人はどんな人だったの?」
秋絵の目が急に輝きだした。
「65歳だけど、とても整った目鼻立ちをしていて、スタイルもいいし、歳よりはずっと若く見えたわ。」
「ふ~ん」
「それにインテリでね。話題が豊富で聞いていても飽きないのよ。
2時間があっという間だったわ。」
「それでまた会うつもり?」
「ええ、お茶をしたり、美術館へ一緒に行く約束をしてきたわ。」
「そんなお付き合いは、ご主人に悪いんじゃないの?」
「そんなことはないと思うわ。
ただの茶飲み友達じゃないの。」
茶飲み友達とはそんな間柄を言うのかしら。
真理は割り切れない気持ちであった。

仮想の狭間(9)

2010-04-13 11:22:45 | 仮想の狭間
 亮太が夏休みに入って、百合子は早朝の弁当作りの仕事がなくなった。
朝が楽になり、夫を送り出すと庭の花の手入れをしたり、テレビをし見たりしてゆっくりした時間を過ごしていた。
亮太の高三の夏は部活もなく、受験勉強に励んでくれるものと期待していた。
しかし先日から亮太の様子を見ていると、机に向かって勉強をしている姿をほとんど見かけない。
彼の部屋の前を通ると、ベッドに座りこんで携帯に向かって左の指を忙しく動かしている姿を見ることが多い。
夜に夫の壮介が帰ってきたら、それとなく注意をしてもらうつもりでいた。
しかし最近会社の景気が悪く、リストラで大勢の社員が整理され、残っている社員につけが回って来るらしく毎日帰りが遅い。
疲れきった顔で帰宅する壮介に亮太のことは話し難く、自分で言うしかないと諦める百合子であった。
 翌朝8時になっても、9時になっても亮太は自分の部屋から出てこない。
食卓の上が片付かないのに しびれを切らした百合子は亮太の部屋のドアをノックした。
「亮太、まだ寝ているの。
早く起きて食事をしなさい。」
返事がないので中に入ると、昨日の服を着たままぐっすりと眠りこけている。
無理やり揺り起こして食卓につかせた。
亮太は眠そうな顔をして、パンを口に運んでいる。
「亮太、この夏休みにしっかりと受験勉強をしないと、目的の大学に入れないわよ。いつも携帯ばかりいじっているように母さんには見えるんだけど。
もう少し勉強に本腰を入れたらどうなの。」
「煩せえなあ。 ひとのことは放っといてくれよ。」
亮太は横を向いてサラダに付いている茹で卵を口に入れ、牛乳で流し込むとプイッとまた自分の部屋に戻ってしまった。
こんな口のきき方を以前はしなかったのにと、百合子は悲しくなってくる。
洗濯物を取りに亮太の部屋へ入ろうとしても、ドアが開かない。
昨日まではドアを開けたままだったのに、今日は中から紐で縛って開けられなくしているのだ。
この家を建てたとき、建築業者から教育上よくないと言われて、どの部屋にも鍵を付けていない。
中学時代からこれまで、反抗期らしきものはなかったように思う。
それはサッカーに打ち込んでいる息子に、あまり口を出さなかったので反抗をしなかったのか。
今頃反抗期がやってきたのだろうか。
最近の亮太をどう扱っていいのか思いあぐねていた。

 
その日以来、亮太は母親の百合子にほとんど口を利かなくなった。
腹の減るのは我慢が出来ないのか、食事時にはダイニングにやって来る。
しかし百合子が話しかけても、
「別に。」とか
「煩せえ。」と言うだけで、会話をしないのだ。
夏休み前までは、帰ると学校であった事などを楽しそうに話してくれていたのに。
どうして変わってしまったのだろう。
時々自転車で出かけるが、行き先を訊いても応えない。
不安と腹立たしさにむしゃくしゃした気分でパソコンを開けた。
他人のブログやホームページを見ていても、気分が落ち込むばかりで面白くない。
ふと窓に目を向けると、白いレースのカーテンの内側に引き寄せてある暗い色の厚手のカーテンが気になった。
この家を建てた際、落ち着いた雰囲気のある家にしたいと、暗い茶系統のカーテンで家中を統一したのである。
しかし今はこの暗い色が、余計に気分を暗くさせているように感じる。
ネットの通販でカーテンを見てみた。
すぐに気に入った明るい色のカーテンを見つけることが出来た。
クリームがかったベージュの地に、薄緑色の小さな花の模様が織り込まれている。
家中のカーテンの枚数を数え、計算すると30万円ほどするが迷いなく注文した。
今の百合子はこれで憂さ晴らしをしたいのだ。
二日ほどしたら、通販会社から振込用紙が送られてきた。
壮介の給料が振り込まれる預金口座から、その代金を引き出すわけにはいかない。
この口座は住宅ローンや公共料金、税金や生活費など毎月必要な費用を払うと、あとは余裕がない。
カーテンの代金を、さてどこから出そうかと百合子は考えた。
亮太の進学の費用として、ボーナスの一部を預金している分がかなり貯まっているので、そこから引き出そうと思い付いた。

仮想の狭間(10)

2010-04-13 11:21:04 | 仮想の狭間
 四日後に大きな段ボールに入ったカーテンが届いた。
厚手のカーテン全てを取り替えると、見違えるように家の中が明るくなった。
やっぱりこのカーテンに変えて良かったと、百合子は亮太のことを忘れさせるほど心が晴れ晴れとしていた。
土曜日も出勤し、毎晩遅くに帰り、朝慌ただしく家を出て行く壮介は、まだカーテンに気付いていない。
日曜日に壮介は遅く起きてきた。
リビングの窓際で庭のヒマワリを見ながら、手を上げて大きく深呼吸をした。
そのとき新しいカーテンが壮介の目に入った。
ダイニングにも行って窓を見るとここのも新しくなっている。
「いつカーテンを替えたんだ?」
「あら、もう三日も前よ。
前のカーテンは暗いし、もう汚れていたから、家中のを替えたの。」
「家中だって!
そんなに汚れているようには見えなかったけど。
それでいくら掛かったんだ?」
「30万円よ。」
「なんだってそんな無駄遣いをするんだ。
汚れていればクリーニングをすればいいだろう。
亮太の進学の費用も要ることだし。」
「30万円くらいかまわないでしょう。
それで家の中が綺麗になれば、何も無駄遣いじゃないわ。」
「俺の勤めている会社が今、大変なのは分かっているだろう。
この冬のボーナスもグンと減るだろうし、給料だって減るかもしれないのに。」
せっかく晴れ晴れとした気分になっていた百合子は、また気が滅入ってしまった。
 
