目次
第1章から第8章へのリンク
第9章から第10章へのリンク
第11章から第16章へのリンク
第17章へのリンク
第18章から第19章へのリンク
第20章から第24章へのリンク
第25章から第29章へのリンク
第30章へのリンク
第31章へのリンク
第32章から第34章へのリンク
第35章から第39章へのリンク
40.みんな障害者で、みんな自閉症だとも言える
41.芸人の闇営業と金でやっていく世の中
第42章から第45章へのリンク
第46章へのリンク
第47章へのリンク
40.みんな障害者で、みんな自閉症だとも言える
人間の多くは体に不調がある人が多いだろうから、体のことでは、体の病気や障害がある人が多いと思っているだろうが、
内面、心のことでは一部の人が勝手に自分達がおかしいと思ったり、正常から外れていると思う人に、精神病、心の病、人格障害、発達障害などという言葉で言い表して、それを信じている人もいる。
自閉症や知的障害などと言われている人がいる。
ほとんどの人は自閉症や知的障害ではないと思っているだろうが、
言葉とは、同じ言葉を同じ意味で使っていない場合もあり、自己満足の言葉遊びでもあるが、誰でも自閉症や知的障害であるとも言えるのだ。
誰でもほとんどのことを知らないし、ほとんどのことを多くの人は知る気もないだろうし、間違っていることを正しいと信じていることを、なんで知性や知的なところに障害や病気があるという言い方をせずに、
ごく一部の人にだけ知的障害と言っているのだろうか?
一般に知的障害と言われている人とは別の意味で、他の人達も知的障害だとも言えるのだ。
ほとんどのことを知る気もなかったり、間違っていることを正しいと信じていることなどを、知的障害という言い方だけでなくても、内面障害者など、色んな言い方ができるし、誰でも障害者とも言えるのだ。
私は一般に精神病と言われているものは信じていないが、正常から外れているとか、間違っていることを思ったり、やったりしていることを障害や病気と呼ぶとすれば、誰でも障害がある障害者で、誰でも体以外でも病気だとも言えるのだ。だから誰でも障害者なのだ。
あいさつを正しいと信じている人が、誰でもあいさつしたらオウム返しをすると信じている人が多いだろうが、この人たちも知らない人のことを知っていると知ったかぶり、間違ったことを正しいと信じている知的なところに障害がある知的障害者とも言えるし、他人の気持ちや体のことを分かっていないところがある「人の気持ちが分からない障害者」とも言えるし、
自分が感じていることや信じていることが間違っているのに自分が正しいと信じ切り、相手に不満を言ったり、相手を変えようとしていることは、
「人のことを分かる気もない障害者」とも言える。「正しくもないのにあいさつ返しが正しいと信じている障害者」という感じだ。
一般に自閉症と言われている人とは、また別の意味で誰でも自閉症であるとも言える。
自分の体や内面のこと、過去にやってきたことなどを、全ての人に全部さらけ出して自己開示を出来る人などないだろうし、
過去に思ったことや、やったことの多くは忘れている場合が多いだろう。
理由が何であろうと自分の全てを、全ての人にさらけ出して公開して自己開示することをしないのは自閉していて、閉鎖的だとも言えるのだが、
自分達ほとんどの人は自閉していないし、閉鎖的ではないと思う人もいるだろうが、こういう人は自分達が好きな人や関わりたい人や、関わる気もない人などに、あいさつをしたり、喋りかけたり、お菓子などの物をあげたりなどをしたことだけを持ち出して、自分達は自閉をしていなくて、排他的、閉鎖的ではないと思っていて、自分に都合のいい捉え方をしているだけだ。
関わる気もない人やどうでもいい人、嫌いなだけの人などにあいさつを返させようとして、あいさつを初めにしたり、興味がない人に喋りかけたりすることを社交的だとか、コミニケーション、社会のルールなどと言い美化して綺麗事を言う人たちもいる。
あいさつがいい例で、相手の全てか、ほとんどのことを知る気もないのにあいさつを返させるためにあいさつをする人は、
相手のことを全くか、ほとんど分かってもいないのに、相手が絶対にあいさつを返すと決めつけてあいさつしているのも、
自閉していて、自分の心の中に引きこもり、知らない人のことを知っていると勝手に決めつけて、自分の思い道りになると思っていて、
間違ったことを信じているのだが、関わる気もない人や、形だけのあいさつだけで関わろうとしていて、全くか、ほとんど知らない人に
