NINAの物語 Ⅱ

思いついたままに物語を書いています

季節の花も載せていきたいと思っています。

憧れ(1)

2010-04-05 21:23:32 | 憧れ
山々は新緑に包まれ、野も萌える若草に覆われて新しい息吹を放出している。
ここは谷間の草深い山村。
ソウは畦に立って、父コキラを見ている。
山肌にしがみつくようにある小さな田に、父コキラとソウの兄ジンは苗を植えている。
朝から二人で懸命に植えているが、もう昼前だというのに、この小さな田の半分も進んでいない。
「ソウ。苗!」
父の声にソウは応えて、足元の苗の束を父の近くへ放り投げる。
暫くして父と兄は田から上がってきた。
泥だらけの手足をそばの小川で洗って、昼飯を食べるために父は二人の息子を伴って家に帰る。
ソウは裸足の足裏に触る草の感触が好きだ。
道の真ん中に生える草の上を、ピョンピョンと踊るように歩く。
 茅葺の家の中は土間の向こうに、敷かれた藁の上にムシロが置いてある。
その上に三人は掛けるように座った。
ソウの母ユウがヒエやアワの入った粥を椀に入れて、三人に差し出した。
おかずはユウが家の前の草むらで採ってきた野草を塩漬けしたものだ。
家族4人は粥をすするようにして食べた。

この貧しい村では収穫する米の中から、地主へ納める分を除くと残りは少なく、着物などは町へ出て、その貴重な米と引き換えに仕入れてきた。
村人が食べるものは少量の米と、アワ、ヒエ、家の周りで採れる僅かな野菜、それに山菜や野草だ。

憧れ(2)

2010-04-05 21:22:25 | 憧れ
ソウは地主の息子サナエと仲が良かった。
父の手伝いのない日は、サナエと隣家のヤスの三人でよく遊んだ。
歳はソウとヤスが数えの9歳で、サナエは一つ上の10歳である。

サナエは村にある寺で字や数を習っている。
ソウはそれを遊びながら、サナエから習うのが楽しみなのだ。
サナエは家の敷地の土に棒で字を書いてみせる。
ソウとヤスはサナエの真似をして、同じく棒で書いてみる。
「あははは ヤスの書いた字は何と読むんだぁ」サナエが笑い、後の二人も大笑いをする。
ソウは直ぐに字や数を覚えるが、ヤスはなかなか覚えられない。
しかし、三人はこんな事をして遊ぶのが大好きだ。
何も知らない二人に教えることは、サナエにとっても優越感が持てて気分が良い。

そんな遊びに飽きると、道の小石で投げっこをしたり、近くの小川で魚捕りを始める。
手ですくったり、サナエが持ってきた竹の箕で捕ったりと。
夢中で遊んでいると、日はもう西の山に隠れようとしている。
山村の一日は短い。
慌てて桶の中を見ると、今日は小魚が以外とたくさん捕れた。
三人で分けっこをした。
ソウの分け分は、モロコ6匹とタナゴ2匹にドジョウ3匹で、幅広い葉っぱで入れ物を作り、それらを入れた。
ソウもヤスも母親に土産が出来たことが嬉しくてたまらない。
家の入口を入ると、母のユウは雑炊を作っている。
「おっかあ、みやげ」
小魚の入った入れ物をソウは得意げに差し出した。
「「おお、これも煮て食べようかね。」
ユウもおかずが一品増えることを喜んだ。

憧れ(3)

2010-04-05 21:21:00 | 憧れ
季節はめぐり、また春がやってきた。
ソウは母ユウの後ろに着いて川の堤を歩いている。
川といっても、ユウの背丈の二倍ほどの幅しかない狭い川だ。
今日は山裾の竹林へタケノコを採りに行こうと、ユウが息子を誘った。
母の背の背負い篭を見て歩いていたソウの目が、ふっと川の前方に移った。
川向うに何か桃色のものがチラチラと見え隠れする。
何だろうと近づいて行くと、女性の着物であることが分かってきた。
桃色に小さな花を白く染め抜いた着物を着て、萌黄色の細い帯を締めた娘が、
対岸の草むらで野の花を摘んでいる。
つややかな黒くて長い髪を、背中で一つに赤い紐で結んでいる。
ソウはこんなに綺麗な着物は見たことがなかった。
娘が足音に気付いてこちらを向いた。
色白のふっくらした顔に黒く長いまつ毛の目、紅を差した小さな口もと。
ソウはゾクッと震え、ただ「美しい!」と思った。
村の女たちは皆、毎日の野良仕事で日焼けをして真っ黒な顔をしている。
着物も紺か地味な赤のしま柄のものしか着ていない。
ソウは胸がドキドキ高なって、母を追い越して急ぎ足で竹林へと向かった。
これまで自分の着ているものが恥ずかしいと思ったことはなかった。
しかし、今日は自分の格好がみじめで恥ずかしいと思った。
紺の格子じまの膝丈しかない短い着物、しかも肩や尻に継ぎが当てられている。
あの美しい顔で見られているのが耐えられなかった。
あの娘はどこから来たのだろう。
16歳、いや18歳になっているかもしれない。

