いつか書こうと思っていたので、私が不登校になった時の事を書いていこうと思います。
学校に行く事が困難になり始めたのは、中学1年生の秋頃でした。
夏休み中も、部活の中での振る舞い方が分からず、気を揉む事がよくあったので、ぐったりしている日が多かったような気がします。
遥か遠い過去なので、曖昧な記憶ですけれども……。
ちなみに、部活は吹奏楽部でした。バリトンサックスを吹いていました。
体育会系文化部であろう吹奏楽部ですが、私の進学した市立中学校では決して厳しくはなく、むしろ先輩達が毎日和気藹々と過ごしていた覚えがあります。
さて、中学1年の秋頃に、何が起きたかと言えば……。
朝、布団から出る事が出来ず、頭もどこかぼうっとし、動く事が出来なくなりました。
たったそれだけの事でした。でも、それだけの事で、私は学校へ行けなくなりました。
まず、部活の朝練に参加出来なくなります。朝練に間に合う時間に準備が出来ず、やむなく授業(か、朝のホームルーム? 中学校の時間割を忘れてしまいました。)の始まる時間に合わせて登校していました。
次第に、授業開始の時間に間に合うように家を出る事も辛くなっていきました。
布団から出る事が出来ず、頭もずしりと重く思考も上手く回りません。起き上がるのも辛い状態で、制服に着替えるどころではありませんでした。
今にして振り返ってみれば、完全にうつの症状が出ていました。
そんな中で、よく毎日「学校に行かなくては……」と思い、頑張って動こうとしていたものです。
私のうつ病にきっかけがあったのかは分かりませんが、進学して環境が大きく変わった事と、使えるエネルギーをなるべく勉学に向け頑張り過ぎてしまった事が、トリガーだったのかも知れないと思っています。
遅刻する位なら休む、の精神が根付いていた我が家(と言うより、私と母?)でしたので、どんどん休む日が増えて行きます。
一番近くで私の様子を見ていた母の焦燥は相当な物で、冬には、掛け布団を勢い良く捲られながら「何で行かないの!」と叫ばれ、声にならない声を出して呻きながら、「私も知りたい……寒い……」とうまく働かない頭でぼんやりと思っていた日もありました。
(朝練だったか、放課後だったか忘れてしまいましたが)久しぶりに参加した部活では、サックスパートの先輩達に深刻そうな顔で「何か、身体が弱いとかあるの?」と聞かれ、五体満足で大きな病気に罹ったこともなかった私は、答えに窮し、それでより場の空気を重くしてしまいました。
「病弱でもない、病気でもない、学校に行けなくなる程の嫌な事なんてない。でも、学校に行けていない。」
その事実が、私を混乱と罪悪感の渦に呑み込み、より登校について考える事が憂鬱になりました。
考える? 考えなくても良い。ただ起きて、朝食をとり、支度をし、制服に着替えて、家を出て行けば、それで良いのです。
その、単純な事が、私にとっては物凄く困難な事と化していました。
(実際には、病気であった訳ですけれど。)
段々と、学校に行けなかった日の午前中は、起きている事が稀になっていきました。
眠りたくて寝ていたと言うよりは、大きな重い眠気に抗えなくて、昼過ぎまで寝てしまう、といった感じでした。
(過眠の症状だったのではないか、と思います。)
母は疲弊していました。周囲からも何か言われて、苦労をしていたのかも知れません。
父の事は、あまり覚えていません。父はアルコール依存症で、その症状がひどかった時期が、ちょうど私の不登校開始と重なっていました。
いつだったか、母方の実家に出向き、「親は会社行かん、子どもは学校行かんで、どうすんだ」みたいな事を、二人して祖母に言われたような記憶があります。
不登校になり始めの頃は、自分ではどうにもならない事(身体に出る症状の事です。当時は分からなかったですが……。)で学校に行けなくて、でも本当は単にズルをしたい自分がいるんじゃないかと自分を疑っては罪悪感を覚えました。
学校に行かなくなって一月程経った頃、その夜は夜更しをしていて(おそらく昼過ぎまで眠っていたせいで、寝た方が良い時間に寝付く事が出来ない日が多くなっていました。これには、今も時々悩まされます……。)、ふと「私がいなくても、学校も、この世界も、何事もなく進んで回って行くんだ」と気づきました。