あいさつを返さすためにあいさつしたから、社交的やコミニケーション能力が高いと高評価して良く言い間違ったことを思っているのだ。
形だけ言葉で関わってあげようとあいさつして、相手がオウム返しをすると、相手と言葉で関わったと自己満足したりするのだろうが、
相手の心理に関心もなかったり、相手の内面や心理と関わる気もない、表面的でうわべだけのことをしているのだ。
大切ではない人や関わる気もない人が自分や自分の仲間などにあいさつをすることを多くの人は許しても、あいさつしてきた人の心理や、その人について何も興味がない場合も多々あるだろうに、こういうことを閉鎖的だとか、排他的だとは言わないのだ。
下らない言葉遊びをしていて、言葉を自分達に都合のいいように使っているだけだ。
相手と内面、心で関わる気もない精神的な引きこもりの人たちが、コミニケーション能力が高いなどと褒められて得をする。
あいさつを返さない人は、あいさつを初めにした人を無視していると不満を言っている人も、あいさつ返さない人の心理や体調、信仰心を無視しているから、無視している点では同じなのにバカで自閉していて、自分の狭い心の中に引きこもり、相手のことを知る気もないから気づかないのだ。
あいさつできる人などと褒められている人は、人の気持ちがほとんど分からない障害者だとも言えるのだ。
あいさつは特殊で異常だ。行きたい場所がどこにあるのか分からないから、道を尋ねていることを、あまりコミニケーションだとは言わないだろうが、
あいさつをコミニケーションだと言っている人がいるのは、あいさつしている人の心理に興味がないか、心理が分からないけど、あいさつを美化させたかったり、正しいことに仕立てたい人は、あいさつする人を良く言うのだ。
あいさつする人が、ごく一部の人にだけあいさつすることを求める理由は隠していても、なぜか自閉しているとか、自分を閉ざしているとは言わないのだ。
人を自分の思い道りにさせたいという欲求を持ち、それをコミニケーションなどと言い、綺麗事を言い美化して、自分の心理や信仰心などの内面を隠して、大人な態度とか、常識、コミニケーションなどと言いウソを付いている。
日本人や外国人の多くがあいさつをしたら返すことが正しいと信じているのは、人の気持ちがあまり分かる人ではなくて、なおかつ、例外除いて、あいさつを返させたい人と心理や内面で関わりたいと思っていないからだろう。
言葉と言葉の関り、あいさつとあいさつの関りという表面的な形だけのことをしていて、相手と心理などの深い部分で関わる気がない人が多いからだろう。
おいしいものを食べたい人の中には、おいしかったらそれでいいので、自分が食べる食べ物に農薬が使われているのかとか、
食べ物を作った人の心理に何も興味がないのと同じで、自分が関わった対象の一部分しか知ろうとしていなかったり、全く知る気もないのだ。
大勢と同じことをすることを常識、マナーなどと言ったり、誰かに働きかけることの多くをコミニケーション、社会のルール、交流などと言っているのは、例外除いて、自分が信じている信仰心や、ある言動をやった理由や目的、動機を、全ての人か、誰かに知られたくなかったり、自分の本心を自分でも気づいていなかったり、詳しい説明をする気もないからだろう。
本音や本当の信仰心を知られたら都合が悪かったりするのだろう。本当はやりたくないけどみんなと同じ人だと思われたいから
嫌々あいさつしたとかの本音を言わない人もいるだろう。
引きこもりと言われている人のことを自閉症と言っている人がいるが、
長期間誰とも話さなかったり、会わなかったり、家族としか会わないことを自閉しているなどと言っているのなら、
引きこもりと言われていない人と目くそ鼻くそで、引きこもりと言われていない人も、身の周りにいるほとんどの人に喋るかけることもないし、
働きかけたりしているわけがないし、喋りかけている人と関わる気もなかったり、全くか、ほとんど興味がない人に形だけ喋りかけるようなことをしていることを自閉していないと思っているのだ。両思いの人、仲のいい人に対しても、相手のほとんどに興味などなくて、
相手の一部としか関わっていないだろう。家の外に出ている人も、体は外に出ていても精神的、心理的に引きこもっているのだ。
ほとんどのことに興味もなく自閉していて、排他的で、精神的に引きこもっているような人が普通の人や一般人などと言われていて問題視されることはあまりない。
ほとんどの人に住所や電話番号や、自分のSNSやブログなどを教える気もなくても、自閉しているとはなぜ言わない?