憧れ(4)

2010-04-05 21:19:02 | 憧れ
竹林には細いタケノコが数多く出ていて、ソウと母のユウはタケノコの根元を足で踏み倒しては背負い篭の中に入れた。
そんな作業の中でも、ソウは先ほど出会った娘の姿が頭から離れなく、黙り込んだままだ。
背負い篭の中に小さくて細いタケノコが10本余り貯まった。
「今日はこれだけにして帰ろう。」
ユウが言って帰ることになった。
途中、あの娘に出会うのではと期待半分、娘に自分を見られたくない気持ち半分で、先ほど通った堤に出た。
しかし、そこにはもう娘の姿はなかった。
ソウは気が抜け、急に疲れが出てきた。
 夕飯後もタケノコを煮た良い香りが家の中に漂い、横になっているソウはその香りの中で、閉じた瞼に娘の姿を追ってうとうとと眠りに付いた。


田の稲が青々と波打つ暑い夏がやってきた。
地主のサダイがソウの家にやってきた。
「のう コキラ、この前頼まれていたソウの件だが。
棟梁に話したら、連れて来いということだ。
ソウは利発な子だから、きっと気に入られると思う。
この夏の終わりにでも、ワシが棟梁のところへ連れて行ってやる。」
家の隅で柴を積んでいるソウの耳に地主の話が入ってきた。
地主が帰って、待っていたように父コキラに訊ねた。
「おとう、地主さんは何を言いに来たんだ?」
「ソウよ、お前はもう10歳になった。
家で働くには田畑が少なすぎる。ワシとジンだけで十分だ。
そこで地主さんにお前の奉公先を探してもらっていたんだ。
町の大工の棟梁に頼んでくれたようだ。」
ソウは急に悲しくなった。
これまで父や母そして兄と別れて暮らすことなど考えてもいなかった。
しかし、隣のヤスは去年の秋に、町の着物の店に奉公に出ている。
最近、急に食べる量が増えてきたソウを、この家では養いきれないのは薄々気付いていた。

憧れ(5)

2010-04-05 21:17:27 | 憧れ
 気の早いコオロギが鳴き始め、夏の終わりを告げている。
ソウは地主のサダイに連れられて、町にやってきた。
道端に野菜を売る者や茶碗を売る者、着物を売る者などが雑多にムシロの上に品物を並べて店を開いている。
道路を人々が大勢行き交い、着ている物の色や柄が様々で、ソウは目を丸くしている。
 サダイはその賑やかな通りから外れ、狭い裏通りへと入った。
そこは表通りとは打って変わってみすぼらしい小さな家が立ち並んでいる。
そのはずれの周囲の家より、いくらか大きな構えの一軒の家の前で立ち止まって、「ここだ。」とソウを促した。
玄関らしき戸を開けると、土間が奥へと続いている。
「ごめんよ。」
サダイの声に奥から女が出てきた。
歳の頃30歳代の半ばかと思われる。
小さな目に丸い鼻をした女は、サダイと顔見知りなのか笑顔で土間の奥へと案内した。
すぐに裏口から外に出てしまった。
そこには男たちが三人、木に向かって作業をしていて、墨壺を持った男に女は声をかけた。
「おまえさん、サダイさんが小僧さんを連れて来たよ。」
振り向いた男は、眉が太く大きな目をギョロリとさせてソウを見た。
そしてサダイに向かって、
「ありがとよ、奥で茶でも飲んで行きな。」
と言うとまた作業に取りかかった。
家の中は板張りになっていて、そこで二人は女の入れてくれるお茶を飲んだ。
「仕事をしっかり覚えて、みんなに可愛がってもらうんだぞ。」
そう言い残して、サダイは去って行った。
女の傍に幼い女の子が二人駆け寄ってきて抱きついた。
「今日はゆっくりして、明日からしっかり働いておくれよ。」
そう言う女の顔を見ながら、この人が棟梁の女房の多紀であることを悟った。

