龍華院の御住職に初めてお会いした日の別れ際、「空海の密教とはヨーガのことです」と教えていただきました。
私は、京都の東寺がとても好きで、何度も訪れたことがあります。
3年ほど前、東京で東寺展が開かれた時も行ってきました。
東寺の講堂は薄暗く、それが良くもありましたが、展示されている仏像のお姿は、よりはっきり鮮明に見学でき、良い機会となりました。
これらのことを思い出したのは、今読んでいる『観音経』の中に、持国天が描かれていたためです。
持国天は邪鬼を踏みつけにしています。
皆さんも同様かと思いますが、悪い鬼、心の醜いものを成敗している姿ととらえていました。
しかし、実はもっと深い意味がありました。
世の中には、殺人をしたり、人を傷つけても自分は全く悪くないと開き直ったり、嘘をついたり、人をだましたり、盗んだり、悪口を言ったり、傲慢、横暴で、人を不快な気持ちにさせる人などがいます。
こういう人に遭遇したり、ニュースで目にした時、どのように感じるでしょうか。
一般的には、そこに、いやな心が働くと思います。
第三者の話でも、悪い人だね、と裁く心が働くかもしれません。
お釈迦様の教えの中で、「理智をはたらかせる」ことがとても大切だと記されています。
理智を働かせれば、そういう人たちにも、そういう出来事にも感謝することができます。
そこで持国天の話にもどります。
持国天を始め、四天王はすべて邪鬼を踏みつけています。
この邪鬼が先程上げたような人たちだと思います。
でも、四天王が邪鬼をやっつけている姿ではなくて、邪鬼が自らの身を犠牲にして、天部の神を支えている姿です。
霊性の進化には、さまざまな段階があり、それぞれの霊性は、それぞれの霊性に応じて、自らを犠牲として、他を成り立たせ、全体として進化していきます。
邪鬼は邪鬼の立場として、天界の神々の存在を成り立たせる土台となり、その犠牲の中で、邪鬼自身も、自らを進化の道へと進めていきます。
私たちの生命の成り立ちも同じです。
私たちがものを食べて生命を、成り立たせているその影には、他の生命が犠牲になっているのです。
食事の時、感謝しなければならないのは、そうした意味からです。
私たちの精神の向上も同じです。
私たちの精神が向上する影には、他の誰かが犠牲となって、その足掛かりを作ってくれているのです。
自分の身をもって、わざわざ醜い姿をさらけ出し、その醜さがまちがいであることを、私たちに示してくれている訳です。
その人自身は、自分のやっていることの意味さえわかっていないでしょう。
その人たちに感謝しなさい、ということではないのです。
その姿を通して、それがまちがったことだと気付かせてくれる働きが、自分の中に起きていることに気づくと、自然に感謝の心が湧き上がります。
すると、邪鬼の役目をしてくれている人に対しても、腹立たしさから憐れみを感じるようになります。
自分の内側の感謝の心が外側に向かうと、慈悲の心となります。
「観音菩薩はさまざまな人の姿となって、その人に応じた法を説く」と書かれていますが、どんな人のどんな行為を通しても、自分の霊性進化の役に立てることができる、ということです。
そして霊性が進化していくと、運命に支配されるものから、運命を支配するものへと進化していきます。
最近は、般若心経も読み始めました。
『般若心経 読む・聞く・書く 読誦CD付き』西東社刊 というものです。
法楽寺御住職の読経を聞くのも、自分で読むのもとても心地いいです。
この本には般若心経の説明もわかりやすく載っていて、読むのも楽しいです。
現在、「末法の世」と言われますが、だからこそ、皆が飛躍的に霊性進化を果たすことのできる時、とも言えると感じました。
東寺のホームページから、心に残った言葉を挙げておきます。
「明王も菩薩もすべての仏が、大日如来の化身。仰ぎ見る私たちもまた、生きながら仏となれると伝えている。」