個人情報や、それ以外の自分の色んなことを全員か、ほとんどの人に隠しまくっているのに自閉しているとか、排他的、閉鎖的とは言わずに、
一部の人を社交的やコミニケーション能力が高いなどと言ったり、人と喋ったりすることのほとんどをコミニケーションや社交、交流などと言いおかしなことを言っている。
誰かと喋ったり、誰かの体に触れることを社交、コミニケーションというのならば、誰でもコミニケーション、社交などやっているのに、
一部の人にだけ社交的、コミニケーション能力が高いなどと言っているのはおかしい。
関わる気がない人や、興味がない人、見下してバカにしているだけの人に形だけ働きかけて喋ったり、あいさつして、表面的に関わったんだと思うのは自己満足だ。
人が一部の人にだけ喋りかけたり、あいさつさせたがる理由、心理に全くか、ほとんど関心、興味がないのに分かっているフリしたがるから、
コミニケーション能力が高いとか、社交的などという言葉で言い表し、知ったかぶるのだろう。
相手が何であいさつしているのかの心理に全くか、ほとんど興味がないのに、社会のルールやコミニケーションなどと言っている人は「本当のことを知る気もない障害」とか「本当のことを知りたくない障害」とか
「本当のことを知りたくない病」とも言える。
あいさつ以外でも、本当のことを知りたくないと思っている人はいるだろう。
他人の心理にほとんど興味がない人の中には、人に大勢と同じことをやらせたがり、それを躾や教育、社会のルールなどと言って正当化してい人もいる。
金でやっていく世の中は不正だが、金信者も本当のことを知る気もない障害者とも言える。
本来、全てのものに値段、価格など付いてなどいないが、値段を付けることを正しいと信じていて、自分に都合のいいように思っていることは、
「自分に都合のいいように捉える障害」や「自分に都合のいいように思う病」などとも言える。
41.芸人の闇営業と金でやっていく世の中
以前、芸人が反社会勢力から金を貰っていて、芸人の方もウソをついていたというようなことがテレビで放送されていた。
弁護士の人がテレビに出てて「社会が許さない」という感じのことを言っていた。
私の推測では、世界中の多くの人はこの芸人の闇営業などと言われていることを知ってもそこまで悪いことだと思わなかったり、
なんら悪いとも、ひどいとも思わないだろうが一部の人はすごい間違っていることをしていると思い許さないのだろう。
仮に、50人や1万人や1000万人や一億人や30億人がこのことを、ひどいことをしていて許さないと思ったとしても、
それ以外の人は同じことは思っていなかったりする。
本人以外の誰か一人が不満を持っていても「社会が許さない」などと言えば、ものすごい大勢の人が不満を持っているかのようにも思えるが、実際は不満を持ってる人数の方が少ない場合もあるだろうけど。
はっきり具体的に言わずに、抽象的な言い方して、日本人は人の気持ちが分かるからはっきり言わなくても何が言いたいのか分かっている人が多いと思っている人もいそうだ。
日本人はあんまり人の気持ちを分かっていないだろうし、人のことはほとんど分かっていないだろうけど。
群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)という寓話(ぐうわ)がある。
郡盲象を評すの意味をみんなが同じ意味では使ってはおらず、
「凡人は大人物、大事業の一部しか理解できないというたとえ」などという定義、意味で使っていたり、「真理に対する見識がないことを言う」という定義、意味で使ってたりなど同じ意味で使っていない。
群盲象を評すの話を一番初めに作った人が何が言いたいのかを知ろうとするのではなくて、それぞれがこの話を自分の使いたいような意味で使っているところがある。
人間は言葉や色んなことを自分が思いたいように思っているところは誰にでもあることだろうが。
祭りなどで、同じような神輿を使ったり、儀式などやっているのも、
表向きは同じことをやっているが、それをやっている目的や動機、理由は人によって違う。
初めに何かをした人と同じことを今もやっていても、それをやっている動機、理由などが違うことを「形骸化している」など言うが、
同じことをやっていても、表向きの見た目は同じ外見や言動をやっていても、同じ目的、動機、理由ではやっていないのだ。
芸人の闇営業についてもみんなが同じことなど思っていない。
同じ対象について同じことを思っていないということだ。世の中のすべてのことに言えることだ。
同じ歌についてもみんなが同じことなど思っていない。
ある歌手の歌を10人の別の歌手が歌っている商品について、「それぞれの解釈」というようなことを言っていた人がいる。
その歌手の歌の歌詞や曲を歌詞や曲を作っている人が何を思って作ったのかではなくて、自分が思いたいように思っているんだろう。
例えば、ある歌の歌詞が全部ウソで書いているのに、誰かはその歌の歌詞を「実体験で経験があることを歌詞にしているんだ」と思って、自分が思いたいように思い、自分の捉えたいように捉えていてるのだ。
本当のことが分かっていないのだ。本当のことを真実、真理という言葉で言えば、