憧れ(6)

2010-04-05 21:16:50 | 憧れ
ソウは台所横の板の間で寝ていた。
体を揺り動かされ、「ソウ、早く起きて水汲みに行くんだよ。」
大声に目を覚まし眠い目を開けると、薄暗い中に白い多紀の顔が真上に見えた。
飛び起きて、裏口の横に置かれている桶を持って外に出ると、道がぼんやり見える程度の明るさだ。
昨日多紀に教えてもらった湧水のある川辺まで目を凝らしながら行った。
桶に水を入れて、ふらつきながら歩くが重くてなかなか進めない。
途中で何度も桶を下ろして休みながら家に着き、台所の瓶に水を移し替えた。
こんな事を三度繰り返したが、三度目にはもうすっかり夜が明けて明るい日差しになっていた。
朝早くから力仕事をしたので無性に腹が減る。
「遅いねえ。最初だから仕方がないけど、もう少し早く運べるようにおなりよ。
朝ご飯を食べてから掃除だよ。」
と多紀が女の子を抱えながら言った。
既に他の者は食事を済ませているようで、お櫃を開けると雑穀の混じった茶色いご飯がほんの少し残っていた。
椀に冷えた汁があり、ソウのために残してくれていたのか青菜の漬物が小鉢に一口ほどあって、掻きこむように食事を済ませた。
 土間は大工の家らしく木くずが散らかり、掃除に手間取った。
その後は板敷きの床の拭き掃除。
拭き終えてホッとしていると、外の仕事を命じられる。
カンナくずや木くずを一ヶ所に集める作業だ。
ぐずぐずしていると邪魔だと叱られつつ、働き詰めの一日が終わった。
 この家では通いの20歳代の大工が一人と、住み込みの10歳代の大工が一人いた。
その日から住み込みの大工の横で寝ることになった。
ソウは疲れて倒れ込むように眠った。
父や母、兄と和やかに食事をしている夢を見た。

憧れ(7)

2010-04-05 21:16:27 | 憧れ
 一年が経ち、親方(棟梁)はソウを現場の掃除にも連れて行くようになった。
親方や先輩大工は器用に木を組み込んでいく。
家を建てる技術の巧妙さを初めて目の当たりにして、ソウは感心するばかりだった。
これまで、仕事の辛さに故郷へ帰りたいと常に父母を恋しがっていたが、俺もいつかはあんな仕事が出来るようになりたいと、この仕事に意欲が湧いてきた。
それ以後は道具を見て名前を覚えたり、先輩の仕事をそれとなく見て、使い方を学んだりしていた。

 ソウが16歳になり、もう一人の住み込み大工のトメが22歳になった。
今までソウは、水汲みや台所の手伝い、掃除、使い走りが仕事であったが、少しずつ木を切ったり、カンナがけをさせてもらえるようになっていた。
覚えが良く、器用なソウを親方は気に入っているようだ。
 夜、床つくとトメはいつも近所の娘の話をする。
どこどこの娘は顔が可愛いだの、その隣の娘のおでこが気に入らないとか、あの娘のむっちりとした白い足を見たとか。
ソウは聞く度に、少年の頃に故郷の川の堤で出会った美しい娘を思い出していた。
秋祭りの日がやってきた。
大きな仕事が一段落したので、「今日は一日遊んで来い。」と親方が珍しく皆に休みを与えた。
トメとソウは連れ立って神社へ向かった。
神社の前は出店が連なって、団子や野菜の煮物などの食べ物や、おもちゃ、着物、茶碗、鍋などが所狭しと並べてある。
二人はあちこちの店をひやかして歩いていた。
不意にソウの方に何かが当たって落ちた。
見てみると、おもちゃの太鼓の棒らしく、短い竹の先が丸く布で包まれている。
拾って立ち上がった目の前に、紫の着物に薄黄色の細い帯を締めた女が5歳くらいの男の子を連れて立っている。
「ごめんなさいね。この子が駄々をこねて投げたものだから。」と頭を下げている。
「いや。」と言って、拾った棒を渡そうと女の顔を見て、「あっ。」と思わず声を出して驚いた。
あの時の娘だ。頬は幾分丸みが取れたようだが、間違いなく少年の日に川の堤で見た娘だ。

憧れ(8)

