くるみの世界

金でやっていく世の中や、あいさつが正しいとされていることは間違っているということを主張したいです。

脱金社会 金でやっていく世の中は不正だ4

2023年05月07日 | 脱金社会

 

17.隠されている信仰心

 

自分が正しいと信じていることを「宗教」という言葉で言い表すならば、
多くの人は「例外あれど、大勢が信じていることや大勢がやっていることは正しいことである」と信じてるだろうから、
大勢が正しい宗教、大勢宗教、多数派宗教の信者であり、教祖とも言える。

自分が信じていることが正しいということを「宗教」という言葉を使って別の言い方で言えば自分宗教、自分教、自分が正しい宗教という感じだ。
みんな自分という国の王様なのだ。
多くの人は、宗教の押し売りはしたらダメだけど、宗教と言われていない決まり(ルール)の場合は押し付けてもいい場合と
押し付けてはいけない場合があると思っているだろう。

値段ついてるものに金払わなかったり、税金、年金払わなかったり、学校行かなかったり、給料や印税という形で金を貰っていないことなどを間違っていると思っていたり、逃げていると言う人がいるのも、
自分の信仰心から外れることをしている人が気に入らなくて、自分が正しいと信じているからだろう。
大勢と同じことをしている人は例外あれど正しくて、常識人、普通の人、などという言葉で言い表して良く言ったりする。
大勢と同じことをやっている別の理由は「長いものには巻かれろ」で立場の強い者や勢力の強いものには逆らわずに従ったり、
合わせておいた方が無難だということだろう。

本当はやりたくなかったり、正しいと信じてないけど、大勢と同じことをしたり、周りの人と同じことをした方が、嫌われたり、嫌がらせされたり、悪態つかれたり、不満を言われたり、逮捕されたり、
税金Gメンから差し押さえをされたりする可能性や危険性が低いから大勢と同じことをしている人もいるだろう。
今後の人との関係に支障をきたさず、嫌われて攻撃を受けないための処世術、うまく生きていくための生存戦略でもあるのだ。

例外あれど人間は自分の思い道りにしたいと思っているだろうから、自分の思い道りにならなかったら、不満を持ち、腹立てたり、怒ったりして、不快になり嫌な気持ちになる。
自分が正しいと信じていたり、自分可愛さ、わが身可愛さがあるから、
自分の思い道りにならなかった原因や理由を他人のせいにしたり、自分以外の何かのせいにする場合がある。

あいさつされたいのにあいさつされなかったことに不満を持つ人が、
例外あれど、不満を持って不快になったことを、自分を問題視しすることはなく、あいさつしなかった相手のせいにして、不満を言ったり、悪態ついたり、攻撃したりするのも、不快になるのを人のせいにしているからだ。

仕事をすることを、社会貢献、人のため、自分を表現するための手段、人に愛を与えるための手段などという人がいるが、カッコ付けた言い方をして綺麗事を言っていて、金でやっていく世の中を正当化したいのだろうが、
本当に全ての人の生活の面倒とかをみたり、色んなことをみんなで助け合っているのだったら金など要らない。
金でやっていく世の中自体がおかしくて、変で間違っていて、不正なのだ。

戦争、戦が人のためだったなどと言っている人がいても、実際は敵軍や同民族のことも攻撃して、排除しているので、人のためにと言ってる言い方もおかしいのだ。
あいさつを「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル、コミ二ケーションのツール(道具)」など言って美化して、綺麗事を言って、カッコ付けた言い方をしたがる人がいるが、実際はあいさつのルール(決まり)は人によって違うし、みんながあいさつを正しいとは信じていないし、あいさつする動機、目的など人によって違うのだ。
みんなを仲間だと思っていたら金でやっていく世の中など要らないし、あいさつも、例外除いて、大切ではない人、どうでもいい人、関わる気もない人にやっている場合が多いだろうから、みんなを仲間だと思っていたり、大切な人なら、あいさつしなくなる人の方が多いだろう。