真理や真実が分かっていないのだ。
自分が正しいと思っているところがあるのだろう。根拠や裏付けのない自信を持っているところなど誰にでもあるだろうけど、
誰かは日本人を親から否定されてきて自信がないなどというのだ。
誰かが女親に対して「お母さんが赤ちゃんに思ってことが正しいんですよ」というような感じのことを言っていたが、女親が子どもに対して思ったことが間違っている場合もある。
誰かが「自分の感じたことが正しいんですよ。分かる人には分かるだろうけど」と言っていたが、同じことに対して人によって感じていることは違うがどちらも正しいと言いたいのだろうか?そうすると矛盾することになる。
同じことを経験したり、同じ人間や同じ生物を見ても同じことを思っていない場合がある。
同じことを感じたり、同じことを信じている人達のことばかり持ち出して、さも全ての人達が同じことを感じているかのように言いたい人がいるんだろう。それがあいさつにも表れている。
あいさつしてあげたらみんながあいさつしてくると思っている人がいるんだろう。
あいさつしたのにあいさつしてこなかったら不満を持つのだ。
自分は人間を知っていると思っていても、実際はあまり人のことは分かっていない。
だから、学校のあいさつ運動などという変なおかしいことをしていたり、会社で「新人には、まずあいさつ教えとけ」などと言っている人がいるのも、
人間のことをあまり知らなくて、自分の方が正しいとでも思っているのだろうけど。みんながあいさつしたいとは思っていないし、
みんながあいさつを正しいとは信じていないことが分かっていないし、理解できない人がたくさんいるんだろう。
芸人の闇営業と言われているものも、他人の姿は自分の姿で、
反社会勢力と言われている人達や、暴力団、やくざなどと言われている人たちの姿も、自分達の姿なのだ。
警察のことをある人は「国営のやくざ」や「警察とやくざは友達」とか「税金どろぼう」などと言っていたりすることを知らない人もいるだろう。
みんなが警察のことを良く思っているわけではない。
金でやっていく世の中など正しくもない不正な世の中、社会だが、そんな金でやっていく世の中に加担することで大勢の人が、
苦しんで、迷惑しているのだ。
芸人が詐欺をされた人から取った金を自分が貰っていたことを、詐欺にあった人に申し訳ないと思っているかのようなこと言っているが、
金でやっていく世の中に加担していることでも、大勢の人は苦しんでたり、迷惑しているのだ。
一般に詐欺などと言われていることにも、色々な言い方をして、オレオレ詐欺とか、振り込め詐欺グループとか、特殊詐欺とか言っているが、金でやっていく世の中自体が詐欺社会であり、法律では違法ではないし、刑法違反とかの警察に捕まるようなことではないから詐欺や泥棒だとは思わないのだろう。
自分や好きな人や多数派や善人だと思っている大勢の人達に問題は何もないとでも思っている人もいるのだろう。
年金や税金を国が取って、取った年金は老人に出し、税金は一部の人が使うものなどに使い、それを正当だと信じている金信者や法律信者がたくさんいるが、ただの合法の詐欺、合法の泥棒行為である。
年金や税金は人のために使われているから素晴らしいと思う人もいるのだろう。
本当にすべての人のことを良い意味で考えているのなら、金でやっていく世の中自体いらないのだ。
昔からみんなで助けいあいなどしていないから、一部の人に金を払ったり、
一部の人の面倒を見ることを人のためなどという言葉で言い表していて、おかしいことを思っているのだろう。
本来値段がついていない物やサービスに値段付けたり、何もないところに給料を貰える決まりを作ったり、罰金や損害賠償などで金を取れる決まりを作って正当化させている金でやっていく世の中自体が特殊詐欺社会だろう。
金でやっていく世の中自体が大きな詐欺、泥棒社会であることにほとんどの人は気づいていないのだ。
一人や少数の人が大勢が嫌がることをしたり、大勢が正しいと信じていない決まりを大勢の人に押し付けると独裁者や支配者とか、
独裁的、支配的、勝手、自己中心的、自分中心、人のこと考えていないなどと言って不満を言ったりするが、大勢が正しいと信じていることで大勢が苦しんでいたり、一部の人や生物が苦しんでいる場合は悪く言われにくく、独裁者や支配者などとは言われにくいのだ。
金でやっていく世の中を「独裁金社会」とか「集団独裁社会」とか「複数独裁社会」「多数派独裁社会」とか「大勢が金でやっていく社会が正しいと信じているから、金でやっていく社会が正しい多数派独裁社会」などと言うわけでもない。
例外あれど、大勢がやることは戦争、戦、乱などがいい例で悪く言われにくかったり、許されやすいところがあるのだ。
ことわざなどで、似たり寄ったりのことをいい表すのに猿の尻笑い、五十歩百歩、目糞鼻糞を笑う、医者の不養生(いしゃのふようじょう)などがある。
医者の不養生(いしゃのふようじょう)の意味が、人には健康に注意するように言っている医者が自分は健康に注意していない。
職場で先輩は仕事の決まりを守らないところがあるのに、新人や格下に見ている人には決まりを守らせようとしたりする。