2010-04-05 21:14:55 | 憧れ
 母子と別れてから、トメがソウに訊ねた。
「お前 あの親子を知っているのかい。」
「いいや。」
「そうだろうな。知っているはずがない。
だけど お前の顔、真っ赤になっているぞ。」
ソウの胸は張り裂けんばかりにドキドキと高鳴っている。
トメが続けた。
「あの人はこの町の「かえごろも」のおかみさんで、美人で評判の人なのさ。」
「かえごろも?」
そうだ、「かえごろも」はお屋敷の女達の古着を只同然で仕入れて、この辺りの娘や女房に売っていいるのさ。
景気がいいらしいぜ。」
「ふうん、そんな商売があるんだ。」
雨の日は仕事場が休みなので、ソウは掃除と道具の手入れを手早く済ませると、「かえごろも」を探して歩いた。
かなり遠くまで探したが見つからない。トメにに訊けば知っているだろうけど、胸に秘めているものを見透かされそうで訊けなかった。
次の雨の日に、その店は以外と近くで見つけることができた。
店といっても、この辺りの店は品物を売るのは、海道にムシロかゴザを敷いて、その上に並べて売っている。
それで家も店舗ではなく看板が掛けてあるだけで、玄関の戸は閉めたままだ。
「かえごろも」と書かれた看板が軒にぶら下がっている家を見つけた。
親方の家より立派な家で、玄関は引き戸でその横に格子の付いた窓がある。
 ソウは雨の日が待ち遠しかった。
雨が降る度に「かえごろも」の前を通った。
ある日、丁度家の前に差し掛かった時、戸が開いて中からあの女が子供を抱いて出てきた。
「あらっ、この前はどうも。」と傘をさしながらソウに挨拶をしてきた。
ソウと同じ方向に歩きながら、
「この子がね、この前の神社で遊びたいって言うものだから。こんな雨なのに。」
そう言って女は子供の顔に頬ずりした。
ソウも今日は暇だからと、神社まで付いて行った。
杉木立に囲まれた神社で、祭りの日に出店が出ていた参道を歩くと社殿に着く。
その大きな屋根の下で、子供の遊びの相手をした。
女はユキノと名乗り、子はミチヤといった。
その日から時々ソウはミチヤの遊び相手をするようになり、傍でユキノが嬉しそうに見守る姿があった。
ユキノの傍にいるだけでソウは幸せだった。

憧れ(9)

2010-04-05 21:13:51 | 憧れ
 ソウは20歳になり、もう一人前の大工だ。
眉が太く、鼻筋が通り凛々しい顔つきの青年になっていた。
近所の女達は彼が通る度に騒いだ。
美男子で真面目な性格のソウは、若い女達の憧れの的になっていた。
近頃トメは女をいろいろと替えているようで、話に出てくる女の名前がいつも違っていた。
夜遊びから帰ったトメがソウに言った。
「今日お針子の娘に会ったら、知り合いの娘がお前にぞっこんで、引き合わせてやってほしいと頼まれた。
俺も知っているが、年は15か16で綺麗な娘だ。会ってみるかい。」
ソウは大きく首を横に振って、「いや 会わない。」とだけ言った。
どんな娘にも興味が湧かなかった。
もうユキノの息子ミチヤは大きくなったので、遊び相手は出来なかったが、ユキノには偶然会って話をすることもあった。
というより、ユキノは信心深く、度々神社へお参りをしている。
それを知っているソウは、暇なときには神社へやって来てユキノを待つのが常になっていた。
 ある夜、トメがいつものように夜遊びに出た後、親方がソウを呼んだ。
「お前も飲みな。」と酒が大分入った赤い顔をしながら杯を差し出した。
「うちの娘チヨも15歳になった。
お前は腕も良いし真面目だ。
俺は前々から考えていたんだが、お前を後々この家の跡取りにしたいと思っている。
直ぐにチヨと夫婦になれとは言わないが、約束だけでもしてもらえないか。」
「いえいえ、私のような者ではチヨさんが可哀そうです。他に良い人を見つけてやってください。」
と断ったが、親方は諦めていないようだ。
チヨはトメに言わせると、この辺り一番の美人で気だてが良いという。
確かにソウもチヨは可愛いし、優しいとは思うが、嫁にしたいとは思わない。
ここの暮らしもそれ程良いとは云えないが、ソウが育ったあの貧しい暮らしから比べると、食べ物に事欠かないだけ幸せだ。そして何より仕事がある。
他人から見ればこれほど良い話はなかろう。
しかしソウの胸の中には、ユキノが大きな存在を占めていた。
人妻のユキノをどうこうしようとは思ってはいないが、ただ時々傍で話をし、そのしなやかで色香のある姿を見ているだけで、ソウの心は満足するのだった。

