les cerisiers en fleurs

名刺代わりになったらいいな。

恋人と、友だちと。

2021-05-26 05:26:36 | 日記
恋人として、付き合った事がある人というものが、人生の中で一人も存在しておりません。
所謂、「恋人がいない歴=年齢」です。(ちなみに、今年で32歳になります。)

でも、性愛関係を持った事がある、大切な友人、というのはいます。彼との関係に対して、「何で付き合ってないの??」と友人に聞かれた事もありましたが、単純に、お互いが「付き合って」「恋人と名の付く関係を築く」事が嫌だったから、そうなりました。
家の行き来や、深いスキンシップをしていても、私達は「友だち」でした。そして、お互いにそれを良しとしているのです。

彼がそう考えるに至った理由は知らないままですけれど、私の場合は、「たった一人きりの“特別な”存在を作りたくない」という気持ちからでした。

私の中には、様々な相手への好意が、それぞれ様々な形で存在していて、そこに大小や優劣は付けられない状態です。
どうやら、世の人の中には「恋愛対象に向ける好き」の“席”が、心の中に存在していて、相手の存在がその“席”から外れてしまうと、相手との関わりを終わらせてしまう、という方もいらっしゃるそうです。そういう類の人達は、恋人の為の“席”、友人達の為の“席”に、関わりのある人たちを心の中に座らせていくのだと思います。

私は、人に好意を抱いたら、その人だけの“席”が、心の中に生まれるようなイメージです。その“席”に、ポジション名は付いていないのです。これは、誰々さんの席。それだけです。
敢えて言うなら、私の心の中にある席に座っている人は、皆「友だち」か「一方的に好ましく感じている人、気になる人」です。

好意を持っているその人達の中の誰かと恋愛をして、「たった一つの恋人の“席”」を設けてしまうこと。それに抵抗がありました。
私が築いてきた沢山の「好き」に、例外的な「特別」を設けてしまう気がして、何だか大切な友だちの存在を蔑ろにしているような気がして、いつからか、「恋人」は作りたくない、と思うようになりました。
「恋人」になったら、こういうデートがしたい、プレゼントがしたい、いずれは結婚を考えなければ……、というような夢?幻想?ストーリー?に付き合わされる事になるのも、私は嫌でした。
それは、おそらく「恋人」という“席”に座った相手にしたい事であって、私である必然性は特にないのではないかと思ってしまうから。(もちろん、そんな人ばかりではないであろう事は分かっています。大切な相手の事をよく見て、よく考えて、向き合って、素敵な関係を築いていっている恋人同士も、それは沢山いるだろう、と。)

とは言うものの、私はノンセクシャルやアセクシュアルという訳ではなく、れっきとした異性愛者でした。もしかすると、女性に惹かれる事もあるかも知れないけれど、大方は男性に惹かれ、深いスキンシップをしたい欲望がある人間でした。
友だちとしての好意とは別に、男性として惹かれると思う相手は何人かいて、幸いにもお互いにそうだったパターンがありました。
一人には、それなら恋人になりたいと言われ丁重にお断りし、もう一人は、私の考えに共感してくれ目出度く「友だち」を続ける事になった彼でした。

色々あって、彼とは深いスキンシップはもうしないという取り決めを交わし、今は「普通の?」仲の良い友だちとなりました。
友だちと、友だちのままで、性愛関係を結び、友だち同士の親しさを深めて行けたのは、私にとって凄く充実した時間でした。
それはもはや「付き合って」いたのではないの、と言いたくなる方もいらっしゃるでしょうけれども、私(達)にとっては、私達はずっと友だちで、友だちのまま少しだけ密な時間を過ごした事のある大切な存在なのです。

まだ私は、友だちのままで深いスキンシップが出来る誰かを探しています。
彼のように上手く行く事の方が稀なのだろうな、とは思いますが、いつか縁と意思が上手く重なり合う事態になればいいな、と思っています。

所謂LGBTではないけれど、少なくともマジョリティではない、こんな生き方をしている人間もいます、というお話でした。

2021年5月上旬

2021-05-08 03:10:00 | 病気について
画像は木々に囲まれた祖父です。緑な写真がこれ位しか見当たらなかったもので……(笑)
5月と言えば、青々と繁る草木の緑です。


4月末から、あまり体調が良くありません。簡潔に説明すれば、軽〜中度のうつ状態です。

午前中から昼過ぎにかけては、上手く思考が働かず、頭に靄がかかったようです。
体調が良くない時、更に疲れていると、ぼんやりして、四肢に鉛が入っているかのようにちょっとした動作も億劫で困難になる事があります。

私は、うつ状態になると過眠になります。日中や夕方によく寝てしまうのですが、所謂シンデレラタイムには眠れない事が屢々です。真夜中から明け方に眠り、昼に目が覚めます。酷い時は、夕方まで眠っている事も。
過眠の症状がそこまで酷くない時には、夜中の方が頭が冴えます。反対に、眠ってしまいやすい時間帯は頭がぼんやりしていて、頭そのものが重く感じるような心地がします。そのため、背筋を伸ばすのが億劫になり、座椅子に身体を預けたり、横たわってしまったりします。