独り言を言っている人にうるさい、迷惑と思ったり、不審者など言っていたりする人が、自分は他人と大声で喋っていたり、車を閉めるバンッという音や、ほとんどの音には不満は持たなかったり、うるさいとさえ思っていなかったり、自分の家族、親戚が何かを作る作る大きな音を止めるわけでもない。
刑法違反で人を逮捕する警察が自分たち警察も法律のすべてを守っているわけではなかったり、逮捕した人に暴力を振るった警察が暴行罪では捕まらなかったり、税金から給料を貰っている警察など公務員が合法で給料貰っているだけで、税金を取ることは合法の詐欺であり、泥棒行為だけど正当で正しいとされている。
「日本人は国家犯罪には甘い」と言っている人もいる。
日本人も日本人以外の人も多くの人は自分や多数派(大勢)や好きな人や、上に見ていて尊敬している人に甘い人が多いのだろう。
ただのえこひいき差別、変な差別だ。
同じことをやろうとしている人の複数の集団は例外あれど悪く言われにくく、その人たちがやろうとしていることを正しいと思っていたりして良く思っている場合は、その集団がやっていることを「常識、マナー、モラル、普通、普通の感覚、一般的感覚、良識、道徳、革命、進化、レボリューション」などという言葉で言い表して良く言うのだ。
間違っていること、正しくないことを罪、犯罪と定義づけするならば、みんな罪人、犯罪者で罪があるということになる。
金でやっていく世の中をまかり通らせて、さも正しいことのように仕立てて、正しくもない不正の金でやっていく世の中に加担して生きている犯罪者であるとも言える。
一部の人間だけに犯罪者や罪があるなどと言い、上から目線の優越心を持ち、いい気になっている人もいるのだろう。
自分達はほとんどの法律を知る気もなく、守っていない法律があっても、悪者や犯罪者とは言わないのだ。
金でやっていく世の中が罪や犯罪であるとも言わない。
一般に宗教と言われている集団の人たちが、その宗教の集団から出ていこうとしたり、教義を守らなかった人がいるからという理由で、身体暴力振るったり、部屋の中や牢屋に閉じ込めたらカルト宗教と言われやすいだろうが、宗教と言われていないものの場合はカルトとは言われにくいのだ。
払う金があるのに税金を払わない人に強制で物を差し押さえしたり、値段ついているものに金払わなかったり、誰かの家などから物を取って行ったり、
暴力を振るった人の中の一部の人などを逮捕しても、なぜかカルトとは言わないのだ。
カルト宗教と言われている集団をカルトという言葉で言い表しているのは、間違ったことをしているとか、おかしいことしているのが宗教という言葉で言われている集団の場合にカルトと言いたいのだろう。
宗教と言われているか、宗教と言われていないかの違いで、誰かがおかしいとか不正だと思うことをしている点では、誰でも誰かからおかしいと思われているだろう。
金でやっていく世の中に加担して生きている多くの人達もおかしいことをして、間違ったことしているわけだから、「カルト社会」とか「カルト金社会」とか「カルト金世の中」とか「カルト金世界」とか「カルト多数派社会」とか「カルト多数派金社会」「カルト集団独裁社会」「カルト多数派集団金社会」とか「カルト国家」「カルト法」「カルト人」などとも言えるのだ。
宗教や神と言うと嫌がったり、悪印象を持つ人が、同じようなことしていたとしても、国家や国家権力などと言葉が変わると印象が変わり、悪い印象を持たないのだ。
日本などカルト国家とも言える。国家権力と言う言葉があるが、誰かの定義では「国家が持つ組織的な強制力」と言っていたり、権力の誰かの定義が「他人を支配して服従させる力。支配者が被支配者に加える強制力」などと言っている。
権力者が正しいと信じている決まりを正しいと信じていない人や嫌がっている人に強制で押し付けたり、言うことを聞かない人を
強制で逮捕してもいいとしているのが国家や権力者と言われている人なのだ。国民の多くもそんな権力者に依存している人がたくさんいるのだ。
権力者とは言われていないが親や先生が子どもに暴力を振るったり、自分たちの信じていることを押し付けることを親や先生の言動がよほどひどいと思うことをしていなければ、正しくないことや誰かがおかしいと思うことをしていても躾や教育、愛の体罰など言って良くいい、正当化しているのも権力者と似ているところもあるし、親や先生以外でも、大勢のやっていることが正当化されやすく、人間の正しさのようになってるところがあるのも、
多数派という大勢も権力者の様になっている。個人の一人に対しても、気に入らない言動をとると「独裁者じゃねーんだからよ」などと不満を言ったり、独裁的、支配的と言われる。
自分の言いなりにさせたかったり、自分の思い道りにさせたいことを法律だからとか、常識やマナー、モラルなどと言ったりして、いい感じの言葉で言い表しているが、押し付けや、押し売り、支配や独裁などとは言われにくく、変な言葉遊びをしている。
北朝鮮などの一部の国を独裁国家などと言っているが、他国の姿は自分の国の姿でもあるということだ。日本も独裁国家だとも言える。
国家権力と言っているのが、相手が同意していなくても、法律の一部は守れとか、法律の一部を守らない人を強制で逮捕したり、罰金取ったり、牢屋に入れるようなことしたり、税金や年金を取り立てても支配や独裁とは言わないのだ。