「赤信号みんなで渡れば怖くない」など言ったりするが、「正しくないこと(不正)も、大勢でやれば怖くないし、間違ってない」などと
多くの人が思っていそうだ。
ネットで調べたところによると、日本の法律では歩行者、自転車が赤信号を渡って信号無視するのは道路交通法違反で罰金又は科料(懲役)になるらしいが、実際は警察に見つかっても、ほとんどは罰金にも懲役にもならないだろう。
日本人のほとんどの人は法律の一部を信じていて、その法律に従わない一部の人に不満を持ち、例外あれど、刑法違反した人を逮捕させても、自分たちは同じ法律の中の道路交通法は原則道りに守っていなかったり、
ほとんどの法律を知りもしないし、知る気もなく、いい加減、適当に法律を利用しているのだ。
「苦しい時の神頼み」のような言い方をすれば、「都合のいい時の法律頼み」みたいな感じだ。
こういういい加減で適当で、変な差別してる人たちが普通の人や、まともな人などと良く言われているのだ。

昔、物事が正しいのかウソなのかを判断するためや、善悪を判断するのに、神明裁判(しんめいさいばん)、神判、盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)と言われているものをやっていたみたいだが、
今でも日本人も日本人以外も同じようなことをやっているとも言える。

 

 

以下の文章は、ウィキペディアの神明裁判から一部を引用しました。


 

「神明裁判(しんめいさいばん)とは、神意を得ることにより、物事の真偽、正邪を判断する裁判方法である。古代、中世(一部の地域では近世まで)において世界の各地で類似の行為が行われているが、その正確な性質は各々の神、宗教によって異なる。ヨーロッパでは神判[注釈 1](Trial by ordeal)、日本では盟神探湯(くがたち)が行われた。」


「神明裁判」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
ウィキペディアの神明裁判へのリンク
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E8%A3%81%E5%88%A4
2022年8月1日 (月) 08:17 UTC


ウィキペディアの神明裁判からの引用はここまで。

 

 


以下の文章は、ウィキペディアの探盟神湯から一部を引用してます。


「探盟神湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。 概要 対象となる者に、神に潔白などを誓わせた後、探湯瓮(くかへ)という釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせ、正しい者は火傷せず、罪のある者は大火傷を負うとされる。毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である、という様式もある。あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけいの一種である。」

「盟神探湯」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
ウィキペディアの盟神探湯へのリンクhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%9F%E7%A5%9E%E6%8E%A2%E6%B9%AF
2022年8月19日 (金) 10:03 UTC

ウィキぺディアの探盟神湯からの引用はここまで。

 

 

「自分が正しい」と思っていることを神という言葉で言い表せば、みんな自分のことを神だと思っているところがあるとも言える。
自分が正しいと思っているところがあることに根拠や裏付けなどなくても、自分が思ったことが正しいと思っているところがある。

裁判所で裁判官が判決しなくても、普段から自分が色々なことや人間について、勝手に色々決めつけて生きているのが人間だろう。
盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)で「毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である」というおかしな信仰と同じようなことは今でもやっているのだ。
例えば、犬に吠えられたり、噛まれた人は悪い人であるとか、子どもから嫌われた人や食べ物などは悪いものであるとか、
子どもが感じたことは正しいと信じている人とか、大勢がやっていることや大勢が感じていることが正しいと信じている人とか、
あいさつをされたら、あいさつ返しをすることが正しいとか、
誰かから嫌だと思う言動をされたのは、その言動をとられて嫌がった本人に原因があるなどと信じている人がいるようなことや、それ以外のことでも、
自分が感じたことが正しいという根拠や裏付けがなくても勝手に正しいと信じているのだ。
壺の中の毒蛇が、犬や子どもや大勢に代わったようなもので、盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)と同じようなことは今でもやっているのだ。

