(この記事が参考になると思われた方は人気blogランキングにアクセスしてください。)
最近、小学校の授業をいくつか見聞する機会に恵まれました。この3月に定年退職するまでの43年間、教員生活のほとんどを高校生相手にすごし、中学生を教えた経験もわずかしかしかない私にとっては、とても新鮮でした。
あるクラスでは、子どもたちに自分が選んだ本をクラスで紹介するスピーチをする準備をさせておられました。スピーチの構成を「はじめ」「なか」「おわり」に分けて、聞き手をひきつける工夫を考えてメモを作るのですが、当然のことながら、サッサとできてしまう子どももたくさんいたけれど、書いたり消したり難渋したあげく、何もできないまま授業を終える子どもも何人かいました。能力の差だと言ってしまえばそれまでですが、私は、先生からいわれて本を選ぶときの子どもたちの思いはさまざまだろうなと思いました。要領のいい優等生は、先生がやらせようとしていることを見通して、やりやすい本を選ぶでしょうし、いい格好をしたくて先生や友だちが評価してくれそうな本を選ぶ子もいるでしょう。悩みまくったあげく不本意な本を選ぶ子もいるでしょうし、なかには、あまり乗り気がしないで、いい加減な気持ちで選んでしまう子もいるはずです。そんなことを考えていたら、授業検討会で「子どもたちにテクニカルなことを教える前に、まず、なぜその本を選んだのか、どこが面白かったのかを問うことが大切ではないか」という発言があったので、心の中で喝采を送りました。子どもたちに本を選んだ理由を確認し、場合によっては、本を選びなおさせた上で、自分の思いを他者に伝える方法を考えさせると、もう少しスムーズに書けるのではないかと思いました。
別のクラスでは、昆虫について調べるために、自分が知りたいことを問いの形で表現し、その答えを予想させるという作業をさせておられました。子どもたちにいきなり問いを作れといっても難しいので、あらかじめポプラ社の『ドキドキいっぱい!虫のくらし写真館』の目次をコピーして配布し、そのなかから興味を持ったことについて問いの文をつくらせるという工夫をしておられて、これはいいアイディアだなあと思いました。また、予想を立てることで、子どもたちの内面に本当はどうなのかを知りたいという気持ちが、ぐっと盛り上がるはずです。それで一生懸命に調べを進めて真相が明らかになったとき、彼らの立てた予想はどのように処理されるのだろう? と、その後の授業展開に興味がわいてきました。予想と合っていたら単純に喜び、間違っていたら残念!さっさと、その考えを捨てて正しい答えを覚えるというのでは単なるクイズです。でも、調べて分かったことにたいする驚きや感動、あるいは残念な気持ちや「どうして?」という疑問をばねにして、自分はどのように考えて予想を立てたのか、前提や考えの道筋は適切だったのか不適切だったのか、考慮に入れた要素は十分だったのか何が足りなかったのかといったことを、発達段階に応じて子どもたちなりに理解できれば、新しい発見に納得し、より深い満足感をえられるだろうと思うのですが、現実の小学校の授業で、そこまで到達することができるものでしょうか?
また別のクラスでは、その日、学校の畑で起こった「事件」を取り上げて、子どもたちが毛虫だか青虫だかを退治しようと水攻めにして大きな水溜りができてしまったことを話題にしていました。その毛虫か青虫かは退治されるべきだったのか、なぜそこに毛虫か青虫がいたのか、あれは毛虫か青虫か、いったい、どっちだったの? 先生は、○○ちゃんの意見や△△ちゃんの考えをクラスのみんなに問い返し、一人ひとりがそれぞれの思いを抱きながら国語辞典や図鑑を使って調べに入っていきました。自分たちが強い関心を持っている日常の出来事や経験を問うことで、子どもたちの心は大いに動くでしょう。きっと調べる過程でも子どもたちは一喜一憂し、結論が出た後も、最初に共有された自分たちの思いをもとにクラスは大いに沸き立つことでしょう。
ずいぶん以前のことですが宮城教育大学の林竹二先生の授業を受けた子どもたちの表情を追った写真集『林竹二・授業の中の子どもたち』(林竹二著 ; 松本陽一構成 ; 小野成視カメラ、日本放送出版協会, 1976)を見たことがあります。教師が何をどのように教えたか、子どもたちがどのように活動したかということだけでなくて、学ぶ過程で抱く困惑や不安、驚きや満足感といった感情に寄り添うカメラの視点に深い感動を覚えました。それ以来、子どもたち一人ひとりの要求や内面の変化に焦点を当てた授業研究が必要ではないかという思いを抱きつづけています。
ちなみに、カナダの探究学習プログラムFocus on Inquiryには、問題解決過程における感情の変化への対応が織り込まれています。(関心のある方は私が訳したPDFファイル「探究モデル」をご覧ください。)
子どもたちが自ら考えて問題を解決する力をつけるためには、大人が子どもの要求を先取りして解決しないことが大切です。かといって放っておいても、複雑な問題状況の中で大きな感情にとらわれている子どもは混乱していて、自分がどうしていいか分かりません。そんなとき子どもの要求や感情に寄り添いながら、その子どもの問題解決を援助する大人の存在が不可欠です。
先日、近所の子どもが幼稚園に行きたくないと泣き喚いて親を困らせていました。親は、送迎バスに遅れたので車で送ろうとしているのだけど、バスで行くとか言って駄々をこねていました。親が躍起になると、それだけ子どもは抵抗する。見かねたうちの奥さんがその子に話しかけました。
「そう、幼稚園に行きたくないのね。そしたら、おばちゃんと遊ぼうか。」
子どもは拍子抜けしたように、キョトンとして
「・・・ウン」
「そしたら何して遊ぼうか。ままごとがいい? それとも・・・何して遊んだら楽しいかなあ?」
その子は、しばらく考えて
「お友だちと遊ぶほうがいい・・・」
「そう、そしたらやっぱり幼稚園に行ったほうがいいかな。おばちゃんと一緒にバス乗り場に行こうか。」
「ウン」とうなずいて、しばらく歩いてから立ち止まり・・・
「バス、もう行ってしまってる・・・」
「あら、そう。困ったね。どうする?」
「・・・・・」
「やっぱり、お母さんの車で行こうか。」
「ウン」といって、自分からさっさと車に乗っていきました。
(わが女房も、自分の子どもにたいしては、なかなかこんなふうに巧く行かないのですが・・・)
ブログ「マダムHelenaの極楽Librarian日記」を書いておられる小学校の司書さんも、そんな子どもの気持ちに寄り添うことのできる大人の一人です。とくに6月29日の「むかつく時は・・・」は、とてもいいなあと思いました。ぜひアクセスして、ある日、「むかつく、むかつく」といって図書室にやってきた1年生へのマダムへレナの見事な対応をお楽しみください。
そこで紹介されている、悪者も救われる『3びきのかわいいオオカミ』もぜひ!
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最近、小学校の授業をいくつか見聞する機会に恵まれました。この3月に定年退職するまでの43年間、教員生活のほとんどを高校生相手にすごし、中学生を教えた経験もわずかしかしかない私にとっては、とても新鮮でした。
あるクラスでは、子どもたちに自分が選んだ本をクラスで紹介するスピーチをする準備をさせておられました。スピーチの構成を「はじめ」「なか」「おわり」に分けて、聞き手をひきつける工夫を考えてメモを作るのですが、当然のことながら、サッサとできてしまう子どももたくさんいたけれど、書いたり消したり難渋したあげく、何もできないまま授業を終える子どもも何人かいました。能力の差だと言ってしまえばそれまでですが、私は、先生からいわれて本を選ぶときの子どもたちの思いはさまざまだろうなと思いました。要領のいい優等生は、先生がやらせようとしていることを見通して、やりやすい本を選ぶでしょうし、いい格好をしたくて先生や友だちが評価してくれそうな本を選ぶ子もいるでしょう。悩みまくったあげく不本意な本を選ぶ子もいるでしょうし、なかには、あまり乗り気がしないで、いい加減な気持ちで選んでしまう子もいるはずです。そんなことを考えていたら、授業検討会で「子どもたちにテクニカルなことを教える前に、まず、なぜその本を選んだのか、どこが面白かったのかを問うことが大切ではないか」という発言があったので、心の中で喝采を送りました。子どもたちに本を選んだ理由を確認し、場合によっては、本を選びなおさせた上で、自分の思いを他者に伝える方法を考えさせると、もう少しスムーズに書けるのではないかと思いました。
別のクラスでは、昆虫について調べるために、自分が知りたいことを問いの形で表現し、その答えを予想させるという作業をさせておられました。子どもたちにいきなり問いを作れといっても難しいので、あらかじめポプラ社の『ドキドキいっぱい!虫のくらし写真館』の目次をコピーして配布し、そのなかから興味を持ったことについて問いの文をつくらせるという工夫をしておられて、これはいいアイディアだなあと思いました。また、予想を立てることで、子どもたちの内面に本当はどうなのかを知りたいという気持ちが、ぐっと盛り上がるはずです。それで一生懸命に調べを進めて真相が明らかになったとき、彼らの立てた予想はどのように処理されるのだろう? と、その後の授業展開に興味がわいてきました。予想と合っていたら単純に喜び、間違っていたら残念!さっさと、その考えを捨てて正しい答えを覚えるというのでは単なるクイズです。でも、調べて分かったことにたいする驚きや感動、あるいは残念な気持ちや「どうして?」という疑問をばねにして、自分はどのように考えて予想を立てたのか、前提や考えの道筋は適切だったのか不適切だったのか、考慮に入れた要素は十分だったのか何が足りなかったのかといったことを、発達段階に応じて子どもたちなりに理解できれば、新しい発見に納得し、より深い満足感をえられるだろうと思うのですが、現実の小学校の授業で、そこまで到達することができるものでしょうか?