一般に宗教と言われている集団の人が世の中を良くするためになどと言ったりして無理やり金を取って行ったりしたら、それこそ警察呼ばれて泥棒など言われて逮捕されるようなことを国家権力を持っている人がやれば許される差別社会、支配社会、独裁社会だ。
日本人や日本人以外の多くの人も国家権力持っている警察や政治家や官僚、大臣、市長、知事などや権力者ではないが王家の立場の人を上に見ている人が大勢がいるのだろう。
他の多くの人がやったこともない役職、立場の人で強制が許されていて、他の職業よりも上の立場についている人を特権階級を持っている人だと思い、
特別扱いして、人が嫌がるようなことを強制で無理やりやっていても許す人が多いのだろう。
これじゃあ、白人至上主義や、白人の黒人差別と何も変わらないだろう。
白人が昔、黒人を奴隷にしていたということには、多くの人は白人は間違っていることをしていて、ひどいことしているなどと思うのだろうが、
今も同じことを、白人以外も白人もやっているのだ。
奴隷という言葉で言っていないだけで国家権力を使うことも、それ以外の多くのことも、人や生物を奴隷にしているとも言えるけど。
金でやっていく世の中を社会貢献、人のために、社会参加などと言ったりして良く言っているが、実際は頭がおかしい社会なのだ。
大勢がやっていることは正しいと信じていたり、大勢がやっていることは許しやすかったりすることを、大勢至上主義や多数派至上主義などと言うわけでもなく、自分自身が大勢がやっていることが正しいと信じていることを、自分至上主義などという言葉で言い表すわけでもなく、
常識や当たり前、普通などと言うのだろう。
同じことを信じている人や、同じことをやろうとしている人の複数の集団を党という言葉で言うならば、金でやっていく世の中を正しいと信じて、金でやっていく世の中に加担しているこれらの人は「金党(かねとう)」や「金でやっていく世の中が正しいと信じている党」
「金信者党」などとも言える。党をグループや集団や団体や組合員など色んな言い方表すことも出来る。
絶対君主制という言葉があるが、日本は絶対君主制ではないと言うのだろうが、同じようなものだろう。
君主制の定義が「一人の支配者が統治する国家形態。君主が唯一の主権者である体制」など言われている。
日本では、民主主義や国民主権と言って国民に決める自由があるなどという風に見せかけているが、誤魔化しでありウソだ。
多数決で議員や知事などを決めることは多数派という大勢の方で決めているのであり、すべての国民が同じことを望んでいるわけではないし、
同じことを信じているわけではない。
権力者の一人が決めたことで大勢が嫌がっていたり、間違っていることだと思った場合は独裁者や独裁国家などと言われやすいが、
大勢が信じていることや、大勢がやっていることが優先されたり、まかり通っていた場合は独裁とは言われにくい。
誰かの信仰が否定されたり、嫌がっている人がいるのは同じことなのに言葉の言い方を変えるのだ。
例外除いて、一人や少数が得をして利益を得るのはダメだけど、大勢が得をして利益を得るのは良いという信仰を持ってる人がたくさんいるのだろう。
君主制のような言い方すれば、国民主権、民主主義や、それ以外のことでも多くのことは、多数派が望んでいること、大勢が決めたことや、大勢が信じていること、大勢が望んでいることに合わせて従えと思っている人が多いだろうから、「多数派君主制」「大勢君主制」「大勢に従え君主制」「多数派が君主である制」「多数派君主宗教」などと言えばいい。
これは、一般に宗教と言われているものに対しても、一神教を馬鹿にしてたり不満を言っている人が、自然宗教(アミニズム)の多神教は悪く言わずに受け付けたりするのも同じことだ。
例外除いて、一人や少数の人の思い道りになって大勢が不満を持っているのはダメだけど、一人や少数の人が嫌がっていたり、信じていないことを大勢が嫌がっていなかったり、信じていることの場合は大勢が望む方をまかり通らせて優先させてもいいという信仰心を持っている。
多くの人は下らない言葉遊びで都合のいいこと言って、誤魔化しているのだろう。
虎の威を借る狐をやっていて、例外除いて政治家、官僚、大臣、知事、市長や多数派などが決めたことに逆らわずに従えと言いたいのだろう。
「私が正しいのですよ。言うこと聞いて従え」と言うと、それを正しいと思わない人が大勢いたら、いかにも独裁者や独裁的、支配的と言われそうだが、大勢が納得していて、正しいと思っていることなどには、独裁者や独裁的、支配的などとは言われにくい。
あいさつがいい例だ。大勢があいさつ返してたり、近所や職場の人にあいさつする人も多いだろうが、同じことをしない人は変な目で見られたり、
格下に見られてダメ人間などと言う人もいる。もし大勢があいさつ返さなかったり、あいさつしていなかったらそんな悪評価や低評価はされないだろうに。
大勢や多数派が立派で偉い人で正しい人であるかのようになっている。
絶対王政というような言葉でに似せて言えば、民主主義や国民主権などと言っているのは、「絶対多数派王政」「絶対大勢王政」と言えばいい。