みんなが裁判官の判決を正しいとは信じてはいないし、みんなが同じ法律を信じてはいないのだ。
裁判でいえば、職業上の裁判官が神みたいになっていて、
被告人や容疑者などと呼ばれている人や、裁判官以外の人が裁判官の判決を正しいと思っていなくても、裁判官の判決に従えという強制をしている。
裁判官が変われば同じことでも判決は変わるのだから、いい加減なことをしているのだ。

盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)の「毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である」という変なおかしい信仰の毒蛇が、今では裁判官に代わっただけだ。
神明裁判(しんめいさいばん)の「物事の真偽、正邪を判断する」というのを人間の裁判官がやっていて、裁判官が神のようになっている。
正しいとか正しくないなどの信仰は人によって違うのだ。善も悪もないという人もいる。

値段のついてるものに金を払わないとか、税金、年金を払わない人を社会のクズとか、ダメ人間とか言ったりして悪く言うのは、
大勢と同じことをしていないからとか、法律の一部が正しいと信じていて、刑法や税制や年金制度が正しいと信じているのは、盟神探湯(くかたち、くかだち、くがたち)で「毒蛇を入れた壷に手を入れさせ、正しい者は無事である」という信仰の毒蛇が大勢や法律に代わっただけだ。

「社会が許さない」という人がいる。この言葉に隠している意味も「大勢が許さない」と言いたいのだろう。
大勢や法律の一部が正しいと信じているのも、そう感じている自分が正しいと言いたいのだろうから、実際は「私は大勢や法律の一部が正しいと信じている」という言い方よりは、「自分が感じたことが正しいと信じている」と言った方がいいだろう。
人間は自分が正しいと信じているのだ。自分が感じたことがすべて正しいとは思っていなくても、自分の感じたことは正しいところがあると思っているのだろう。

 

 

以下の文章はウィキペディアの神明裁判の一部を引用しました。


「神判とは 中世ヨーロッパ国家には捜査とか取り調べといった治安維持をつかさどる組織はほとんど存在せず[注釈 3]、告発された者の有罪無罪を判断する方法は限られていた。神判は、神の奇跡をたよりに真実を知る方法であり、当時の民衆から支持されていた裁判方法である[5]。」
「水審による神判を受ける人。司祭が口上を読み上げ、手足を縛った被告を水に沈める。沈んだままなら無罪、浮かべば有罪である[注釈 2]。」

「神明裁判」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
ウィキペディアの神明裁判へのリンクhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%98%8E%E8%A3%81%E5%88%A4
2022年8月1日 (月) 08:17 UTC

 


ウィキペディアの神明裁判の引用はここまで。

 

西洋の神判という裁判で水審というのがあったみたいだが、手足を縛って水に人を沈めて浮かんだら有罪で、沈んだままだったら無罪だという信仰があったみたいだが、今だったらほとんどの人は、こんな水審など信じないだろう。
神判というのが当時の民衆から支持されていたというが、今も日本でも日本以外でも、大勢が信じていることや、大勢がやっていることは
正しいことであると多くの人から支持されている。
金でやっていく世の中が正しいとか、あいさつ返しが正しいことだとか、刑法違反で逮捕することはやってもいいとか正しいとか、
子どもは学校に行くことをしなければいけない、学校に行くのが正しいことであるとか信じている人がたくさんいるのだ。
昔も神判が民衆から支持されていたというのは、大勢が正しいと信じていたり、納得していることはまかり通らせてもいいと信じている人がたくさんいたのだろうが、神というのが大勢や多数派になっているのだ。それを言葉ではっきり言わないだけだろう。
普通の人や一般人などという言葉で多数派の大勢のことを言い表しているが、普通の人や一般人などと言われている人が神のようにされて素晴らしいものとされているところがあるのだ。
昔も今も、色々と言葉の言い方を変えているだけで、根拠や裏付けがないことを正しいことや真実として勝手に信じていて、
同じことを信じていない人にも自分の信仰心を押し付けている。
あることが正しいか、正しくないかの判断は、大勢がやっていることや大勢が正しいと信じていることが正しいことだと信じているところが多くの人にあり、そう信じたければ、それが正しいと信じるのだ。

