大阪府茨木市三島丘に鎮座する磯良神社(いそらじんじゃ)の境内で「井保桜(いぼざくら)」がすでに咲いていました。
ヤマザクラ系の桜で、不規則で細長い花弁が八重となり、雌しべが1本突き出るようにつくのが特徴的です。ヤマザクラ系とはいえ、ヤマザクラとは趣を異にした花です。ただし花が咲き出してしばらくすると葉が展開するところはヤマザクラと同じでしょうか。
中には雄しべも弁化している花もあり、雌しべの突き出しは蕾の時点から始まっているようです。
磯良神社は、摂津国の式内社である新屋坐天照御魂神社の旧社地に鎮座しており、元々は新屋坐天照御魂神社の境内社でしたが、寛文9(1669)年に新屋坐天照御魂神社が少し北西にあたる場所に遷座しましたので、現在は独立して鎮座しています。なお新屋坐天照御魂神社は、磯良神社の少し北を通る国道171号線を渡った場所で現在も祀られています。
また磯良神社は、境内の「玉の井」に湧く御神水の「玉水(疣水)」が疣を取るのに霊験あらたかだと古くから信仰があるため、疣水神社とも呼ばれます。この御利益は、祭神と神功皇后に謂れがあるとされています。
御祭神の磯良大神は阿曇(安曇)氏の祖神で海神の阿曇磯良(あずみのいそら)ですが、その顔にはカキやアワビが疣のようについており、神功皇后が三韓征伐の際に諸神を招いたときも、海底に住む磯良は顔の醜さを恥じて現れなかったそうです。同じ海神の住吉神の求めに応じて姿を現し、住吉神とともに水先案内と航海の安全に功をなしたといわれています。
また神功皇后は、三韓征伐に際し戦勝祈願とともにこの「疣水」で顔を洗ったところ、みるみる疣や吹き出物で顔が覆われて醜くなりましたが、御神慮の賜物と捉え男装して戦果を納め、凱旋後に疣水で顔を洗うと元の顔に戻ったそうです。
なお、先ほどの三韓征伐に関しまして、話が少し脱線しますが、京都三大祭のひとつである祇園祭の「船鉾」は神功皇后の三韓征伐の出陣を表しており、主の御祭神の神功皇后に阿曇磯良と住吉明神、鹿島明神がお供しています。
御祭神の磯良大神が海神であるためか、磯良神社の御神紋は法螺貝のようですね。
この「井保桜」の「井保」は「疣水」の「疣」と同じ「いぼ」という音ですが、疣取りや病気平癒にご利益があるという「玉水(疣水)」とその水が湧く井戸「玉の井」を守る(保つ)ための桜として「井保桜」と名付けられたのではないかと思います。この「井保桜」は神功皇后お手植えの桜だという言い伝えもあり、古くは寛政8(1796)年に刊行された『攝津名所圖會』にも「井保桜」の記載があります。
(国立国会図書館デジタルコレクションより転載。赤枠はブログ管理人が追加)
赤く囲った箇所が「井保桜」の説明です。そこには……
井保櫻
疣水の北にあり。此花木希代の大樹にして、野邊に只一木ありて、遠境より見えわたるなり。根本より壱間斗上より、株二十餘に別れて四方繁茂し、小枝数千あり。一木の周り五十間許なり。花は山桜の少し小輪、伊勢桜ともいひつべきものか。花の盛は立春より七十日目許なり。其年の寒温による。浪花及び近隣より群来りて艶花を賞す。
とあり、その様子を描いた絵も掲載されています。
(国立国会図書館デジタルコレクションより転載)
昭和2(1927)年には国の天然記念物に指定されましたが、昭和19(1944)年に原木は惜しくも枯損してしまいました。現存の「井保桜」は後継樹です。枯損した原木があった頃に建てられたと思われる石碑が、現在の「井保桜」が植えられている場所ではなく、本殿を挟んだ向かい側に当たる場所に建てられています。
現在の「井保桜」の前にも「磯良神社ノいぼざくら」と「八重一重礒桜」と書かれた石碑が建てられています。
現在の井保桜は後継樹と書きましたが、やはり変異的な植物というのは育ちにくいのか、樹幹の一部には少し弱っているように見える箇所があります。
70年以上前に後継樹を植えた際にも保存用の井保桜の挿し木を試みられたそうですが、どれも根付かなかったりうまく育たなかったりしたようで、残ったのは現存の井保桜のみだそうです。現存の後継樹の枯損に備えての保存樹の対策をされたほうがよいのではと思います。
なんとも不思議なかたちの花を咲かせる「井保桜」を、いつまでも後世に伝えていけるようにしたいものです。
なお磯良神社の境内には「井保桜」だけでなくソメイヨシノも植えられており、こちらの桜もきれいに咲いていました。磯良神社の少し西側を流れる安威川の河川敷の桜も見事ですよ。
また、今回は見頃が過ぎつつありましたが、磯良神社の隣にある資生堂ホネケーキ工業株式会社の周囲に植えられた椿もきれいですよ。
今回は少し変わったかたちの花を咲かせる「井保桜」と磯良神社のご紹介でした。