多数決で決める選挙だとか、それ以外のことでも大勢が求めて望んでいる方を優先させて、大勢の思い道りにさせろというようなことをやっているのだから、大勢や多数派が王様みたいになっている。
多数派がや大勢が王様で上の立場なんだから、例外除いて少数派や一人の個人は大勢や多数派に合わせて従えというような感じになっている。
反社会勢力などと言われている人達は言い方を変えたら、大勢と同じことしていない少数派(マイノリティー)であったり、
大勢が正しいと信じていることをしていない人達や、大勢に都合が悪いことをしている人達のことなどのことを言っている。
自分が信じていることの信仰心の押し売りや押し付けをしていることを、常識や当たり前、マナー、モラル、主義、普通などの言葉でいい表している。
大勢がやりたいことや、望んでいることをまかり通らすことは、わがままや勝手、自分中心などとは言われにくいが、大勢の望んでいることを優先させてまかり通らせろてほしいと思っていることを、自分中心とは言わず、人のためになど言ってカッコつけているのだろう。
人のためにと言っておいて、自分や大勢と同じことをしていない人を逮捕したり、見下したりしてバカにしていたり、人間扱いなどしなかったりする。
人のための人と言われている人と、自分のための人と言われている人も同じようなもので、自分の思い道りにしたいとか、自分が正しいと思っていたりしているのは同じことだ。言葉の言い方を真逆の言い方にして、さも違うことのようにして変な言葉遊びしている。
私は精神病は信じていないが、精神病と言っているのは一部の人をおかしいとか、劣っているとか、人間として正常ではないと思っていることを発達障害や人格障害などと言い、障害や病気などの言葉で言い表しているんだろうが、それならば、みんなおかしいところなどあるとも言えるが、ほとんどの人のことは精神病とか人格障害など言わずに変な差別をしている。
精神病や人格障害と言い、正常ではない人であるかのように言っているが、性格や個性などとは言わないのだ。
学校に行かない子どもを学校に行かせようとしている先生を、登校拒否を治す熱血教師などと言って良く言ったりするが、学校など行かなくてもいいが、学校に行くことが人として正しいと信じていたり、大勢と同じことをすることが正しいと信じている人などは学校に行かない生き方を間違っていておかしいなどと思っているから、登校拒否を治すなどと言うのだろう。
自分や大勢と違うことを感じていたり、自分や大勢と違う言動などをすることを正常であるとか、やってもいいことと認める場合は
「個性、オリジナリティー、自主性、考え方、人それぞれ、自分らしさ、性格、ありのまま、あるがまま、自分軸、勇気、進化、神、神が宿っている、
先見の明がある、マイウェイ、自分の生きる道、純粋、ピュア」などと言い、高評価して良く言い、同じように自分や大勢と違うことを感じていたり、自分や大勢と違う言動などをすることを間違っていると思ったり、気に入らない場合は「病気、障害、遅れてる、わがまま、勝手、独裁的、支配的、エゴ、自己中、自分中心、生意気、頭おかしい、失礼、礼儀がなってない、しつけがなってない、親に教えられてないから、変人、変わり者、罪人、犯罪者、心が狭い」などという言葉で言い表し、悪く言い、低評価、酷評、悪評価するのだ。
以前、何かで見聞したことに、昔ヨーロッパのどこかの国で、体調が悪くて病院に行った人に病院の先生が体調が悪い原因を「あなたが吸血鬼だからです」と言っていったみたいだが、今、体の病院や心の病院に行って、心身が不調な人にその原因をあなたが吸血鬼だからなどと言っていたら、ほとんど人は信じないだろうし、そんなこと言った病院の先生がおかしいと思うだろうが、それと同じようなことを今でもやっているのだ。
おかしいとか、間違っていると思っていることをしている人の全てに病気や障害とは言わないくせに、その中の一部の人にだけ病気や障害などと言うのだ。
誰かのことを「あの人おかしい」とか間違っているとか思っていても、おかしいと思っている人も他の人からおかしい人だと思われていたりするのだ。
身体障害者の様に体が不自由だったり、それ以外で体が不調な人を病気とか病人などと言うが、何で障害、病気などと言うのかは、人間として正常な体の状態ではないから障害、病気などと言っているのだろう。
精神病や心の病などと言い、障害、病気と言っているのも人として正常ではなくて間違っているとか、劣っていると思っているから病気や障害などと言うのだろう。
世の中や社会と言われているものが正しくもない不正でおかしい状態であることを障害、病気と無理やり言い表すなら、この金でやっていく世の中や、それ以外の色んなことも病気、障害とも言えて、「金でやっていく世の中障害」「金でやっていく障害社会」「「金でやっていく正しくない障害社会」「金でやっていく病気社会」「金でやっていく不正病気社会」
「金でやっていく差別病気社会」「病気社会」「病気世の中」「障害世の中」「世の中障害」などとも言える。