 翌日は手芸の集まりの日だが、クッキーを焼く気力もない。
気晴らしに思いっきり派手な服を着て行こうと、昨年ネットのオークションで買って派手過ぎて着ていなかった、ハワイアン風の白地に赤と緑の大きなハイビスカス柄のミニワンピースを着て、その下に細いジーンズをはき、差し入れも持たずに真理の家に向かった。
途中で出会った人が振り返って見ているような気がする。
真理の家にはもう秋絵も美代子も来ていた。
自分の服装が派手な柄なのを気にしていた百合子は皆の服装を見て驚いた。
美代子は何時も派手だが、モノトーンの服に拘っていた秋絵が、今日はどうしたことかショッキングピンクのTシャツに、黒地に黄色い柄のあるパンツをはいている。
おまけに厚化粧をしていて、パープルのアイシャドウをしっかり塗ってアイラインまで引いているではないか。
目を丸くしている百合子に、
「秋絵さんには驚いたでしょう。」
そう言う真理まで、胸の大きく開いたフリルのついた真っ赤なブラウスを着ている。
「ここは姥桜の狂い咲きが満開ね。」
そう言って美代子が大口を開いて笑いだした。
それにつられて皆もお互いの服を批評しながら笑った。
秋絵も真理も何か心の変化があったのだろうか、とそっと二人の顔をうかがった。
しかし彼女たちは自分のように、抱えている心の辛さの裏返しではなく、二人とも普段より饒舌で本当に楽しいことがあるように思える。
「百合子さん、冴えない顔をしているけど、何か悩みでもあるの?」
真理が百合子の顔の表情を読み取った。
「息子が携帯ばかりして、勉強に身が入らないようなので、少し注意をしたら反抗して何も話さなくなってしまったんです。」
「その年頃は大抵の男の子がそうじゃないかしら。亮ちゃんは少し遅い方よ。
うちの息子なんか中学から高校まで、『別に。』とか『うるさい。関係ねえだろう。』としか言わなかったわよ。
でも大学生になったら、急に優しくなったわ。男の子って扱い難いわね。」
「真理さんの息子さんもそうでしたか。」
「うちの息子の時代は、まだそれほど携帯電話が流行っていなかったから、そちらの心配はなかったけど、お友達に変な人がいなければ大丈夫だと思うわ。
もう少しそっと様子を見守ってあげては?」
とりとめのない話題に花を咲かせるこの集まりは、百合子にとって家での鬱憤を晴らす場にもなっている。
幾分軽くなった気持ちで家に帰った百合子は、いつものようにパソコンの前に座った。
ブログに書き込みをしていたが、気が付けばいつのまにか通販の画面を出していた。
昨日夫にカーテンのことで叱られたので、腹いせに値段の高い靴でも買いたいところだが気持ちを抑えた。
壮介の帰りが遅いので、夕飯は亮太と二人でとることが多い。
今日も食事中に亮太の携帯が何度も鳴っている。
その度に食事を中断してメールを返す息子に注意をしたいが、これ以上悪い関係になるのが怖くて何も言えない。

仮想の狭間(11)

2010-04-13 11:19:47 | 仮想の狭間
 お盆を挟んで一週間、壮介の夏休みに入った。
この一週間は親子三人で一緒に食事をとることが多い。
昼食中に亮太の携帯がいつものように鳴りだした。
「何だって昼食時に何度も掛けてくるんだ。
急用でなければ返信するな。」
父親に注意された亮太は携帯の画面を見ながら、不満そうな顔をしながらも頷いている。
「亮太、勉強の方はどうだ。捗っているか。
焦らないでいいからボチボチやれよ。」
「うん。」
父親に対する亮太の態度は、自分に対する態度よりずっと素直だと百合子は思う。
その日の夕食は外ですることになった。
しかし亮太は行かないという。
親と一緒のところを友達に見られるのは、この年頃の男の子にとっては恥ずかしいことなのだろうか。
「一緒に行かなければ、何も食べるものがないわよ。」
「コンビニの弁当を買ってくるからいいよ。」
「せっかくみんなでレストランへ行こうと思っているのに、亮太が来ないんじゃ、行く意味がないじゃないか。」
壮介が亮太を無理やりに連れ出した。
レストランでは奮発して、ビーフステーキコースを注文した。
ふくれっ面をしているかと思った亮太は、意外に機嫌の良い顔をしてナイフとフォークを動かしている。
壮介もそんな雰囲気に気を良くして、
「明日みんなで、和歌山の実家の墓参りに行こうか。
あの近くの海水浴場で久しぶりに泳いでみたくなったなあ。」
と誘った。
「ああ、あそこだね。小学生の頃、父さんに毎年泳ぎに連れて行ってもらったのを覚えているよ。
お爺ちゃんもお婆ちゃんも一緒だったね。」
「そうだなあ。あの頃はまだ親父もおふくろも元気だった。」
昔を思い出すかのように、壮介は遠いところに虚ろな目をやっている。
それから三人はその頃の思い出話を和やかにしていた。
「亮太が墓参りに行ったら、お爺ちゃんもお婆ちゃんもきっと喜ぶと思うわ。」
「悪いけど、僕はパスする。」
「そうか、亮太は今それどころではないか。」
壮介は無理強いはしなかった。
墓参りは拒否したが、今夜は久し振りに楽しそうにしている息子の顔を見て、百合子自身も心からこの時間を楽しむことが出来た。
しかし翌日からは以前と同様、殆ど口を利かなくなっていた。
壮介の夏休みも終わり、また通常の生活が戻ってきた。
 庭の樫の木でツクツクボウシが忙しく鳴き出し、西の山に日が早く落ちるようになった。
秋が駆け足でやって来る気配がする。
亮太はあと二週間足らずで二学期が始まる。
お盆を過ぎた頃から、慌てて勉強をやりだした。
もう携帯を頻繁に打つ暇もないようだ。
百合子は亮太の夏休み中、彼に携帯を注意した手前、自分がパソコンに長時間向かうわけにもいかずセーブしていた。
そして出来た暇を手芸の刺しゅうに向けていたが、この前、夫がボーナスや給料が減ると言ったことが気になっていた。
秋になれば、パートの仕事にでも出ようかと考え始めた。

仮想の狭間(12)

2010-04-13 11:18:25 | 仮想の狭間
 夏の花から秋の花へと移り変わる9月、真理は花壇の手入れに余念がない。
昨日 園芸店へ花の苗を買いに行った。
夫も付いてきて、あれこれと選んでいる真理の横で、
「適当にしておけ。」だの
「早くしろ。」だのと煩く口を出すのでしっかり選べなかった。
案の定 苗が足りなかったり、配色が上手くいかない。
不満だらけの植え替えを終えて、リビングでお茶を飲みながらパソコンを開いた。
コミュサイトの友達の一人であるYが毎日メールを送ってくる。
彼の年齢ははっきりは分からないが、真理より少し上の定年を迎えたばかりのようだ。
お互いに その日にあった取り留めのない出来事を書いてメールを交換している。
毎日これといった変化のない生活の中で、Yとのメールの交換に真理は新鮮さを感じ、刺激を受けている。
朝パソコンを開いて、彼からのメールが入っていると嬉しさが込み上げてくる。
不思議な感情だと思う。
別に彼に恋をしているのでもなく、彼を好きになったわけでもない。
しかし彼からのメールがない時には、寂しくて何度もメールボックスを開いて見ている。
夫を嫌っているわけでもないが、ただあまり干渉されたくないと思う。
定年になって家にいることの多くなった夫は意識的ではないかもしれないが、妻の行動を監視しているように真理には思える。
何かにつけて口を出してくる夫と少しでも離れて、自由な時間を持ちたいと願うのであった。
そんな心の自由を許してくれるところ、それをコミュニティサイトに求めていた。
 今朝、Yが自分が入っている写真のサークルに入ってみないかと誘ってきた。
彼のフォトアルバムには何時も美しい自然の景色や街並みの写真が載せられている。
このサークルに参加して撮ってきたものであろう。
真理は奈良県に住んでいるが、Yは京都府だという。
サークルに入ると、撮影会に参加してYに会うことになる。
秋絵のように、いそいそと詳しくも知らない男に会いに行くほど気乗りはしない。
しかし彼が実際どんな人間なのか見てみたい気もする。
写真のサークルなので、二人きりではなく、何人かの仲間で行動するようなので安心ではあるが、問題はカメラである。
写真のマニアのサークルなら、皆それなりの立派なカメラを持っていると想像されるが、真理は小さなデジカメしか持っていない。
Yにそれを言うと、
「カメラなどはどうでもよい。写す人の心だ。」
と答える。
これは真理を誘う口実であることは明確だ。
見え透いた言葉でも信じた振りをして、とにかくそのサークルに入ることにした。
9月の撮影会はびわ湖の西だという。
少し遠いが思い切って参加することにした。
久し振りに子供の頃に返ったような遠足気分になり、服装や弁当などあれこれと今から考えてウキウキしている真理であった。
しかし参加するに当たって、夫にどのように話を切り出そうかと悩んだ。
まさか夫に秘密にしているメル友の誘いだともいえず、高校の同級生K子がびわ湖に遊びに行こうと誘ってくれるので、行ってくると嘘をつくことにした。

仮想の狭間(13)

2010-04-13 11:16:54 | 仮想の狭間
 撮影会の待ち合わせ場所は、JR京都駅の中央改札口前と、Yのメールで連絡があった。
当日、真理は近鉄電車で京都駅まで行き、中央階段を下りていくと、改札付近にそれらしきリュックサックを背負った数人の男女を見つけた。
携帯電話をYに入れると、その中の青いチェックのシャツに黒い野球帽を被った小柄な男が携帯を耳に当てるのが見えた。
「ああMRさんですね。今どこですか?」
「すぐ近くまで来ています。」
真理は手を挙げてその男に近付いた。
「始めまして。
私Yこと山崎です。よろしく。」
「私はMRこと真理です。
今日はお世話になります。
よろしくお願いします。」
お互いにハンドルネームしか知らなかったので、初めて本名を名乗った。
メンバーは男性二人と女性が真理を入れて二人の四人であった。
びわ湖近くの駅で、もう一人の男性が自動車で待っているとのことだ。
電車は山科駅で湖西線に乗り換え、真理が空いている席に掛けたら、すかさず山崎が横に座った。
暫くしてトンネルを抜けると、びわ湖が青い湖面を見せ始め、対岸の山々はまだ紅葉には早く、山の緑と湖の青が絵のように美しい。
そんな景色を眺めながら、真理は昔を思い出していた。
夫の敏之とまだ付き合い始めたころの夏、びわ湖畔の水泳場へ二人で遊びに来たことがあった。
泳いだり、砂浜を走って戯れたことが懐かしく蘇ってくる。
あの頃の敏之はスリムで格好良かったし、真理にいつも気を遣ってくれる優しい人だった。
ぼんやりと車窓から湖に目を向けて、思い出に耽っている真理の顔に、いつの間にか笑みが浮かんでいた。
「真理さんが楽しそうで良かった。」
突然横で声がしたので、驚いて我に返った。
山崎が横にいたのを忘れかけていた。

 目的の小さな駅に着いて改札を出ると、もう一人のメンバーの男性が大きな白いワンボックスカーの横に立って待っていた。
山崎が真理を紹介すると、その男性は満面の笑みを向けて言った。
「加藤と申します。
貴女のような素敵な女性に、このサークルに入って頂いて大変嬉しいです。
これからは撮影会に出てくるのが楽しみです。」
加藤は山崎と大学の同期生だったという。
山崎は色白でふっくらした顔をしていたが、加藤は背が高く痩せ形で、日焼けした精悍な顔付をしている。
二人が並ぶと小柄で童顔の山崎が随分と若く見える。
皆が乗った加藤の車は交通量のまばらな道路を走って行く。
両側に広がる田んぼは黄金色の穂をたわわにしならせて、もう収穫期が来ていることを知らせているようだ。
コンバインによる収穫作業をしているところに出くわした。
加藤は車を停め、メンバーが降りて、近くの景色をカメラにおさめている。
さすがに皆 一眼レフの立派なカメラを持っている。
真理は小さなデジカメを出すのが恥ずかしく、コンバインの作業をじっと見つめていた。
機械の前に付いている刃で刈り取られた稲が機械の中を通ると、上から横に伸びている長い筒から籾が出てきて、筒の先に取り付けられた袋に入って行く。
そしてワラが短く切られて散っていくのだ。
何だか手品を見ているようだ。
 また暫く車で上り坂を走ると小さな集落に付き、その向こうに棚田が見える。
そこが目的地らしい。
それぞれに皆、構図を考えながら位置取りをして、土手や畔に三脚を立ててカメラを覗いている。
山崎が真理のそばに来て、構図の取り方やカメラの構え方などを丁寧に教えてくれる。
初めてで心細かった真理は、親切にしてくれる山崎が頼もしく感じられる。
川のほとりの空き地で、皆が輪になって会話をしながら弁当を食べた。
真理は子供の頃の遠足のように童心に返って楽しく、来て良かったと思った。
 
帰りはまた朝降りた駅から電車に乗ることになり、切符を買うために皆が券売機の前に寄っていたが、真理は山崎が一緒に買うというので一人離れて待っていた。
そこに車を運転していた加藤がやって来て、小声で話しかけてきた。
「真理さん、差支えなかったら今後の連絡のため、携帯電話の番号とメールアドレスを教えてくれませんか。」
急に言われて真理は迷った。
教えてむやみに何度も電話をかけられたり、メールをしてこられては困ると思い、きっぱりと断った。
「わたし、携帯の番号やアドレスは他人にはあまり教えないことにしているんですよ。
ごめんなさい。気を悪くなさらないでくださいね。」
「いえいえ、こちらこそ初めて会った人に失礼なことを言いました。」
真理は加藤が自分に興味を持っているのを何となく察していた。
加藤は明るく好感の持てる素敵な男性だとは思うが、秋絵のように付き合っている男性と特別に近い関係を作りたくはないと思う。
そんな勇気を真理は持ち合わせていなかった。

仮想の狭間(14)

2010-04-12 22:50:11 | 仮想の狭間
真理が撮影会から帰宅して玄関を入ると、リビングから電話のベルが聞こえた。
夫の敏之が受話器を取ったようだ。
何と同級生のK子からだという。
夫の敏之には、今日びわ湖へK子と一緒に行ったことにしているのに。
慌てて受話器を受け取ったが、真理の心臓は張り裂けそうに動悸が打っている。
「お久しぶりね。
今日、貴女の家へ行こうと思っていたのよ。
でもちょっと野暮用が出来て行けなかったの。
最近どこかへ行った?
今日は何をしていたの?
この頃何かやっている?」
たたみかける様に次から次へと話すK子の言葉に、真理は傍にいる夫を気にして、しどろもどろの返事を返していた。
電話を切ると汗が噴き出してきた。
もう少し帰りが遅くなっていたら危ないところだった。
それにK子に野暮用が出来て、来訪されなくて助かったと胸をなで下ろした。
それにしても滅多に真理の家にやって来ることがないし、電話も掛けてこないK子が今日に限ってどうしてそんな気になったのかと恨めしくさえ思う。
夫に嘘をついて出かけたことに罰があたったのだろうか。
今日はグループで撮影会に行ったのだから、何も隠すことはなかったのにとは思うが、写真のサークルに入った経緯を夫に理解させるのは難しい。
 その夜、早速山崎からメールが入っていた。
<加藤君、真理さんが気に入ったらしいね。
さっき電話があったんだけど、「俺には携帯番号を教えてくれなかったのに、どうして君は知っているんだ。」なんて言うんだよ。
待ち合わせするのに必要だよね。
だけど僕だけが真理さんの番号を知っているのって嬉しいよ。>
真理はK子の電話のことで気が動転していて、山崎にお礼のメールを入れていなかった。
急いでお礼の言葉を送った。
自分の携帯番号を知っているだけで、単純に喜んでくれている山崎に対して、温かいものが胸に込み上げてくるのを真理は感じていた。
翌日加藤から、真理のコミュの仲間に入れてほしいと、サイトのメールで依頼があった。
山崎から真理のコミュサイトを聞き出したのであろう。
拒否する理由もないのでOKした。

 数日後、秋絵が真理の家にやってきたが、浮かない顔をしている。
「最近彼とはどうなの?」
「ええ・・少し前まではお茶をしたり、美術館巡りをしたりして楽しかったわ。」
「今は楽しくないの?」
「そうじゃないけど・・・・」
秋絵は言い淀んでいる。
「何かあったの?」
「・・・・美術館へ行った帰りに、向こうからキスをしてきたので、キスくらいならいいかなと思って2度ほどしたのよ。
だけどこの頃ホテルへ誘うのよ。
勿論断っているわよ。
それでだんだん会うのがおっくうになってきているの。」
「あら、危ないわね。
もう付き合うのは止めなさいよ。」
「そうね、でも・・・」
まだ未練がありそうな秋絵である。
「男の人って最終的にはそれが目的で近寄ってくるのかしら。」
真理の頭に山崎や加藤の顔が浮かんだ。
彼らもそんな下心があるのだろうか。
いや、あの人たちに限ってそんなことはあり得ない、と否定してみるが自信がない。
「ご主人はまだ出張が多いの?」
「そうなの。
でも来月から暫く出張がないようなので要注意よね。」
「要注意だなんて、まだ彼と会うつもりなの?
コミュサイトの中だけで付き合っていれば安心なのに。」
こんな言葉を秋絵にしている真理も、一歩踏み出してしまっている。
自分も山崎や加藤と今後撮影会で会う機会があれば、秋絵と同じ展開にならないとも限らない。
心がすでに山崎に傾いている真理だが、泥沼に踏み込むような男女の関係を望んでいるわけではない。
秋絵が以前、彼との関係を「ただの茶飲み友達」と言ったが、真理も山崎や加藤とはメールや写真を一緒に楽しむだけの間柄を続けていけたら嬉しいと思う。
秋絵のことが急に心配になってきた。
「やっぱり貴女の付き合っている彼は危険だわ。
もう会っては絶対にダメよ!」
いつになく真理の強い口調に、秋絵は驚いた表情をして真理の顔を見つめた。

仮想の狭間(15)

2010-04-12 20:09:36 | 仮想の狭間
 庭のケヤキやカエデが黄や赤に染まってきた。
手芸の仲間は今月も真理の家に集まっている。
庭の芝生でゴルフのクラブを振っている真理の夫を見ていた百合子がフーと溜め息をついた。
「真理さんのご主人はいいですね。
うちの主人なんか毎日牛馬のように朝から晩まで働いているのに、給料は下がるし、ボーナスも出るかどうか分からないんですよ。
わたしもパートの仕事を探しているんだけど、事務系だと この歳ではなかなか見付からなくてね。」
「うちの主人も勤めでいる頃は、早朝に家を出て、帰りは午前様だったのよ。
あの人が勤めている頃に、バブルの崩壊があって、その時は会社も大変だったようだけど、幸いに辞める前は今のような不景気ではなかったので、給料やボーナスが減るような心配はしないで済んだわ。」
「そう、この不景気で今はどの会社も大変みたいね。
うちの主人もどこへ転勤になるか分からないわ。」
「あら、秋絵さんのご主人も転勤があるのね。
そうなったら引越しになるでしょうし、遠くへ行くようなことがあればいろいろと困ることが出てくるわね。」
真理が秋絵に意味ありげな目を向けた。
「そうよね。働いている人はみんな大変な苦労をしているのだから、贅沢は出来ないわ。」
秋絵の交友関係を知らない美代子が真理の言葉の意味を理解しないまま言った。
外にいる真理の夫を気にして小声で話を続けた。
「この前、例のダンスを習っている友達に会ったら、ちょっと気になることを言っていたのよ。
その友達がスーパーで買い物をしていたら、めぐみさんが駆け落ちをしたという相手の男性が、奥さんや子供を連れて歩いているのを見たと言うの。」
「ええっ、それじゃあ めぐみさんはどうしているのかしら。
捨てられたってこと?
めぐみさんの家は今も雨戸が閉まったままよ。」
と秋絵が首をかしげた。
真理も不思議そうな顔をして言った。
「やっぱりそんな恋は成り立たないのかしら。
それとも もう熱が冷めたのかしら。
恋をしているときには周りのことが見えなくなって、とんでもない行動に出てしまうけど、落ち着いて考えたときに自分の行動が如何に他の人を傷つけているかが分かるものよ。
めぐみさんには悪いけど、その男性が奥さんや子供のところに戻って良かったんじゃないの。」
真理は秋絵にも自分にも言い聞かせている。
山崎と加藤が次の撮影会に誘ってきている。
次回は京都の寺での撮影会だという。
その次はびわ湖の北の夕日を撮りに行くのだそうだ。
夕日はとても美しい景色で写真仲間では大変人気のあるところなので、是非来るようにと加藤がメールを送ってきた。
真理は胸がワクワクする一方で、胸をときめかせている原因が彼らに会うことなので、夫に対して後ろめたい気がしている。

 百合子は仲間のそんな会話に入れないでいた。
夫の壮介が勤める会社がだんだん規模を縮小して、人員削減が進んでいる。
夫は会社に残れるのだろうか。
会社はこの不景気に持ちこたえられるのだろうかと、最近になって不安が募ってきた。
もし壮介が失職するようなことがあれば、亮太の進学も考え直さなくてはならない。
百合子自身も職をあれこれと選んでいる余裕はなくなる。
仲間とこんな悠長な時間を持っていることに罪悪感さえ生まれてくる。
ついこの前までは、この集まりでストレスが解消されていたのに、今日は焦燥感でこの場にいることが辛く感じられる。

