最近、「チームで」や「組織で」といった言葉を耳にする。
「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」といった言葉もある。
ラグビーでは、「one for all / all for one」と表現されたりもする。
生活綴方(少しでもわかっていただけるようにいうとすれば、作文教育。生活を綴った日記をもとに学び合う、支え合う実践。)を大学・大学院で取り組んでいた僕としては、馴染みが深いことばでもある。
でも、最近、この「集団(会社・チーム・クラス・学校)のために違和感や危険」を感じている。
「○○中がよくなるように」「○○中のために」といった、ある種の体面のために「滅私奉公を求めれている」ように感じてしまうのである。「○○中」は、会社名でも、自分が属する集団の名前に置きかえてもいい。
「集団は、ひとりひとりの幸せを実現するために生まれるもの。存在するもの」であり、集団のあるべき姿が先にあって、それに個人を合わせていくものではないと僕は、考えている。
先の「○○中がよくなるように」「○○中のために」と集団を冠することで、「ひとりひとりの顔」が見えなくなっているような気がするのである。先の東北大震災でも、交通事故者数といった形でも、亡くなられた方が数字化されると、「数字の1」として積み上げられることになってしまう。本来ならば、その「1」は何ものにも代えがたい「1」であり、それぞれが具体的かつ個性的な「その人なりの歴史。背景。ストーリー」をもった「1」であるにもかかわらずにでもある。
僕が学んできた、学んでいる生活綴方でいえば、「個のリアリティ」(佐々木 昂)「個の論理」(国分一太郎)が「数字化」されることによって、抽象化というより捨象されてしまうのである。昨今の流行でいえば、個の「文脈」が、である。
ひとりひとりの顔が見える集団にしていく、ひとりひとりが「ハッピーに生きる」ための集団にしていく。そのために必要なことをいま一度じっくり考え、実践を積み上げるようにしていきたいとつれづれに思っている。
「ひとりはみんなのために みんなはひとりのために」といった言葉もある。
ラグビーでは、「one for all / all for one」と表現されたりもする。
生活綴方(少しでもわかっていただけるようにいうとすれば、作文教育。生活を綴った日記をもとに学び合う、支え合う実践。)を大学・大学院で取り組んでいた僕としては、馴染みが深いことばでもある。
でも、最近、この「集団(会社・チーム・クラス・学校)のために違和感や危険」を感じている。
「○○中がよくなるように」「○○中のために」といった、ある種の体面のために「滅私奉公を求めれている」ように感じてしまうのである。「○○中」は、会社名でも、自分が属する集団の名前に置きかえてもいい。
「集団は、ひとりひとりの幸せを実現するために生まれるもの。存在するもの」であり、集団のあるべき姿が先にあって、それに個人を合わせていくものではないと僕は、考えている。
先の「○○中がよくなるように」「○○中のために」と集団を冠することで、「ひとりひとりの顔」が見えなくなっているような気がするのである。先の東北大震災でも、交通事故者数といった形でも、亡くなられた方が数字化されると、「数字の1」として積み上げられることになってしまう。本来ならば、その「1」は何ものにも代えがたい「1」であり、それぞれが具体的かつ個性的な「その人なりの歴史。背景。ストーリー」をもった「1」であるにもかかわらずにでもある。
僕が学んできた、学んでいる生活綴方でいえば、「個のリアリティ」(佐々木 昂)「個の論理」(国分一太郎)が「数字化」されることによって、抽象化というより捨象されてしまうのである。昨今の流行でいえば、個の「文脈」が、である。
ひとりひとりの顔が見える集団にしていく、ひとりひとりが「ハッピーに生きる」ための集団にしていく。そのために必要なことをいま一度じっくり考え、実践を積み上げるようにしていきたいとつれづれに思っている。