あいさつを初めにやってあげたら返せという決まり(ルール)を信じているあいさつ信者が多いと思うが、このあいさつも人として正しいことでもないのに正しいと信じてる人がたくさんいるのだ。
あいさつについて、正しくもないことを病気や障害と言うとすれば、「あいさつを正しいと信じ込んでいる障害」「あいさつ押し付け障害」
「あいさつ押し付け病」「あいさつを正しいと信じ込んでいる病」などとも言える。
私は一般に精神病と言われているものは信じていないが、正しくもないのに自分が信じていることが正しいと思っていることは
「決めつけ障害」「決めつけ病」「間違っていることを信じている病」「間違っていることを信じている障害」などとも言える。
あいさつやそれ以外で人と関わることで、自分が正しいと思っていることをしないとコミニケーション障害など言う人がいるが、何でこんなことを言う人がいるのかというと、自分が正しいと思っているのに、自分の思い道りの言動、態度を取らないことに勝手に不満を持っていて、おかしいと思い障害という言葉を使っているのだろう。
まあ、誰にでもあることだろうが、自分の自由は許すのに相手の自由は許さないところがあるのだ。
自分が望む態度を取らないことに不満を持って障害というなら、自分と違うことを信じていたり、感じている人がいることが分からなかったりすることを、「人の気持ちや信じていることが分からないところがある障害」などと言うわけでもなく、自分が正しいと信じているので、気に入らない人、
自分と同じことを信じていない人の方を問題視しているのだ。
金でやっていく世の中で一部の人は値段がついてるものに金を払わなくて逮捕されるが、多くの人はそういうことをしていなくて普通でまともな人などと良い評価されるが、こういう人たちは今まで泳がされてきている。
刑法違反をしていないから人として間違ったことなどしていないなどと信じている人もいるだろう。
今まで金でやりまくってきているが、この金でやっていく世の中もいつかは終わる。
ほとんどの人を普通のいい人と良く言いたい人は、自分たちが間違ったことを信じていたり、間違っていることをやっていることを、
「小さい時に親や先生や社会から刷り込まれた」「親に似た」「集合意識吸った」「誰にでも間違いはある」「人間完璧じゃない」などと思ったり、言ったりして多くの人はほとんどの人のことを悪くは言わなかったり、ほとんどのことを問題視しない人が多いと思う。
変な差別していて、例外あれど、逮捕されるようなことした人には本人だけが悪い、本人に問題があるとして、反省させるためとか、
懲らしめる、恥をかかせる、苦しめさせるために逮捕したりするくせに、
ほとんどの人が人が嫌がるようなことしても逮捕しなかったり、裁判起こされなかったり、罰金取られなかったりして差別していたり、間違ったことをやっていても本人のせいにはされずに他人のせいなどにされて本人は悪く言われないような差別をしている。
こうやって自分や多くの人を良く言いたがっていている人は、都合が悪いことは他人のせいにすることを自分に甘いとは言わなかったりする。
親や先生や社会に正しくもない間違っていることを刷り込まれてやらされてきたなどと言ってる人がいるが、子どもも大人も小さい時から、人の気持ちが分からないところがあって、間違っていることを間違っていると見抜くことが出来ていなくて鈍感で鈍いところがあるとは言わないのだ。
自分達に問題はなくて、小さいころに年上の親や先生や大人が間違ってこと教えたから大人に問題があると大人のせいにして、大人をスケープゴートにしている人もいる。
勝手なもので、大人が子供に自分が信じていることをやれとか言うと、それを正しいと信じていない人が否定してきて、
「あの人の言うこと信じなくてもいいよ」など言ったりする。
子どもが正しいと思うことをしていなかったり、間違っていると思うことをしていたら「大人が教えてあげないから」とか「大人が止めないから」などと言い、子どもを問題視はせずに大人が問題視されて悪く言われるのだ。
こういう不満を言う人は、人間や子どもが人の言うことを何でも聞いて、言うことを聞く人であると信じているのだろうか?
子どもも大人も人の言うことを聞く時と聞かない時があるのに、子どものことは大人のせいにする人もいる。
「教えてあげて」とか言ったりしているが、言ってもみんなが人の言ったこと信じるわけではないし、言うこと聞くわけではない。
イスラム教やキリスト教みたいに多くの人が知っている宗教をみんなが信じているわけではなく、日本人の多くはこれらの宗教を信じていないだろう。
人にやらされたと言って他人のせいにするが、同じことを正しいと信じていない人や、やらない人もいるのに、自分達普通の真面目な人達が騙されて
やらされたなどと被害者を気取り、人のせいにしている。
買わされたというのも同じことで、同じものを買わない人もいるが、買った自分達のことを問題視はしない人もいるのだ。
バカにして見下してる人の中の一部の人に、病気や障害など言うが、
人のせいにしていることを正当で正しいと思っていることを、病気という言葉で言うなら「人のせいにする病」とも言える。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます