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私も英語がしゃべれない だから留学

2012年11月10日 | 日記

留学したい夢をずっと胸に抱えて女子学生は社会人になりました。

しかし、入社した会社はなんと翻訳会社! 英語が苦手で大学の専攻も同じ文学部でも英文学ではなく、日本文学だった私が、なんともまあ四六時中英語を見ている会社に入社してしまったのです。

世の中不思議です! その辺がきっと線路の切り替えポイントだったのでしょうね。少しずつ道は違う方へ向いて行くわけです。

しばらくして移動させられた部署は国際会議部。 つまり国際会議の裏方をやります。 当然外人とのやり取りも出て来ます。 ここで英語がしゃべれない自分を再認識。 「だめだ、勉強しなくちゃ!」と。

またもや留学の夢がむくむくと。 でも社会人になったばかり・・・・。

3年経った頃、本当に英語力の必要性を切に感じ、語学学校に行こうと思いました。 しかし、1週間に1回では物にならないだろう、全てを英語の環境に自分を置かなければ・・・。

そこで会社を辞めて留学することに。 いよいよ夢の実現です。 思い立ったら早いです。 

なぜ、留学先をあんなにあこがれたアメリカではなくイギリスにしたのか。

答えは簡単。 クィーンズイングリッシュを学びたかったから。 そして日本人のいない所へ行きたかったから。(これは裏切られましたが)

私はブリティッシュカウンシルへ飛び込み、語学を勉強する為の学校の資料を片っ端から調べました。 そしてこの辺でと決めた学校に手紙を送りました。つまりは入学申込み書なのですが。

1カ月ぐらい経つと向うから手紙が返ってきました。(そう、この頃のやり取りは全て手紙だったのです)

入学許可がおりた!

さあ、大変! まずは会社へ辞職願いを。 そしてホームスティ先を決め、足(飛行機)の確保を。

そして何より一番大変だと思ったのは親の説得だと思っていました。 

「女の子は大学など行かず、短大でOK、そして良いお家へ早く嫁に行け」との信念を持っていた父です。その為に名門女子中学を受験させられ、落ちて親の期待を裏切りました。しかたなく公立中学へ行き(私にはハッピーでしたが)、やはり都立に受かりながらも「ごきげんよう~」と別れる女子高へ入った私です。

その学校は短大が付属でついていて親はこれで一安心と思ったに違いありません。 小学校から短大までずっと繋がっているその学校に高校から入った私には違和感の塊でした。 そして案の定、親の期待を裏切り、外部受験をして浪人しました。 ま、こんな娘ですからね、だいぶ諦めていたのでしょう。

すべて準備が整ったところで両親に「すいません、しばらくイギリスへ留学して来たいので許して下さい」と打ち明けました。

あっけにとられたのは両親でしたが、今思い出しても大反対された覚えもありません。 この子は云いだしたら聞かないし、全てが(飛行機まで)お膳立てされているのだから仕方ないと諦めたのでしょうね。

それから数カ月して私は成田を飛び立ちました。 未知の世界へ向けて。

その頃、女子の結婚適齢期は24歳~25歳。 それを過ぎると「25日のクリスマスケーキ」と言われていました。つまりは売れ残り。

私がやっと留学を決意した時は26歳になろうとしていました。 「今、外へ出て行けば結婚の時期は外すかもしれない。それでも行きたいかどうするか」自問自答の結果、私は行くことを決めたのです。

だから成田を飛び立つ時、大袈裟に言えば、結婚は諦めていました。(それまでに回りの友人はほとんど結婚していましたから)

それでもこれから始まる見知らぬ世界にワクワクしていたものでした。



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