今考えると、それはごく当たり前の事なのですが、如何せんそれを悟る状況やタイミングが悪かったなと思います。
「居るべきとされる場所に居られなかったら、ただ何事も無かったかのように、置いていかれるだけなんだ」と、ひどく落ち込みました。
不登校になるまで、学校生活で絶望する程の理不尽や暴力を経験しなかったからより堪えた、というのはあると思います。
(一時期、同級生からのいじめのターゲットになった事はありましたが、)ほぼ安全な学校生活を送れていたから、初めて学校や社会、そこに所属する人びとに裏切られたような気持ちになったのだろうと。
学校生活を送る中で、人や教師、大人達、学校組織、社会に絶望する程の経験をした方は沢山いらっしゃると思います。もしかすると、この記事を読んでくださる方の中にも。
私は恐らく、恵まれた学校生活を送れて来ていたのだろうと思います。それでも(だからこそ?)、この時に感じた絶望は、深い物でした。
私は「こころの教室」という、スクールカウンセラーのいる教室にだけ通うようになりました。
確か、ニ年生の1学期からだったと思います。
ニ年生に進級する時、初日だけ“皆と同じように”登校し、教室にも居ましたが、緊張やストレスで、それ以後は教室に行く事が出来ませんでした。
始業式の後、教室で友人と談笑したり、教師に冗談を言ったりする事は出来たのです。でも、まるで仮面を被って、何かを演じるような感覚がありました。
私は過剰に“受け入れられるべき生徒”になろうとしていたのです。
「今までちょっと来られてなかったけれど、心配ないよ。落ち込んでもいないし、皆に配慮とか求めないよ。馴染んで行こうとする姿勢も、ちゃんとあるよ……!」という思いを、行動で示そうとしました。誰かに、それを求められているわけでもないにもかかわらず。
(自分ではどうにも出来ない病気という)問題を抱えている人間が、そんな“いい子ちゃん”を続けて行ける筈がありません。
初日に、自分に対してあまりにも高いハードルを設けてしまった私は、次の日にはもう教室に行けなくなったのでした。
昼間にさえも起きるのが辛い身でしたので、「こころの教室」に通うのも、中々大変でした。
とりあえず制服に着替えた重い身体を、無理やりワンボックスの自家用車に押し込められ、気づいたら中学校の駐車場で、母親に「起きて、起きられる?」と声を掛けられている。そんなシチュエーションを、何度か経験しました。
カウンセラーの先生は、そんな登校の仕方をしてくる不登校児を、いつも笑顔で迎えてくれました。
こころの教室では、特別な事をした記憶はありません。
母子でカウンセリングを受けたり、私の話を聞いてもらったり、何てことないゲームをしたり、マッサージをして貰う事もありました。
ぼんやりとした記憶ばかり残っていますが、いつも日当たりの良い教室で、穏やかな時間を過ごせていたので、悪い環境ではありませんでした。
こころの教室に来る生徒は他にはあまりおらず、ほぼ独占出来ていたのも良かったです。
時折、小学校から付き合いのあったクラスメイト達と、一緒に給食を食べる事もありました。
善意で来てくれているのは分かりましたが、どうしても「先生に頼まれたからじゃないか」「私自身に関心がある訳じゃないんじゃないか、お情けで来てくれているだけじゃないか」という不安や、緊張が拭えませんでしたが、何とか出来る限り感じの良さが出せるように頑張りました。逆に、放っておいて欲しいという思いから、敢えてぶすっとした表情で、無口に過ごしていた事もありましたけれども……。
あの頃、一緒に給食を食べに来てくれた子達が今何をしているのか、私は一切知りません。気になる相手もいるけれど、連絡の手段をすっかり失くしてしまいました。
ちなみに、今でも地元で繋がりがある友人は5人程度です。案外、多いですね。
私と同じで、親しい人以外の同級生の現在は知らない人達ばかりなので、かつての同級生の行く末は分からないままとなりそうです。
“普通に”登校する代わりに、こころの教室に毎日通うようになったかと言うと、そうではありませんでした。