あいさつ返しを正しいと信じている多くの人は、数少なすぎる人に初めにあいさつしてきたら、あいさつした相手がみんな百発百中でオウム返しをしてきたから、あいさつ返しは正しいし、人間はみんながあいさつ返しをしなければいけないと無意識、意識的に思ったのだろう。
大勢と同じことを感じていることが嬉しかったり、安心だったり、一部のことにおいて仲間だと思われたいと思っているところがある人もいるだろう。

例外あれど、人は大勢の人から嫌われたくないだろうし、嫌われることで不満を言われたり、悪態つかれたり、身体暴力を振るわれたり、
影から嫌がらせをされて攻撃されるのも嫌だろうから、そんなことされないためには人が嫌がる言動を取らないようにしたり、人が嫌がる外見をしないようにしたり、体臭に気を使ったりして、本当はやりたくないことや、正しいと信じていないことを嫌々、仕方なくやってる人もたくさんいるだろう。
そのやりたくないことを渋々、嫌々やっていることを誰かは、気を使ってる、人に合わせた、やらされてる、付き合いだから、などと言ったり、
大勢の人がやっていることを、常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラルなどと言っている。

人は言葉の定義、意味付けが通じていない所があるのに、
多くの人は、全ての言葉の定義が自分と同じだとは思っていなくても、ほとんどの言葉の定義が自分と同じだと思っていそうだ。
常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラルなどの短い言葉を使い、はっきり具体的に言わなくても
その言葉に付けている自分独自の定義、意味付けを分かってくれて当たり前だと思っているところもあるだろう。

同じ発音だけど別の言葉で、言葉の定義も違う言葉を同音異義(どうおんいぎ)と言うが、同音異義以外の言葉でも、同じ発音で同じ言葉ではあるけど、その言葉に付けている定義、意味付けが違ったり、
同じ文章、歌詞などに対する意味付け、解釈は結構違う場合が多いと思うが、誰でも人によって思ってることや、言葉などの定義、意味付けが違うことにあまり気づいていないところもあるだろう。
具体例で言えば「常識」という言葉の定義は人によって違い、
「人として正しい決まり(ルール)だから、みんながこの決まり(ルール)を守らなければいけない」という定義の人や
「大勢がやっていることを常識と呼ぶ」という定義の人、
「正しいことではないけど、大勢がやっていることはやらなければいけない」などの定義、意味付けをしている人がいると思う。
常識には必要な常識と要らない常識があると言っている人もいた。

多くの人は「常識、社会のルール、人間のルール、人間の基本、当たり前、マナー、モラル」などの言葉に隠している意味は、
「自分が信じていることが正しいから、自分の思い道りの言動を取ってほしい」と思ってるのだろう。
そして、思い道りの言動を取らないと不満を持つのだ。
人を自分の思い道りにしたがっていたり、根拠や裏付けはないけど自分が感じたことが正しいと色んなことを信じていて、その信仰を全くか、ほとんど他の人に言っていないのは、信仰の闇、心理の闇というような感じだ。誰が何を信じているのか分からなくて謎だから闇なのだ。

人間は人によって言葉の定義の信仰や、それ以外でも色んなことに対する信仰や、感じていること(思っていること)が違う場合があると頭では分かっている人はたくさんいても、実際としてはあまり分かっていない感じがする。

みんなが金でやっていく世の中を正しいとは信じていないことを知らない人がたくさんいるのだ。
みんなが法律を正しいとは信じていない。法律を信じている人も法律の一部を信じているだけで、ほとんどの法律など信じてないだろうし、
ほとんどの法律を知らないだろうし、知る気もないだろう。

金でやっていく世の中を正しいことだと信じて正当化する人達は、美化して綺麗事で社会貢献、人のため、助け合いなどと言うだろうけど、
本当にみんなで助け合っていたら金など要らないのだ。
でも、みんなで助け合いをしていないこの人類で生きていくには、金でやっていく世の中を正当化させないと、生活費、光熱費を払わないと生活していけないし、欲しいものを買うのにも金が必要だったり、色んなことに金が要る。
多くの人が給料を貰いに行くような仕事をしている動機、目的は金を貰うためにやりたくないことをしているのだろう。
給料や印税という形で金を貰っている人のことを、人の役に立っているなどと良く言って美化しても、金でやってく世の中で大勢の人が苦しんでいる。

大勢と同じことをしていなくて、値段ついているものに金払わない人や、年金、税金を払わない人を敵視して、悪く言ったり、
例外あれど、給料や印税という形で金を貰っていない人を敵視したりして悪く言うのは、少数派狩り、少数派叩きをしているのだ。
戦争と同じで、人のためにと言っていても、敵軍のことも同民族のことも攻撃しているのだ。

もし、大勢の人が値段ついているものに金を払わなかったり、税金、年金を
払っていなかったり、金でやってく世の中が間違っている、おかしいと信じる金非信者だったり、金払わないことで逮捕する法律がおかしいと思っているなら、金信者も大勢と同じ人間だと
思われたい人が多いだろうから、金を払わないことに不満があっても、不満は言わなくなるか、金信者も金非信者になると思う。
例外あれど、多くの人は正しいことは、大勢と同じことをすることだと信じてるだろうから、大勢がやっていることが正しいと信じて、大勢の多数派の方を支持するだろう。

覚醒剤をやってたり、所持してると覚醒剤取り締まり法で逮捕になるが、何のために逮捕してるのか?
健康にいいと言われてる食べ物も、一方で体に悪いとか言われてたり、
体にいいと言われている食べ物や飲料も食べ過ぎるとよくないとか言われていたりしても、法律で規制されていないので逮捕にはならない。
酒で体がおかしくなったりしても、酒を飲んだり、販売したり、買うことでは逮捕にはならない。
精神科で処方される薬を「自殺衝動がおきる」とか「向精神薬は覚醒剤と同じ」など言う人もいるが、覚醒剤取締法みたいなものがあるわけではないので、精神科の薬を飲んで心身不調になっても、薬を飲んでいる人や、薬を処方している人や、薬を作っている会社の人は逮捕にはならない。

覚醒剤で心身が不調になっている人がいたら「廃人」とか「ダメ人間」とか呼ばれて、劣っている人間や低俗のように言う人がいても、
精神科で処方される薬で心身不調になっていてもあまり悪くは言われない。
同じように心身不調になっていても、逮捕されるようなことなら悪いことや、おかしいと思い、逮捕されるようなことではなかったらおかしいとは思わない人もたくさんいるのだろう。
法律の一部が正しいと信じて、誰が作ったのかもあまり分からないような法律という決まり(ルール)の一部を信仰する大勢の人達。
覚醒剤で心身がおかしくなると思っている人もいるのだろうが、覚醒剤をやっていなくても心身がおかしところなど誰にでもあるだろう。
金でやっていく世の中自体がおかしいし、それを信じている人もおかしくて、間違った信仰を持っているのだ。

精神病とか、心の病などと言われているものを、みんなが信じているわけではない。
一部の人が、おかしいと思う言動を取った人を精神病や人格障害や心の病などと言っていて、心、精神に病気があるとして、色んな病名を付けて
それを信じる人は精神病があると信じているのだ。精神病も信仰なのだ。

誰かが日本人のことを、子どもの時からたくさん否定されていて自分に自信がないと言っている人がいたが、この人の言っていることは間違っている。
日本人は自分の信じていることや言動を否定されても、自分が正しいと信じているところがある。
子どもの時から親や先生や大人や他人の信じていることや生き方を、正しいとは信じていないところがあったり、バカにしたり、否定しているところがあったり、他人の言うことを聞かないところがあるのが日本人だろう。

