今日は書棚から一冊の本を持ち出し、職場に向かう。
白洲正子さんの「たしなみについて」
乗る電車の中10分足らずの時間の中で読んだ章が~智慧というもの~。
・・・・・・・
ある時私はアメリカの女の人達と一緒に食事に招かれました。一緒によばれたのは、
皆名流の婦人達。学問も教養もふつう以上にある筈の人達でした。
ちょうど第一回の選挙華やかなりし頃の事でしたが、その中の一人曰く。
「ほんとうに大変でしたのよ。・・・・今日は大事な会でしょう、・・・・私、日本の女が無知
だと思われるといけないと思って、三日がかりで選挙法やら憲法やら、ほんとに夢中に
なっておぼえて来たんですよ、・・・・今の女がそんな事も知らないと云われては恥ですか
らねぇ」
ああ、奥様!!
私はほとほと涙もこぼれんばかりです。これが学問とか教養と言われるものなら、
私はそんな物軽べつします。それよりも、これが現代の日本の女というものでしょうか。
一夜漬けの、浅はかな、愛すべきが故ににくむべき。・・・・
たしかに昔の女の人はこんなに浅薄なものではなかった筈です。私達の母も、私達の祖母も
憲法こそ暗記はしていなかったが、もっと立派な、もっとたのもしい人達でした。
彼等は私達ほどに勉強もしませんでした。男女が同権でもありませんでした。それに
も関わらず、押してもついても動かない、非常に強い物を持って居ました。純粋に家庭
の人としての生活から、私達のいい加減な学問や教養が教えるより以上の事を、物を、
彼等はたしかに得ていました。そして、一人の人間としてまったく男と同等の力と、
それから責任を感じていたに違いありません。
そうです、つまり無責任なのです。現代人は。誰に対してでもありません、まったく自分自身に対して
責任を果たしていないのです。そうでなくて、どうしてその場かぎりの、いわばメッキをつける様なこと
をするのでしょう。
~中省略~
無智と、その奥様はおっしゃいます。しかし、智慧とはそんなケチなものではありません。
智慧は、百科事典の中に決して発見できる物ではありません。仏様には光背というものがありますが、
智慧もその様に、身からあふれて外にほとばしる光とも言うべき後光のようなものがあって、
それ等はすべて頭脳明晰とか利巧とかいう事と、何の関係もないものです。----------
「たしなみについて 白洲正子」
河出書房新社 ~智慧というもの~より
~・~・~・~・~
本を読む
心を読む
未知を読む
・・・・
白洲正子さんの肉声が聞こえてくるような、歯切れのいい文章に
一字一句、逃さないように
惹きつけられた朝の時間でした。