相変わらず、朝は起きられず動けず、昼過ぎまで何も出来ない日はしばしばでした。
父も休職をしていましたので、時折二人でお出掛けしたり、何となしに同じ空間でテレビを見たりしました。(ドラマ『きみの手がささやいてる』の再放送を見た時、父が静かに泣いていた事を、今でも忘れられず覚えています。)
お互いに、「社会に対する後ろめたさ」みたいな物があったのか、穏やかな時間を過ごしつつも、その空気はどことなく重いように感じられました。
父がアルコール依存症だったのもあり、精神科には何度か足を運んだ事があります。
ある大きな病院では、私は完全に父のオマケ扱いでした。リストカットをしているとか、幻聴が聞こえる事があるとか、大げさな事を言って医師の関心を引こうとしましたが、安定剤を処方されるだけでした。
(実際には、腕にひっかき傷を付けた程度でしたし、幻聴というのもおそらくはただの屋外の騒音で、それを受け取る感覚が過敏になっていただけでした。)
その薬も、効いているのかいないのかよく分からず、机の中に仕舞う事になってしまいました。
父も治療の効果はあまり感じられなかったようで、その病院には自然と足が遠のいていきました。実際に、アルコール依存症に効果的な提案(断酒会や自助グループに繋ぐなど)はされていなかった覚えがあります。
(余談ですが、父のお蔭で素人の割にやたらと依存症治療に詳しい人間になってしまいました。結局、効果的とされる治療法には生涯かかることなく、私が大学を卒業した後、父は他界してしまったのですけれど。)
他にも、クリニックにカウンセリングを受けに行ったかも知れませんが、記憶に残っていません。
うつ状態が酷い時にはよくある事ですが、後々その時の事が上手く思い出せなかったり、記憶が丸まる残っていなかったりするのです。
ただ、カウンセリングを受けて来た経験の中での実感ですが、時期が時期のためか、何かと「思春期特有の悩みや多感さに由来しているのでは」と解釈されてしまいがちのように感じました。
後になって分かった事ではありますが、そんな事よりも、私はうつ病による症状で不登校になったのです。
たった一人でも、大人や専門職の人が「この子は何かしらの精神疾患なのでは」と気づいてくれたら、早くに治療にかかれたかも知れません。
15年以上前の事ですし、うつ病も今ほどポピュラーな病気として認知されてはいなかったうえに、何より専門の精神科医ですら私のうつ病を見抜けなかった訳ですから、元もと無理な話だったのかも知れませんけれど……。
現代の子ども達の中で、精神疾患に罹ってしまった子がいたら、すぐに専門家に繋げられて、適切な治療が受けられますようにと願っています。
適切な治療に巡り会えなかったり、療養が出来なかったりするのは、とても辛いですから。
不登校児には、学校の行事参加をどうするかという問題が付き纏います。
当然の如く、体育祭や合唱コンクールは全部不参加でした。
しかし、何故か修学旅行は参加しました。行き先は長野県でした。
5時間位バスに揺られて辿り着いた山の中に、宿泊先のペンション村がありました。
クラスの男女別にそれぞれペンションをお借りして、たしか二泊したと思います。
小学校から馴染みのあるクラスメイト二人と同室でした。
初日の夜、広間で女子のクラスメイトの皆が楽しく過ごしている中、どうしたらいいか分からずじっと椅子に座っていました。テレビに繋いだカラオケの玩具で、モーニング娘。の曲が流れているのをぼーっと眺めながら、そう言えば何が流行っているのかとか全然知らないな……と思いました。テレビっ子ではなかったんです。
私がここにいても仕方ないな、と思い広間を立ち去りベッドルームに向かいました。その途中に洗面台があり、何となしに水を飲んだのですが、あまりにも美味しくて感動したのを覚えています(笑)山の水が美味しいという事は知っていましたが、それが蛇口から出て来て当たり前のように飲めるなんて! この土地の人が羨ましいと思いました。