うつ状態だと、理由も無いのに無性に悲しくなり、表情も暗くなります。何もそうなる原因が見当たらないのに、悲しく、気が重くなるのです。ただただ、その状態をやり過ごすしかありません。

こんな症状達が重なってしまう時、即ちうつが重い時ほど、次にやる事ややるべき事、明日の予定等について考えると気が重くなり、身体も重くなり、思考に靄がかかります。まるで、なるべく肉体や脳味噌を動かさないようにと、身体がその機能を制限しているかのようです。

これは症状と言うか、ほぼデフォルトの状態なのですが、本やニュースの記事、長めの文章の内容が頭に入って来づらいです。うつが重くなるに従って、読む力も判断力も落ちて行きます。何が描かれているのか、主張されているのか、書かれた事をどのように判断すべきなのか……等が頭の中で考えられなくなるのです。

判断力が鈍る事に関連して、話が下手になるというのがあります。元々、私は話す事が得意という訳ではないのですけれども、それに拍車がかかります。
相手の発した言葉を、上手く拾えない事があります。音声としては耳できちんと聞こえているのに、それがどういう言葉なのか判別出来ない事が稀にあります。
雑談をしていても、伝えたい事が頭の中で上手く構築する事が難しいです。伝えたい情報がバラバラに浮かんで来て、どこから拾って話せばよいのか分からなくなり、しどろもどろになったり、酷い時には言葉に詰まって数秒沈黙してしまったりします。


最近味わった症状は大体このような感じです。
今日も、昼には起きて少し外出したものの、夕方に帰宅してすぐに眠ってしまいました。そして夜中になってもなかなか眠気が来ず、こうして記事を書いてしまっています。

私の場合は、なるべく心身に負担をかけず、回復するまで休む=眠ることが大事なので、刺激の少ない状況を作って横たわる時間を多くするようにしてみようと思います。

病について

2021-05-07 04:15:47 | 病気について
私には、病気の辛さについて、上手ではなくとも、伝わりにくくとも、書き記しておきたいという望みがずっとありました。

自分の辛さについて書き残しておくことで、まず私自身が救われるのではないかと思うからです。
遠くない将来に症状が出て辛くなった時、そういえば似た状態になった事があったな、と辛さを一歩引いて見れるようになるかも知れない。
日常生活や特定の用事に支障が出た時は、自分の心の持ちようの所為じゃないか、コントロールする事が出来ない自分が悪いのではないか、と思いがちです。なので、そうではなくて病気の症状だよ、だから休息を取るしかないよと、過去の私がいつかの不調の私に伝えられたらいいな、と思うのです。


病について綴った本は沢山ありますし(ヴァージニア・ウルフの『病むことについて』はいつか読みたいです。スーザン・ソンタグ『隠喩としての病』は文学論/表現論でしたが面白かったです。他、病についてや病の辛さを綴った良い書があればご教示くださいましたら幸いです。)、今は漫画家さんやアマチュアの方が漫画やブログ等で闘病日記を沢山発表なさっています。
うつについては、お医者のみならず当事者が症状や生活を綴った書籍や作品も多くあるように思います。
そこで、敢えて私が自分の辛さを書き記す事に意義があるのか……はどうしても考えてしまいますが、やはりまずもって自分自身の為に病について書いておきたいのです。
症状が出て辛い、辛かったという事態を、ただそれだけにしておくのは何だか勿体無い、損した気分になりたくない、といった貧乏性な気質もあるのかもしれません。


目に留まる事があるかは分かりませんが、うつ病当事者の方には「あるある」「それだ」当事者のみならず非当事者の方にも「こんな症状や辛さがあるのか」と思っていただけたら嬉しいです。

うつ病(だけでなく、精神疾患全般)の罹患者が増えている、メンタルヘルスに気を配ろう、といった話はよくなされても、うつの症状について理解している人はそう多くはないのではないでしょうか。
あくまで一個人の体験や体感に過ぎませんが、辛さや困難についてほんの少しでも想像していただけたら幸いに存じます。


身内が心療内科にかかった際、医師にこんな喩え話をされたそうです。
「うつ病になり始めの人というのは、気づかぬ内に水の中に沈んで行っているような状態。だから、上手く身動きが取れないし、やれる事も限られる。
治療薬を飲むというのは、その状態で下駄を履いて貰う事。水の中に沈んでいた身体を持ち上げる事で、身動きを取りやすくする。」
だいたい、このような感じだったと思います。
気づかぬ内に水の中に沈んで行くようなもの、という喩えのあまりの巧さに感心してしまいました。
何度目かの重いうつを経験した時、私は正にそんな感じで進行していったからです。
自分では悪化している事になかなか気づけないし、気づいた時には身体を(水の中に沈んでいるかのように)思うように動かせなくなっているし、思考や判断力もひどく鈍っています。
こんな風に、うつの状態について上手に表現出来る医師にかかれた身内は、幸運だったのではないかと思います。(精神科・心療内科も、ピンからキリまで、かつ相性も大きな要素です。)


多くの患者を診てきて、的確な洞察力を持った医師のような表現は到底出来ませんが、自分を含めたいつかのどなたかの助けになれますように願いながら、自分自身の辛さと向き合い、観察する気持ちで、少しずつ文章を蓄積して行けたら、と考えています。
どうぞよろしくお願いいたします。


帆波