憧れ(10)

2010-04-05 21:12:26 | 憧れ
親方にチヨの話をされてから、チヨと目を合わすのが何となくはばかられ、顔を見ないで朝の挨拶をするソウであった。
トメとソウは朝、台所横で親方の女房の多紀かチヨの用意してくれたご飯をかき込むように食べて仕事に出て行く。
トメはそろそろこの家を出て、身を固めるように親方から言われているが、気の多いトメは嫁にする女が決まらないようだ。

 また春が巡ってきた。
その日は三年がかりで仕事をしてきたお屋敷の普請が終わり、大工や指物師など職人に朝から酒が振舞われた。
親方も仲間の棟梁たちと、談笑しながら酒を酌み交わしている。
トメやソウたちも少量の酒を飲んで、棟梁たちに挨拶をして先に帰ろうとすると、親方が上機嫌で自分が使っている大工たちに言った。
「今日はめでたい日だから、仕事は休んでいいぞ。」
 ソウは行く当てもなくあの神社にまたやってきた。
参道の脇に数本植えてある桜が、もう花びらを散らし始めている。
健康で働くことが出来、飯の食える幸せを今日は神様に感謝しようと参道を歩いていた。
すると、不意にうしろから声がした。
「あら、ソウさんじゃないの。」
振り向くと、ユキノが散った桜の花びらを踏みしめながら近づいてきた。
この時刻にユキノに会えるとは思ってもいなかったので、ソウも驚いた。
「今日はうちの人が夕刻から出かけるので、早めにお参りに来たんだけど、ソウさんに出会えるとは思わなかったわ。」
そう言いながら、ユキノは髪に付いた桜の花びらを払い落している。
「息子のミチヤがね。」
と長いまつげの奥の黒い目を、少女のようにくるくるさせてソウを見た。
「お兄ちゃんはどうしているって、あんたのこと気にしていたわ。」
「坊ちゃんは大きくなられただろうね。」
「あの子は今年11歳になったのよ。この社殿の屋根の下であんたに遊んでもらっていた頃、字や数を教えてくれていたわね。
お蔭で今はずい分と読み書きが上達して、計算も得意になったのよ。」
息子のことを話すユキノは嬉しさを満面に出した母親の顔をしていた。

憧れ(11)

2010-04-05 21:10:50 | 憧れ
「ねえ、ソウさん。あんたに出会ってからもう何年になるかしら。
今はもう実の弟のように思えるわ。そう、弟になってくれる?
うちの人にも、ミチヤの相手をしてくれていた あんたのことは よく話しているのよ。
一度うちに遊びに来ない?」
「ありがとうございます。そのうちに。」
と礼を言ったソウだが、何かモヤモヤしたものが心にあった。
 
その夜ソウは床についても寝付けない。
今日のユキノは「うちに人」と何度も夫のことを口にした。
それを思い出す度に頭が熱くなる。ユキノの夫にヤキモチを焼いているのか。
自分を弟のように思っていてくれるのは嬉しい。自分もそれに満足していたはずなのに、今日はなぜ焼けるのだろう。
これまでは、自分の生活を幸せそうに話しているユキノの顔を見ているだけで、ソウも楽しく幸福を共有している気持になっていた。
あの貧しかった少年の日に、眩しく見た遠い存在の女性と、今こんなにも近くで親しく話が出来るようになるとは、あの頃は夢にも思わなかったではないか。
ヤキモチを焼くなんて筋違いだと、自分をたしなめた。
 毎夜ユキノのことが頭から離れないソウは、眠い目を擦りながら朝食を済ませる。
道具を持って外へ出ようとすると、チヨが用もないのに裏口の所でうろうろしている。
気付かない振りをして外へ飛び出すが、自分が邪険にしているのが可哀そうだとも思う。
親方が夫婦の話を出すまでは、チヨを女として見たことがなかった。
この家に来たときは、まだ母親に抱きついて離れない幼子で、暇な時には遊びの相手もさせられた。
今朝、台所で汁を作っているチヨの後ろ姿を見たとき、体形がふっくらと丸みをおび、色っぽくなっているのに驚いた。