仮想の狭間(16)

2010-04-12 19:34:19 | 仮想の狭間
 真理の家のリビングでは刺しゅうや編み物など手芸の材料をメンバーが片付け始めた。
庭から真理の夫、敏之の声が聞こえてきた。
「やあ、暫くです。お元気でしたか」
真理が窓の外を見て、「えっ!」と大きな声を出した。
他の者もみな外を見て、驚いた様子で口をぽっかり開けている。
敏之の前に笑顔で立っているのは、あの駆け落ちをしためぐみなのだ。
真理が慌てて玄関へ迎えに出た。
リビングに入ってきためぐみは大きな紙袋を提げて明るい表情だ。
「こんにちは。お久しぶりです。
何の連絡もしないで休んでしまってごめんなさい。
やっと昨夜帰って来ることが出来ました。」
紙袋から菓子箱を取り出してテーブルの上に置いた。
何と声を掛けて良いのか、皆一瞬言葉が出ない。
「あのう・・・ぶしつけでごめんなさい。
彼はどうしたんですか?」
秋絵が皆が思っていることを代弁した。
「彼? ああ、息子ね。
あまり傍にいると甘えすぎるので、思い切って帰ってきたんですよ。」
「息子?」
その場の皆がキツネにつままれたような顔になった。
「まあ、息子だなんて。
みぐみさんたら、ごちそうさま。
でも彼とは7つしか違わないのに・・・」
美代子は彼のことを息子と無神経に呼ぶ めぐみに不快感をあらわにした。
「思い切って帰ってきただなんて、貴女が彼を捨てたの?」
詰問するように真理が単刀直入に尋ねた。
「あら 真理さん、さっきは彼が奥さんや子供さんのところに帰ってきて良かったと言っていたんじゃなかったかしら。」
百合子はめぐみの悪びれない様子に不信の念を抱いたが、事情も聞かないでめぐみを責めるような口をきく真理たちにも同調できない。
実際、百合子にはこんな駆け落ち話はどうでもよい気がする。
それより自分の家の経済の方が心配なのだ。
「7つ違うとか、捨てただとか、みんな何を言っているのかしら。
彼、彼って一体誰のこと?
私は息子と7歳どころか24歳違いますよ。」
「はあ?
めぐみさんはダンス教室で知り合った男性と、ずっと一緒ではなかったの?」
秋絵の言葉に真理も続けた。
「そうよ。
7歳年下の彼と駆け落ちしたって聞いていたわよ。」
「まあ、とんでもないことになっているのね。」
「違うの?」
真理、秋絵、百合子が情報もとの美代子の顔を一斉に見た。
顔を赤くして、目を泳がせていた美代子が暫くして口を開いた。
「だって、私の友達の話では、その男性とめぐみさんはとても親しかったって聞いたわ。
同じ時期から二人が教室に来なくなったし、家も雨戸を閉めたままだから、二人はきっと駆け落ちをしたのだろうと噂になっていたのよ。
私、その話を信じてここで話してしまったの。」
「ところでめぐみさんは今までどこへ行っていたの?」
真理の質問に答えるめぐみに もう笑顔はない。
「私の息子が東京で就職しているのは皆さんご存知よね。
その息子が交通事故で大怪我をして、東京の病院に入院していたんです。
知らせを聞いて、取るものも取りあえず駆けつけたもので、こちらには連絡が出来なくて・・・
その子が退院して一人で生活できるまで回復するのを待っていたら、こんな時期になってしまったんですよ。」
「あら、そんな大変なことがあったの。
それで息子さんはもうすっかり良くなられたんですね。
良かったわ。
何も知らずに不謹慎な噂話を信じてごめんなさいね。」
真理が謝ったのに続いて美代子もごめんなさいと頭を下げている。
「それで例の男性はどうしてダンス教室に姿を見せなくなったのかしら。」
秋絵がまだしつこく訊ねている。
「ああ、あの人は福岡に転勤になったらしいの。
子供さんの学校や持ち家のこともあるので、単身赴任だと言っていたわ。
連休ぐらいしか、こちらには帰れないそうよ。」
美代子も秋絵も、めぐみの息子の不幸中に、不謹慎な噂話をしていたことは申し訳ないと思う反面、ここで盛り上がった話が全くの想像話だったことに気落ちしている。
百合子とめぐみは他の者のより一足先に真理の家を出て行った。
「今のめぐみさんの話本当かしら」
残っていた秋絵と美代子はまだ疑っている。
と言うより駆け落ち話が事実でないことが残念でならないようだ。

仮想の狭間(17)

2010-04-12 17:23:14 | 仮想の狭間
 百合子がやっと見付けた仕事はパン屋のレジ係だ。
そのパン屋はオフィスの入ったビルや商店などが混在する通りにあった。
5階建てビルの一階に このパン屋と和食レストランがあり、このビルのオーナーが経営していた。
職場にはパン職人の40代の男性と、その助手をするパートタイムで働く20代の女性一人、それに30過ぎの女性が2人いた。
朝9時に出勤すると、パン作りの現場ではもう4人が早朝から働いている。
百合子はシャッターを開け、店の中を掃除して出来あがってくるパンを陳列台に並べる。
そうしているうちにも客が入って来る。
食パンが焼きあがるのは11時頃で、それが済むと職人も助手も帰ってしまう。
百合子が慣れるまでは助手の女性一人が残って手伝ってくれていたが、一週間もするとその一人も11時には帰って行く。
昼になると、ここのサンドイッチや調理パンに人気があるのか、近くの会社や商店に勤める人たちで店の中が賑わい、百合子は一人で忙しくレジを打ち、パンを袋に入れて客に渡す。
どんなに忙しくても笑顔を絶やさないように心がけているが、独身時代にOLをやって以来の勤めで接客仕事は初めてのうえに立ち仕事なので、疲れてどんな顔をしているのか分からない。
午後になると客も少なくなって一息つくことが出来、やって来る客と親しく話をするようになった。