初日の夜は、夜中に目を覚ましてしまい、MDウォークマンで音楽を聞きながらずっと泣いていました。同室の二人はすっかり寝ていましたが、布団を被ってひっそりとめそめそ泣きました。ホームシックが酷く、早く帰りたい気持ちで一杯でした。
翌日は、グループごとにアクティビティに参加する事になっていました。
朝食はペンションで用意してもらった物を食べましたが、サラダのレタスがみずみずしくきらきらと光っていて、スクランブルエッグもとても美味しくて、またしても感動しました。これだけでも来た甲斐があった、と昨晩泣いていた事も忘れたような感想を抱きました。美味しい物に弱いみたいです(笑)
アクティビティは、私は一番体力を使わない、ダム見学のグループになっていました。誰が決めたのかは思い出せませんが、担任教師に勧められて自分で決めたような気がします。
バスに乗って、ダムを見学して、またバスで帰るだけのツアーでした。元もと運動音痴で、体力も落ちていて集団行動がすっかり出来なくなっていた私に、カヌーや芝生スキー等は出来る筈がありませんので、このグループにしておいて良かったと思いました。
この日の夜の事は、覚えていません。でも、夜には泣かなかったと思います。
翌朝、地元へ帰る準備を整えてバスに乗り込みます。
出発するタイミングで、最後列に座っていたクラスメイトの一人が、ペンションの管理人さん達に良くしてもらったという思いからか、泣き出しました。
彼女は友人達に慰められながら、バスはペンション村を後にしましたが、ああ、一度あの子と深い話が出来たら良いな、とぼんやり思いました。
その機会は、未だに訪れてはいません。
どうやって帰路についたのか、全く思い出す事が出来ないのですが、修学旅行から無事に帰宅しました。
自分を閉ざしながら輪の内(外かも?)にきちんと留まるように努めた、あまりにも刺激的で気の休まる時間が持てない旅行となりました。
それでも、行けて良かった、と今も当時と変わらずに思えます。
時々学校に行き、稀に幼なじみの家に遊びに行ったり、たまたま知った民間療法の先生の所へ通ったりしながら、日々は過ぎて行きました。
中学校を卒業する時が近づいていました。
親に促されるがままに高校進学を決めましたが、内申点が酷い有様でしたので、当然推薦等は受けられる筈はなく、内申点を問われない私立高校を受験する事にしました。
当時、何故だか単位制の高校に惹かれていて、単位制を採用している一番近い(と言っても、電車を30分ほど乗り、最寄り駅からも徒歩20分ほど歩かなくてはならない)高校を選びました。
中学3年生当時の学力は壊滅的で、Islandをアイスランドと読んでしまう程には勉強が出来ませんでした。(ここ、笑ってください。)
受験勉強もした覚えがありません。それでも無事に合格して、進路が決まりました。
卒業式にも出る事はなく、校長室に呼ばれて、よく知らない、おそらくこの中学校の中では偉い先生から卒業証書を渡されました。
何か一言二言、伝えられたような気もしますが、やっぱり覚えていません。
卒業したところで、感慨のようなものは湧いて来ずでした。
ずっと好きだった男の子から、プラスチックの名札を貰う事が出来ず、そっちの方がショックだったかも知れません。笑
彼は小学校から仲の良い男子でした。不登校になってからは、外界との繋がりを絶やしてしまう事が不安で、好意を持っているから付き合って欲しいという願いを押し付けてしまいました。当然、拒否されてしまうのですけれども。
度重なるアプローチで、沢山の迷惑を掛けたと思いますけれど、今でも友人でいてくれている事は本当に感謝しています。
未だに彼の事は好きで、少しだけ特別な関係になれたらと願ってしまいますが、高望みはしないでおこうと自分を律しています。
以上、余談でした。
色々とあった不登校の中学生活でしたが、何とか3年間生き延びる事が出来ました。
当時、支えてくれた親や祖父母や妹、友人達、スクールカウンセラーの先生、民間療法の先生等の存在は、本当にありがたいものだったと思います。当時は実感していませんでしたけれども。
不登校の中学時代については、これでおしまいです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。