 春祭りが近付いた。
太鼓の稽古をしているのか、このところ夕刻にはドンドンと音が響いてくる。
仕事からの帰り道、親方がソウに話しかけた。
「うちのチヨは家の中でばかり働かせているので、たまには外で気晴らしをさせてやりたい。
祭りの日に一人で人混みに出すのも心配でな。
そこでだ、ソウ お前が一緒に行ってやってくれないか。」
親方の魂胆は見えているが、ソウは断れなかった。

憧れ(12)

2010-04-05 21:09:39 | 憧れ
 祭りの日、ソウは一張羅の着物を着て、チヨが出てくるのを家の前で待っていた。
藍色の地に、桃色と白の桜の花びらをあしらった大人びた着物で、髪も真新しい帯と同じの草色の紐で結んで、おめかしをしたチヨが家から出てきた。
出店の並ぶ神社の参道をソウとチヨは並んで歩いた。
「あら、チヨちゃんいいわね。ソウさんと一緒で。」
「チヨちゃん、お似合いよ。」
などと顔見知りの女達がチヨをからかった。
チヨは真っ赤な顔をして、恥ずかしそうにうつむいてソウの後ろに隠れる。
ソウも照れながら出店をひやかしていたが、チヨがソウの袖をしっかりと掴んでいるのに気づき、チヨに何か買ってやろうと思い付いた。
櫛の店の前で品定めをしていたが、どれが良いのか分からない。
「チヨちゃん、どの櫛がいいかなあ。」
「えっ、買ってくれるの?」
と言ってツゲの丸みのある櫛を手に取った。
他人のために物を買うのが初めてのソウは、何となく気分が良くなり、チヨと一緒に歩くことにも心が弾んだ。
チヨの方を振り向くと、この上なく幸せそうな顔をして、買ってやった櫛を胸の所で大事そうに持って、ソウに笑顔を返してきた。
そんなチヨを「かわいい」と思い、愛おしく感じるソウであった。

 その日以来、近所の女たちや大工仲間がソウを見るたびに、
「チヨさんとの祝言はいつにするんだい。」と訊いてくる。
これはマズイことになったと思ったが、親方の手前 はっきり否定も出来ず、うやむやな返事を繰り返していた。
トメも言う。
「早く決めてやらないと、チヨちゃんが可哀そうだよ。」
こんなに噂が広まってしまえば、断るとチヨが傷つくことは目に見えている。
最近、チヨは食事のときにソウの横に座り、世話をやくこともある。
悪い気はしない。
このまま夫婦になってもいいかな、と思ったりもする。
しかし夜の夢に出てくるのは、チヨではなくユキノの姿であった。
ユキノとは一生添い遂げることは出来ないけれど、憧れの人として自分の心の中に生き続けるであろうと思い、それでチヨと祝言を上げても良いのかと迷う。

憧れ(13)

2010-04-05 21:07:36 | 憧れ
 夏も近づいた頃、ソウはようやくチヨとの祝言を決意した。
親方も多紀も安心したのか、このところ嬉しそうな笑顔で人に接している。
家の中が祝い事の前の明るさに満ちていて、ソウもこれで良かったのだと思うようになっていた。
 今日の仕事の現場は、町から少し離れたところの空き地で、商家の住宅を建てている。
トメが張りかけの屋根板の上で何かを叫んでいるようだ。
「トメ~ 何言ってるんだ~。」
と親方が上に向かって叫ぶ。
「町なかが火事だあ。煙が上がっている。」
とトメが返してきた。
親方もソウも他の大工も屋根の上に上がった。
町の中心部から大量の煙が立ち昇っている。
ソウは「あっ。」と言うなり屋根から降り、一目散に走り出した。
「どうしたんだ、ソウ。」
後ろで皆が問う声にも答えず、町の方へと走る。
「おかみさん。ユキノさん。」
と呪文のように口の中で繰り返しいる。
「かえごろも」の近くまで来ると、2~3軒の家から火が出ている。
一番手前の家はもう焼け落ちて、次の家は今勢いよく炎を出している。
その次の家にも火が移っているようだ。
真ん中の家は確かに「かえごろも」だ。
その近くでユキノが周りの者に引き止められながら、「ミチヤ~ ミチヤ~」と泣き叫んで、燃えさかる家の中へ入ろうとしている。
「どうしたんです。」
ソウが訊ねてもユキノの目にソウは映っていないようだ。
周囲の者が、
「さっきミチヤ坊ちゃんが、大事な物があるので取って来ると 家の中に入ってまだ戻ってこられない。」という。
ユキノが必死に息子に向かって呼ぶ悲愴な姿は見ていられない。
自分が何とかしなければと、ソウは手拭を頭に被り、「ぼっちゃん。」と言いながら家の中へ入ろうとする。
やっとソウに気が付いたユキノは「ソウさん行っちゃだめ~。」と叫んだが、ソウはそのまま火の海に飛び込んだ。
皆が「ああっ」と驚き手を緩めたすきに、ユキノが周りの者の手を振り解いてソウの後を追った。
暫くして、棟がドドォーと音を立てて落ち、四方に火の粉が舞い、ソウ、ユキノ、ミチヤ 三人の魂が天に昇って行くかのように火柱が立った。