 パート帰りの主婦は上司の悪口を思いっきり話して帰る。
あれだけ言えば、さぞすっきりストレスも解消するだろうと百合子は思う。
 夫と性格が合わず離婚をしたが、思わしい仕事がなかなか見つからないので生活が苦しいと嘆く女性もいる。
 赤ん坊を背負い、2~3歳の女の子の手を引いた若い母親は髪の手入れも化粧もしていない。
夫がパチンコ店に入り浸りになって給料を入れてくれないと涙を流して話す。
気の毒とは思うがどうしてやることも出来ない。
 また夕方に入ってきた女性は調理パンを幾つか買って、
「これは子供の今夜の食事よ。
私、これから勤めなの。」
と高いヒールの音を立てて急いで店を出て行く。
 このビルの50メートルほど先に大きな店構えの和菓子屋がある。
そこは最近販売網を全国に広げ規模を拡大している。
そこに勤める店員も時々やってくる。
「うちの社長や奥さん、さぞ贅沢な生活をしていると思うでしょう。
ところが凄く質素なのよ。
最近は資金繰りが上手くいかないのか、社長がイライラしていて奥さんとも上手くいっていないらしいの。」
店員は口に人差し指を当てて、
「内緒よ。」
と言って帰って行った。
外見は派手で優雅に見える家庭も内情は分からないものである。
毎日様々な客が様々な話をしていく。
まるで人生の縮図を見ているようだ。
其々の環境に住む女性たちの生活の現実を、テレビドラマを見るように百合子はこの店で見ている。
 3時過ぎに来て、カウンターでパンと自販機の缶コーヒーで間食をとりながら話し込んでいく営業マンもいる。
彼らはカウンターの中にいる百合子のことをママと呼ぶ。
百合子はそんな呼ばれ方が嫌だった。
酒場で働いているような気分になるのだ。
そう言えばもう一つ嫌な呼ばれ方がある。
パン作りの助手をしている女性たちが、時折百合子のことを「おばさん」と呼ぶのだ。
「おばさん、このパンそこに並べといてよ。」
「おばさん、はようしてや。」等と。
大抵は名前を呼ぶが、急いでいるときは おばさんである。
百合子はまだ40代半ばで、ここの女性たちとはそんなに歳は違わないと思っていたが、彼女たちから見ると既に自分は「おばさん」なのかと気分が萎えてくる。

 5時になると交替の女性が出勤してくるので、帰り支度をして外に出る。
秋の日暮は早く、薄暗い中に街灯の明かりが歩道を照らしている。
街路樹のイチョウの葉が足元に舞ってまとわりつき、風が冷たく感じられる。
襟元を掻き寄せ、首をすくめて急ぎ足で駐車場に向かい、車を走らせるころには辺りが真っ暗になっている。
帰り道スーパーで食料品を買うのが日課になった。
店の中を走るように買い物をして家に着くと、部活の無くなった亮太はいつも百合子より先に帰宅している。
百合子が働き出してから、亮太は少し素直になったような気がする。
以前のように「うるせえ。」とか「別に。」という言葉を使わなくなった。
 時間に追われて最近はパソコンを開く暇もない。
インターネットの世界に浸って、ブログに夢中になったり、通販で衝動買いをしていたころが懐かしい。
しかし今働いているパン屋で出会う女性達はみな懸命に生きている。
バーチャルの世界が素晴らしいものと、毎日パソコンを相手に遊んで過ごしていた以前の生活より、夫の収入は減ってもリアルな人々の生活が見られる今の生活の方が生きている実感があると、現在の生活に楽しみを見つけた百合子である。

仮想の狭間(18)

2010-04-12 16:49:48 | 仮想の狭間
 めぐみは息子の世話をしていた4ヶ月間、パートタイムの仕事を休んでしまい収入が途絶えていた。
その上、怪我をした息子の治療費も一部負担をしていたので、その分稼いで取り戻さなければと仕事に精を出し始めた。
働くことで時間の余裕がなくなった百合子とめぐみは真理の家で開いている【手芸の集まり】を止めざるをえなくなった。
秋絵は夫が千葉県にある支社へ転勤になり、そこへ娘と付いて行くという。
メンバーが3人も欠けて、この集まりは自然消滅する羽目になった。
先日、秋絵が夫の転勤や引越しのことを伝えに真理の家を訪れた。
先ごろまでの派手な服装ではなく、以前のようにモノクロの服に素顔である。
彼女が付き合っている彼のことを真理が尋ねると、彼とはこの前の土曜日に別れてきたという。
美術館へ一緒に行った帰りに、もう会えないからとホテルに誘われたが、きっぱりと断り最後に強く抱きしめてもらったそうだ。
「一線を越えなかったわよ。」
と秋絵は涙目で話した。
一線とはどこで引くのかと真理は疑問に思う。
何はともあれ、秋絵は彼と別れて元の落ち着いた主婦に戻っている。
しかしメールのやり取りは今まで通り続けるそうだ。

 9月末に写真サークルの撮影会が京都の高山寺であり、このときの参加者は6名で加藤は不参加であった。
小高い山の木々の間に幾つかの建造物があり、その一つ石水院の建具やその中から見る山々の景色が素晴らしい。
紅葉には少し早いモミジの間に、斜めに敷かれた四角い敷石が続く参道や、杉木立の中の小道も写真に撮るには良い被写体だ。
どこを見ても絵になる風景だった。
あの時も山崎は、いつも真理の傍にいて優しくアドバイスをしていた。
高山寺からの帰りは、山崎が真理を自動車で京都駅まで送ることになった。
「二人だけでもう一ヶ所、どこかへ写真を撮りに行こう。」
車の中で山崎が誘ったが、真理はなぜか危険なものを感じて断った。
しかし行けば良かったと後悔もする。
以前はしつこく近寄ってくる山崎を疎ましく感じていたのに、最近 真理は山崎のことが心から離れなくなっている。

毎日のメールが待ち遠しくて、何度もパソコンを開いたり閉じたりしている。
携帯のメールでも良いが、お互いに夫や妻のいるところではメールを開くことが出来ないのでパソコンのメールを利用している。
10月の写真サークルはびわ湖の夕景を撮影する予定になっているが、山崎はあまり乗り気ではないらしく、真理にそれほど勧めない。
しかし加藤は何度も誘ってきている。
『もうすぐカモなどの冬鳥が飛来し、びわ湖の水面に浮かぶ姿を写真に撮るのもいいし、枯れたヨシを近景に暮れゆくびわ湖を撮ってもいい。
帰って来る漁船がシルエットのように、赤く染まった湖に映る景色が素晴らしい』などと、しきりにその美しさをメールで書いてくる。
真理はまだ見たことがないその景色を見てみたいと思う。そして写真にも撮りたいが、夕景を撮っていると帰りが遅くなるのが気になる。
たまには遅く帰宅しても良いが、さて誰と行くと夫に言えばいいか。
写真のサークルに入ったことは高山寺へ行ったあと、その写真を見せながらそれとなく夫に話した。
K子に勧められて入ったことにしている。
これは以前、一緒に行ったはずの本人から電話がかかってきて、嘘が暴露しそうになったあの高校の同級生K子である。
またK子をダシに使おうかと思うが、また電話がかかってきてはと迷う。
山崎と加藤のメールに気を取られて、近くにいる夫の敏之のことが目に入っていなかった真理は、最近敏之が携帯を手放さないのを不審に思うようになった。
度々携帯の呼び出し音が聞こえ、その度にニ階へ行ったり庭に出たりしている。

仮想の狭間(19)