また別のクラスでは、その日、学校の畑で起こった「事件」を取り上げて、子どもたちが毛虫だか青虫だかを退治しようと水攻めにして大きな水溜りができてしまったことを話題にしていました。その毛虫か青虫かは退治されるべきだったのか、なぜそこに毛虫か青虫がいたのか、あれは毛虫か青虫か、いったい、どっちだったの? 先生は、○○ちゃんの意見や△△ちゃんの考えをクラスのみんなに問い返し、一人ひとりがそれぞれの思いを抱きながら国語辞典や図鑑を使って調べに入っていきました。自分たちが強い関心を持っている日常の出来事や経験を問うことで、子どもたちの心は大いに動くでしょう。きっと調べる過程でも子どもたちは一喜一憂し、結論が出た後も、最初に共有された自分たちの思いをもとにクラスは大いに沸き立つことでしょう。
ずいぶん以前のことですが宮城教育大学の林竹二先生の授業を受けた子どもたちの表情を追った写真集『林竹二・授業の中の子どもたち』(林竹二著 ; 松本陽一構成 ; 小野成視カメラ、日本放送出版協会, 1976)を見たことがあります。教師が何をどのように教えたか、子どもたちがどのように活動したかということだけでなくて、学ぶ過程で抱く困惑や不安、驚きや満足感といった感情に寄り添うカメラの視点に深い感動を覚えました。それ以来、子どもたち一人ひとりの要求や内面の変化に焦点を当てた授業研究が必要ではないかという思いを抱きつづけています。
ちなみに、カナダの探究学習プログラムFocus on Inquiryには、問題解決過程における感情の変化への対応が織り込まれています。(関心のある方は私が訳したPDFファイル「探究モデル」をご覧ください。)
子どもたちが自ら考えて問題を解決する力をつけるためには、大人が子どもの要求を先取りして解決しないことが大切です。かといって放っておいても、複雑な問題状況の中で大きな感情にとらわれている子どもは混乱していて、自分がどうしていいか分かりません。そんなとき子どもの要求や感情に寄り添いながら、その子どもの問題解決を援助する大人の存在が不可欠です。
先日、近所の子どもが幼稚園に行きたくないと泣き喚いて親を困らせていました。親は、送迎バスに遅れたので車で送ろうとしているのだけど、バスで行くとか言って駄々をこねていました。親が躍起になると、それだけ子どもは抵抗する。見かねたうちの奥さんがその子に話しかけました。
「そう、幼稚園に行きたくないのね。そしたら、おばちゃんと遊ぼうか。」
子どもは拍子抜けしたように、キョトンとして
「・・・ウン」
「そしたら何して遊ぼうか。ままごとがいい? それとも・・・何して遊んだら楽しいかなあ?」
その子は、しばらく考えて
「お友だちと遊ぶほうがいい・・・」
「そう、そしたらやっぱり幼稚園に行ったほうがいいかな。おばちゃんと一緒にバス乗り場に行こうか。」
「ウン」とうなずいて、しばらく歩いてから立ち止まり・・・
「バス、もう行ってしまってる・・・」
「あら、そう。困ったね。どうする?」
「・・・・・」
「やっぱり、お母さんの車で行こうか。」
「ウン」といって、自分からさっさと車に乗っていきました。
(わが女房も、自分の子どもにたいしては、なかなかこんなふうに巧く行かないのですが・・・)
ブログ「マダムHelenaの極楽Librarian日記」を書いておられる小学校の司書さんも、そんな子どもの気持ちに寄り添うことのできる大人の一人です。とくに6月29日の「むかつく時は・・・」は、とてもいいなあと思いました。ぜひアクセスして、ある日、「むかつく、むかつく」といって図書室にやってきた1年生へのマダムへレナの見事な対応をお楽しみください。
そこで紹介されている、悪者も救われる『3びきのかわいいオオカミ』もぜひ!
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私のつたないブログを丁寧に読んでいただいた上、
紹介までしていただいて、ありがとうございました。
感激です!!
学校現場にいると、子どもの気持ちに寄り添うことは容易いようでありながら、実は難しいものだなあ、と日々実感しています。見慣れると、子ども達のちょっとした表情の変化をとかく見逃してしまいがちですし、ついつい大人の視点から見下ろしてしまいそうにもなります。そんな時は自分の子ども時代を記憶から手繰り寄せ、子ども達の視点まで下りていくことが必要なのだと思うのですが、忙しさにかまけておざなりな対応をしているのでは、と思うことも多々あります。
林竹二さんの写真集、ぜひ見てみたいと思いました。また、授業のプログラムだけでなく、それに伴う子ども達の感情の変化にまで留意された足立先生の記事を、とても興味深く拝読いたしました。
8月3日のアニマシオンの講義が楽しみです。
私たち教師や大人は、口では主体的な態度の育成などといいながら、ついつい子どもたちの要求や感情に目を向けずに、自分たちの都合や価値観で子どもたちを導くことばかりに気を取られていることが多いことを自戒しています。
子どもに、事実をよく見て、考えたうえで、適切な行動をとる態度を身に付けさせるには、まず大人がそのような態度で子どもに接することが大切でしょうね。
8月3日に来ていただけるのですね。楽しみにしています。