                          完

ひかり(1)

2010-03-25 16:42:39 | ひかり
 片田舎の春はまだ寒い。
早朝から晴美は気持ちよく眠っている子供たちを起こした。
長女の美香と長男の和樹を連れて夫の健太のいるロスアンゼルスへ一週間だけ遊びに行くために関空へと向かった。
バッグには魚の干物や海苔、醤油、味噌、かき餅など日本で食べているものを健太のために入れた。
同居している晴美の母は隣町に住む妹の千夏が留守中預かってくれるので、昨日千夏の家に車に乗せられて連れて行かれた。
 夫の健太は二年前に勤めている会社のロスアンゼルス支社へ転勤になり、本来なら晴美も子供たちも付いていくはずであったが、晴美の母が脳梗塞を患い二人姉妹の姉の晴美が面倒を見ることになって、健太は単身赴任をせざるを得なかった。
子供の夏休みと春休みには一週間程度遊びを兼ねて会いに行くことにしている。

 飛行機の中では小学1年の美香と幼稚園児の和樹が父親に会うことより外国旅行に行く方が嬉しそうで、持ち込んだ小さなゲーム機ではしゃいでいた。
それでも空港に着くと子供たちは、迎えに来てターンテーブルで荷物を探している健太を見つけ、走り寄って抱きついた。
健太も子供たちをかわるがわる抱き、頬ずりをして嬉しそうだ。
正月も仕事が溜まっていると帰ってこなかったので父子が会うのは昨年の8月の夏休み以来7カ月振りだ。
「大きくなったなあ。美香もおねえちゃんらしい顔になったね。
和樹もしっかりママのお手伝いをしているか。」
目を細めて子供たちに話しかける健太の顔を見て晴美は驚いた。
青白く痩せ細っているのだ。

 彼のアパートメントホテルは広い通りに面していて、ダイニング、リビング、ベッドルーム全てが驚くほど広い。
大きな窓から明るい光が差し込むリビングにはソファーが対面して置かれ、その横の机にパソコンがある。
ここで健太は会社から帰ったら仕事をしているのだ。
この家族がここで生活をするには充分な広さである。
今、日本で住んでいる建て売りの一戸建て住宅は狭い部屋が数個あるだけで、この広々とした明るい部屋に子供たちは大喜びである。
翌日から健太は仕事に没頭し始めた。
朝は子供たちが目覚める前に家を出て会社に向かう。
夕方帰宅すると、リビングルームの隅に置かれている机のパソコンに向かって夜遅くまで仕事をする毎日である。
晴美は朝食と夕食はここのキッチンで作っているが、健太がこのキッチンを使った形跡がない。
昨年の夏に来た時、晴美が買い揃えた調味料が少しも減っていない。
ということは毎日健太は外食かファーストフードを食べているのだろう。
昼間、晴美は子供たちを近くのリトル東京やユニバーサルスタジオへ連れて行ったり、サンタモニカの市場やビーチを歩いたりして過ごした。
あっという間に一週間は過ぎてしまった。
健太が子供たちと接したのは夕食時だけだった。
「ああ、この子たちがいるから俺は頑張れるんだ。」
娘や息子の顔を見ながら言う健太が自分自身を元気づけているように晴美には見えた。
「楽しかったか?
ごめんな。パパが一緒に付き合ってやれなくて。
今どうしてもやってしまわなくてはならない仕事があるんだ。」
「いいよ。ママと一緒に行って遊んだから楽しかったよ。
またパパのところに遊びに来るからね。」
子供は屈託のない返事を返す。
しかし夫と離れ離れの生活がまた始まる寂しさで晴美は日本へ帰るのが辛かった。
出来ればずっとここにいたいと思う。
子供たちも本心は父親と一緒にいたいのではないだろうか。
幼心に親に気を使わせているのではと胸が痛くなる。