2010-04-12 16:00:02 | 仮想の狭間
 敏之の携帯の相手は一体誰だろうと真理は勘ぐり始めた。
改めて夫の行動を振り返ると、不審に思えることが幾つか思い浮かぶ。
敏之の勤めは週に二日だが、それ以外の日はゴルフとか、会社のOBとドライブだとか言って外出する日が最近多くなったように思う。
出掛ける日は洗面所の鏡の前で何十分も頭や顔の手入れをしている。以前はそんなに時間を掛けて手入れをする人ではなかったのに。
この頃敏之の服装がおしゃれになってきたのを真理は単純に喜んでいたが、ほとんど真理と一緒に外出することがなくなっていた敏之は誰のためにおしゃれをしていたのだろう。
家の中で片付けをしている時も鼻歌まじりであったり、口笛を吹きながらやっていることが多く、定年になってストレスが無くなったので日々が楽しいのかと思っていたが、真理が山崎や加藤のメールに心ときめかせているように、夫の敏之も心惹かれる相手が出来たのだろうか。
真理は敏之が遊びに出かける際に、誰と一緒なのか尋ねたことがない。
それだけ安心しきっていたのと、パソコンの中の相手に夢中になっていて、夫の行動に関心がなかったのだ。

 夕食時、敏之が皿のスープをスプーンですくいながら、真理と目を合わさずに話しだした。
「来週の土曜日、会社のOBと山梨の方へ一泊旅行に行ってくるからね。」
「そう、山梨はもう紅葉がきれいでしょうね。
それでOBとはどなたかしら。」
敏之は少し驚いたような目を真理に向けた。
「うん・・・吉田君と・・・田中君だ。」
真理が遊び相手の名前を訊いてくるとは意外だったようだ。
また真理から目をそむけてスープをすすりだした。
敏之が名前を出した2名は聞いたことがあるような気がするが、真理が全く知らない人達だ。
それより驚いたことに、来週の土曜日とは写真サークルが計画したびわ湖の夕景を撮りに行く日なのだ。
行くかどうか迷っていたが、敏之が留守なら好都合と思いびわ湖行きに参加する決心をした。
「そうだわ、その日は私も写真サークルで出かける日なんです。」
「ふうん、またK子さんも一緒なのか?」
「そうよ。今度はびわ湖の北の方へ行く予定なの。」
K子が真理の家へ電話してきても、突然来訪しても敏之は留守なので嘘がばれる心配がない。
夜に早速 加藤と山崎に参加の意向をメールした。
加藤は喜んでくれたが、山崎はその日は都合が悪くて参加できないと連絡してきた。
真理は山崎に会えると期待していただけに、寂しくて胸の中に何か重いものが溜まっているように塞いだ気分になった。
翌朝、山崎からメールが入っていた。
<せっかく真理さんと夜まで付き合えるチャンスなのに、参加できなくて残念です。>

 次の週の水曜日、敏之は珍しく家にいて土曜日の一泊旅行の準備をもう始めている。
先日買ってきたジャケットを着て鏡の前に立ったり、鞄を出してきたり、下着を用意したり鼻歌まじりで用意したものを鞄の中に入れたり出したりしている。
昼食にカレーを作って夫婦で食べていた。
「びわ湖は若いころ二人で行ったことがあるね。
景色のいいところだからきっと良い写真が撮れるだろう。
楽しんでくるといいよ。」
などと敏之は機嫌が良い。
突然敏之の携帯の呼び出し音が鳴りだした。
敏之は携帯を開いて相手を確認すると、
「あっ、ちょっと。」と言ってニ階に上がって行った。
真理が食事を済ませても敏之は下りてこない。
カレーがご飯に染み込んで冷えてしまっている。
一時間近く経ってから、やっと戻ってきた敏之の顔は先程の明るい表情が消え、眉間にしわを寄せた険しい表情に変っていた。

仮想の狭間(20)

2010-04-12 15:55:37 | 仮想の狭間
 もう何年も敏之に対する熱い感情を忘れていた真理であったが、胸の中にモヤモヤと誰に対してか分からない嫉妬心が湧いてくる。
翌日、この日は出勤日であるはずなのに、敏之は家を出ようとしないで何時までも新聞を読んでいる。
読んでいるのか同じところをぼんやり見つめているのか定かではない。
昨日の昼の電話は誰からだったのだろう。
真理は気になるが訊ねられる雰囲気ではないのだ。
ようやく立ち上がった敏之は昨日の旅行鞄に入れたものを出して、元あった場所に片付け始めた。
「あら、旅行に行かないの?」
「うん、田中君の家に不幸が出来たので行けなくなったんだ。」
「それじゃあ。」吉田さんと二人で行けばいいじゃないのと言いかけたが、敏之の落胆ぶりを見ていると、その言葉を飲んでしまった。
田中や吉田と一緒だというのは、その場しのぎの出任せであることを最初から直感で真理には分かっていた。
付き合っている女性との間に、何か亀裂が生じたのかもしれない。
 夕食時、黙り込んで食べていた敏之がとんでもないことを言いだした。
「今度の土曜日、真理の行く写真の撮影会に俺も付いて行っていいかな。」
「だってあなたはサークルの仲間ではないでしょう。」
「メンバー以外の者でも付いて行くくらいは許されるだろう。」
「そんなのダメよ。他の人が嫌がると思うわ。」
真理自身が嫌なのだ。
夫に内緒の自分だけの楽しみを、夫に覗き見られるようなことはしたくない。
「メンバーの人に訊いてみるけど、多分ダメだと思うわよ。」
その夜、夫が次の撮影会に付いて行きたがって困っていると、加藤にメールで知らせたら、意外な返事が返ってきた。
<真理さんのご主人ならOKですよ。
僕もお会いしたいので是非一緒に参加してください。>
あれだけ熱心に真理を誘っていた加藤は、自分に特別な思いを寄せているものと信じていただけに、このメールはショックが大きかった。
加藤は拒否したくても、真理に気兼ねして拒否出来なかったのかもしれないと、自分に都合のよい解釈をして気を取り直した。
敏之に加藤の返答通りOKが出たと伝えるべきか、拒否されたと言うべきか迷う。
真理の本心は、家庭から解放される自由な時間や場所を敏之に邪魔されたくないのだ。
しかし昨日からしょげ返っている敏之が少し可哀そうにも思える。
今回は真理が心動かされている山崎が参加しないので、一度くらいは気晴らしに敏之を連れて行っても構わないかと、K子が急用で不参加になったことにして、夫婦で行く決心をした。

 当日は秋晴れのよい天気になった。
駅前のレストランで早めの昼食を済ませ近鉄電車に乗った。
京都駅でJR琵琶湖線に乗り換え湖北に向かった。
米原で加藤が他のメンバーと自動車で待っている手はずになっている。
あれ以来、敏之は口数が少なく気持ちが落ち込んでいるのが表情で読み取れた。
電車の中でも二人は殆ど口を利かずに窓の外を眺めていた。
マンションや新しい住宅、田んぼや畑、農家の家並が車窓を流れて行く。
刈り取られたベージュの田中の畑に、真っ赤に熟した柿が鈴なりになって収穫されずに残っている。
真理は前の座席に座ってぼんやりと外を見ている敏之に目を移した。
目の下や頬に深い皺が数本出てきて、いつの間にか老け込んでいるのに気付いた。
それほど近頃は夫の顔を近くでまじまじと見たことがなかった。
この人はどんな女性に心惹かれたのだろうと考える。
顔に? 姿に? 性格に? 何に惹かれたのか。
しかし、今の敏之を見る限り、その女性との関係は破局を迎えているように思える。
電車は米原駅に着き、改札を出ると加藤があの満面の笑顔で待っていた。