日本人は自分が正しいと信じていることをやらない人に不満を持ったり、嫌がらせをしたり、刑法違反なら逮捕させたりするようなこと
をしているのに、日本人は自分に自信がないなどと言う人がいるのだ。
自分の感じていることが正しいのか、そうではないのか、どちらか分からないと思って自信がないところがあるのは日本人も日本人以外も同じだろう。
一方で根拠もない自信を持っているところが誰にでもあるだろうに、日本人が根拠もなく自信を持っているところがあることは言わずに、
自信がない方を持ち出して、日本人は自分に自信がなくて、自信がない理由は他人のせいで、他人が褒めたりとかして良く言わなかったからだ
と思っている人がいるのだ。

人間として、あれはやったらダメで、これはやっていいとか、いい人はやってもいいけど、悪人はやったらダメなどと勝手に根拠もなく自分が感じたことが正しいと信じているところが日本人にはあるのだ。
金でやっていく世の中や、あいさつ返しは正しい、人を逮捕することもやってもいいことだと勝手に信じている人が日本人にはたくさんいるのに、自分に自信がないなどと言っているのだ。
根拠はないけど自分が感じたことが正しいと勝手に感じていて、その自分が感じたことと同じことを感じている人がいると、
より自分が正しいと自信を持つ人が多いだろう。
自分が正しいと根拠もなく信じているのに、自分の感じたことを否定されたり、止められると不満を持ち、他の人にどう思うのかを聞いて、一人でも自分を肯定する人がいたら、自分が感じたことが正しいのだと安心して、自信を持つ日本人もいるだろう。

自分に自信がないから、子どもや大勢が信じていることや、やっていることの方が正しいと感じて信じているところがある人がいるが、
そういう人は自分に自信がないのではなくて、逆に自分の感じていることに自信があるから、子どもや大勢が感じていることの方が正しいと信じているのだ。例えば、日本人の多くはイスラム教やキリスト教や、宗教と言われているものを信じていない人が多いだろうが、そんな人たちも、金でやっていく世の中や、あいさつ返しは正しいし、やらなければいけなことだと信じている人がたくさんいるのは、自分が感じたこと、信じていることは根拠もなく正しいと信じているところがあるということなのだ。
自分に自信がないというのは一部のことに自信がないと思っているだけで、他のことには自信を持っているのだ。

日本人の中に大勢と同じことをしないことに不満を持つ人がいるのも、大勢と同じことをすることが正しいと信じているのに、
それをやらないから間違っていることをしていると思って不満を持ち嫌う場合と、自分が嫌々やっていることと同じことをやらないから、羨ましさや、妬みなどで不満を持っている場合や、
元々嫌っている人だから不満を持っている場合などがあるだろう。
なんにせよ、自分の思い道りになっていないことが気に入らないのだ。

自分のやりたことや、信じていることををまかり通らせてやっている理由を、他の人がやってもいいと言ったからやったとか、
他の人に指示されたからなどと言っている場合があるが、他の人がやっていいと言っても、やらない場合もあるのに、
やった本当の理由は隠している場合が多いのだろう。

法律やそれ以外の決まりがたくさんあることを日本人は知っていても、詳しく知ろうとはしなかったり、知っている決まりのほとんどを守っていなかったり、守っていても原則どうりには守っていなかったりなどして、
ほとんどの決まりを正しいとは信じていないのは分かり切っていることだ。
一部の決まりを正しいと信じて守り、その決まりを他の人にも守らせようとしているところが日本人にはあるのだ。
あからさまに他人に自分の信じていることを押し付ける場合と、内面で不満を持っているだけの場合と、影で本人以外の人に不満を言ったりなどしていて、不満の表し方が違うだけだ。
自分が感じたことが正しいと信じているところがあるのに、正しいと思うことをしない人に疑問や不満を持っているところが
日本人にはあるのだ。

 

 



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