ひかり(2)

2010-03-25 12:46:46 | ひかり
 関空から乗った電車から見る大阪の風景は大小の家が混然と入り混じって とても美しいとは云えない。
しかしアメリカから帰って来ると、あちらのすっきりと大きな建物が建ち並ぶ風景に違和感を抱くのか、小さな家がひしめき合うように建っているこの風景にいつも日本に帰ってきた安堵感を味わうのだ。
重いキャリーケースを引きずって子供たちと家にたどり着いた。
門扉を開けると狭い庭に、木いっぱいに咲く桜の花が目に入ってきた。
長女の美香が生まれたとき、嬉しくて健太と一緒に小さな苗木を買ってきて、この庭に植えたものだ。
毎年桜の花の咲く頃に、この木の生長を見ながら娘の成長を祝ったものだ。
この前 ロスアンゼルスに発つときには固いつぼみだったのに、もうこんなに美しく咲いている。
健太に見せてあげたい。今夜メールで知らせようと晴美の心は浮き立った。
ロスで買って航空便で送った土産が翌日届いた。
早速近所や親戚に子供たちと配り歩いた。
親しくしている近所の家へ土産を持って行くと、美香と和樹はユニバーサルスタジオなどで遊んだことを子供らしく楽しそうに そこの主婦に話した。
「いいわね。お宅はいつでも行こうと思えばアメリカへ行けるんだもの。」
と羨ましがられ、近くに夫のいない寂しさと不安を理解してくれていないと晴美は少し不満に思う。
夫の実家へ行けば、
「健太も一人でかわいそうね。元気にしていましたか。」
と姑が訊ねる。
その言葉に健太の青白く痩せこけた顔が脳裏に浮かび、「ええ。」とだけ曖昧な答えしか出来ない。
早々にいとまを告げ妹の千夏の家へ行った。
千夏の子供は晴美の子供より一歳ずつ年下でよい遊び相手となり、家の中を四人で飛びまわって遊んでいる。
「今日はここでお泊りする。」
美香が言うと和樹も、
「ぼくもお泊りしたい。」と言う。
「いいわよ。泊っていきなさい。」
千夏が許したので、
「それじゃあ 一晩だけね。」
と晴美は半身不随の母だけを連れて家に帰ることにした。
 
 門の前で車を停め、母親を支えて家の中に入り彼女をベッドに寝かせた。
そしてまた外に出てカーポートに車を入れて、門扉を閉め振り返った。
暮れて間もない空に紗をかけたようにうっすらと小さな星が数個またたいている。
外気はひんやりと冷たい。
今日は忙しかったなあ、と晴美は両手を上げて大きく「はあー」と深呼吸をした。
すると突然、家の右上の空にピンポン玉大の黄色い光が目に映った。
その光はだんだん大きく赤みを帯びてゆっくり近づいてくる。
月ほどの大きさになり、ぼんやりした光になって晴美の家の屋根の中央で止まった。
こんな光は見たことがなく晴美は目をそらすことが出来なくて、身震いをしながらじっと見据えていた。
するとその光の中に、何と健太の笑顔が見えるではないか。
目をしばたいてもう一度よく見た。
それは先日見た頬のこけた顔ではなく、若い頃のふっくらした健太の顔であった。
「健太さん。」思わず晴美は叫んだ。
その途端 光がすうっと消えた。
「健太が一人でかわいそう。」と言った姑の言葉が気になっていたのか、それともロスで見た痩せた健太の姿が心配になっていたのか。
そんな理由で幻想を見てしまったと晴美は思った。
「私疲れているんだわ。」
幻想を振り払うように頭を振りながら家に入り、母親と二人だけの晩飯の支度に取りかかった。
母親の好きな野菜の煮物を作ろうと大根を切っているそのとき 電話のベルがなった。
受話器の向こうから男性の声が聞こえてくる。
「健太さんの同僚の山口と申します。
実は昨夜オフィスで健太さんが急に倒れられて、近くの病院に運ばれました。
暫くして心臓が停止した状態になり、蘇生処置をしていろいろ手を尽くしてもらいましたが、残念ながら助かりませんでした。
まことに急なことでお気の毒で・・奥様も驚かれたことと・・・・・・・」
ここまで聞いて晴美の頭は思考することも相手の声を聞くことも出来なくなってしまった。
ただぼんやりと赤い光が目の前にゆらゆら動いている・・・