仮想の狭間(21)

2010-04-11 23:06:19 | 仮想の狭間
 駅前には加藤の自動車の横にもう一台黒いセダンが停まっていて、中にサークルのメンバー三人が乗っていた。
二台で撮影場所まで行くことになっているようだ。
真理たち夫婦は加藤のワンボックスカーに乗るように促された。
後ろのシートに真理と並んで乗るものと思っていた敏之が、加藤の横の助手席に勝手に乗ってしまった。
真理は後ろのシートに一人で掛けて、前の二人を見る形になり、加藤が夫と並ぶのでどんな話が出るのかと心穏やかではなかった。
車は琵琶湖岸に出て北上していく。
青い湖面と道路沿いの黄色く色付いた並木が美しく目に入って来る。
前で敏之が加藤に話しかけている。
以前に勤めていた会社のことや定年後に勤めだした職場のことなど、自分の経歴を紹介しているようだ。
加藤も自分自身のことを話しだした。
真理はメールのやり取りはしていても、加藤の経歴をほとんど知らなかったので興味を持って聞き耳を立てた。
加藤は琵琶湖西岸の農家の生まれで、京都の大学を出ると商社に就職をして、営業マンとして各地を転々としていたようだ。
定年を迎えたのを契機に故郷に戻って、親がやっていた農業をしながら好きな写真を楽しんでいるという。
「ほう。」と羨ましそうな相槌を敏之は何度も打っている。
加藤のあの満面の笑顔や、メールにみられる人を惹き付ける文章、言葉はこれまで彼が歩んできた職業からきているものか、それとも人柄によるものか、いやその両方が加藤という穏やかな人物を作り出しているのであろう。
その魅力に真理は惹かれてしまったのである。
長浜城近くのホテルの喫茶コーナーで休憩をとった。
そこでも加藤と敏之はコーヒーを飲みながら話が弾んでいる。
 現地に着くと加藤がメールで書いていたように湖岸にヨシが生え、それが枯れている様に風情があり、ここから見る夕日の景色は絶好の撮影スポットだろう。
前方に小さな島が見え、対岸に山々が連なっている。
夕日にはまだ早いので、波間に浮かぶ水鳥を写真に撮ったり、田畑の風景を撮ったりと各自が思い思いに時間を過ごしていた。
加藤と敏之はよほど気が合ったのか行動を共にしているので、真理もその後を付いて歩いた。
加藤は自分の愛用のカメラを見みせながら得意そうに説明をしていて、敏之がそれに大いに興味を持ったようだ。
二人の間に真理の入る空きはない。
これほどこの二人が親しくなるとは予想もしなかったことだ。
本来なら真理の傍で加藤が山崎のように親切にアドバイスをしてくれていたはずなのに、と敏之を連れてきたことを後悔する。
夕暮れ近くになると湖岸道路の歩道はカメラマンの三脚がズラリと並ぶ。
陽が落ちるまで、真剣な顔で彼らはレンズを覗いている。
真理と敏之は三脚もデジタル一眼レフも持っていないので、二人してコンパクトデジカメで夕日を撮ったり、暮れかかる辺りの景色を撮っていた。

 帰りの電車の中での敏之は来る時とは全く違って明るく、先日の電話で気落ちした何かから吹っ切れたように思える。
「俺も写真サークルに入れてもらおうかな。
デジイチも買わなければね。来週にでもカメラ店へ行ってみようか。」
真理にしてみれば今回一回だけのつもりの夫の同行が、今後も続くのかと思うと憂鬱になる。
インターネットの世界から現実の世界に飛び出して得た甘い楽しみの中に、夫が入って来ることはその終わりを告げるものなのだ。
彼がゴルフと称して他の快楽を得ていたことは想像されるが、真理自身も山崎とのメールや写真サークルの中で、夫を少なからず裏切っていたのは確かなことで彼を責めることが出来ない。
数日後、電器の大型量販店で一眼レフカメラを二人で選んでいた。
敏之は加藤から教えてもらったカメラの知識を生かしているようだ。
相変わらず山崎から毎日甘いメールが送られてくる。

仮想の狭間(22)

2010-04-11 22:41:57 | 仮想の狭間
 一眼レフデジカメを買って以来、夫の敏之は近所の景色を写真に撮ったり、庭の花を撮ったりと熱心に取扱説明書を見ながら撮影会に行く準備をしている。
真理にもカメラの使い方を教えるが、今一つ夫と撮影会に行くことに抵抗のある真理は何時も上の空で聞いている。
12月の撮影会は京都の洛北だそうだ。
山崎や加藤がメールで熱心に誘って来るが、以前ほどウキウキとした気分にはなれない。
「今度の撮影会は来月の第2日曜日だそうよ。」
リビングのソファーにかけてテレビを見ていた敏之は、真理の言葉を聞いて手帳を取り出した。
「その日は会社のOB会のゴルフコンペがある日だ。
これ休むわけにはいかないんだよな。」
予定表を見ながら敏之は如何にも残念そうだ。
「撮影会はまた何度でもあるんだからゴルフの方へ行けばいいじゃないの。」
真理は夫が参加しないと分かると俄然やる気が出てきた。
その日からカメラの取り扱い説明書と首っ引きで使い方を覚えようとしたが、なかなか分かり辛い。
少々理解できていなくても山崎や加藤が優しく丁寧に教えてくれるだろうと、覚えるのを諦めてしまった。

 撮影会の当日、山崎が京都駅まで真理を迎えに来る手はずになっていた。
京都駅南口の駐車場で待っていると言うので、真理は南口を出たところで山崎の携帯に電話を入れた。
直ぐに彼の車がやって来たので助手席に乗り込もうとして真理が後部座席を見ると、真理と同年代の顔見知りの会員の女性と、40過ぎかと思われる若い女性が乗っている。
「おはようございます。」
挨拶をして山崎の隣に乗った。
「新しい会員さんですよ。」
山崎は親指を後ろに向けて上機嫌で言った。
洛北岩倉の実相院前に着くと加藤や他の会員が待っていた。
その辺りの神社や岩倉具視邸、実相院などを思い思いに皆が撮影をすることになった。
12月ともなるとこの辺りは冷え込む。
真理は薄着をしてきたのを悔みながら、山崎らの後ろを歩いて撮影場所を探した。
山崎らが神社の前で撮影準備にかかったので、真理もそこに決めて階段下から上に向かって写そうと三脚を出して設置にかかったが上手くカメラが三脚に載らない。
山崎はと見ると、先程車の後部座席にいた若い女性の傍で何やら熱心に教えていて真理の方を振り向きもしない。
手と首筋が冷たくなってきて焦り、三脚とカメラをガタガタさせていると加藤が通りがかりに気付いて設置してくれた。
加藤がカメラの使い方を説明していると山崎が近寄って来て、
「真理さん、良いカメラを持ってきたね。」
と声を掛けたが直ぐに若い女性の方に戻ってしまった。