まとめ
ここで、物語のエッセンスを抜き出してざっと並べてみたいと思います。
正義王エドマンド
エドマンドがなぜ正義なのか、最初読んだときは違和感をおぼえました。他のだれでもエドマンドより、ふさわしいんじゃないか、と思いました。しかし、そこにCSルイスの正義に対する哲学が隠されていると思います。
エドマンドは始めから性格の悪い子でした。
それが魔女にプリンと王子の座で誘惑され、さらに堕ちます。「プリンと王子の座」はそのまま「金と権力」に一般化できるものです。
しかし動物と妖精達のパーティが石像にされたのを見てかわいそうだと思いました。それは、エドマンドが魔女に虐待されることによって、弱者に対して共感できるようになったからだと思います。逆に、もし魔女に厚遇されていたら石化された彼らをみても何の感慨も憶えず、魔女と一緒に「愚か者めが!」とおもっていたことでしょう。
とにかく、エドマンドは弱者に対する共感、つまり、思いやりを獲得したのです。
エドマンドが正義王にふさわしいのはそのためじゃないでしょうか。
ピーターは最初から正義感にあふれていますが、それは固定観念に近いものかもしれないのです。
それに対してエドマンドのは思いやりから出発している。だからそれは本物だ、とルイスは考えたのだと思います。
ピーターの勇気
についても同様なことがいえると思います。
ピーターは命知らずなわけではありません。
スーザンがモーグリムに襲われているとき、怖気づいて、吐き気までもよおしながら、「それでも何かしなければならないことに変わりありませんでした。」と、勝てるかどうかわからない相手に突きかかっていくのです。
ピーターは恐怖を克服することによって、自分で勇気を獲得しました。想像力の欠如、自分への過信からくる「命知らず」ではないのです。
アスランの試練
アスランもまた何かを克服しなければなりませんでした。
それが何だったのか?
エドマンドという他者を救うために命まで犠牲にすることによって、自らの善性をより強固なものにしたのか、それとも、死の恐怖を克服して「大帝」の定めた「始まりよりも前からの魔法」を信じることによって、「大帝」への忠誠をよりつよくしたのか、よくわかりません。
ナルニアはSF小説的に言えば、パラレル・ワールドです。もしかしたらSFのパラレル・ワールドものの原点なのかもしれません。
アスランはこのパラレル・ワールドのイエス・キリストです。大帝は聖書のGODです。
だからこのエピソードはキリストの受難と復活をベースにしているはずですが、門外漢の僕としてはよく分りません。
ただ、アスランがこの試練を受けることによって、ナルニアは魔女を必要としなくなりました。
このように各エピソードを見ると、以前に紹介した、映画「永遠の愛に生きて」のなかでルイスが言った言葉に全て集約されるように思えます。
「神は我々の幸福ではなく、我々の成長を願われているのです。」
ナルニア国物語りは試練と成長の物語と言えるとおもいます。
ところでスーザンとルーシィも試練をうけました。
目の前でアスランが殺され、何もできずに泣き尽くした一夜のことです。
考えようによっては彼女たちの試練が最も重いものです。
エドマンドの場合は、この悲惨が自分が招いたものだと納得することもできます。
ピーターとアスランは自分の意志で解決できるものです。
しかし、彼女たちは、納得もできず、解決もできません。ただひたすら悲しむ他ありませんでした。
しかし、それでも泣き尽くした後には透きとおった落ち着きがありました。その時彼女たちの心は成長していたのだとおもいます。
また話が「永遠の愛に生きて」に飛びますが、ルーシィとスーザンの状況は妻ヘレンを亡くした後のルイスと同じです。
ルイスは頭では分っていたことになります。つまり、耐えられないような悲しいことに直面したとしても、逃げてはいけない、目をそらしてはいけない、と。
しかし、実際にそれをするのに、10歳の時の母の死から61歳でヘレンを亡くすまで51年もかかった。
ルーシィとスーザンは分っていないのに逃げなかった。(作中人物と比べるのもなんですが・・・)ルイスは分っていたのに逃げた。
分っているだけでは意味がない、ということですね。(まったく)
ここで、物語のエッセンスを抜き出してざっと並べてみたいと思います。
正義王エドマンド
エドマンドがなぜ正義なのか、最初読んだときは違和感をおぼえました。他のだれでもエドマンドより、ふさわしいんじゃないか、と思いました。しかし、そこにCSルイスの正義に対する哲学が隠されていると思います。
エドマンドは始めから性格の悪い子でした。
それが魔女にプリンと王子の座で誘惑され、さらに堕ちます。「プリンと王子の座」はそのまま「金と権力」に一般化できるものです。
しかし動物と妖精達のパーティが石像にされたのを見てかわいそうだと思いました。それは、エドマンドが魔女に虐待されることによって、弱者に対して共感できるようになったからだと思います。逆に、もし魔女に厚遇されていたら石化された彼らをみても何の感慨も憶えず、魔女と一緒に「愚か者めが!」とおもっていたことでしょう。
とにかく、エドマンドは弱者に対する共感、つまり、思いやりを獲得したのです。
エドマンドが正義王にふさわしいのはそのためじゃないでしょうか。
ピーターは最初から正義感にあふれていますが、それは固定観念に近いものかもしれないのです。
それに対してエドマンドのは思いやりから出発している。だからそれは本物だ、とルイスは考えたのだと思います。
ピーターの勇気
についても同様なことがいえると思います。
ピーターは命知らずなわけではありません。
スーザンがモーグリムに襲われているとき、怖気づいて、吐き気までもよおしながら、「それでも何かしなければならないことに変わりありませんでした。」と、勝てるかどうかわからない相手に突きかかっていくのです。
ピーターは恐怖を克服することによって、自分で勇気を獲得しました。想像力の欠如、自分への過信からくる「命知らず」ではないのです。
アスランの試練
アスランもまた何かを克服しなければなりませんでした。
それが何だったのか?
エドマンドという他者を救うために命まで犠牲にすることによって、自らの善性をより強固なものにしたのか、それとも、死の恐怖を克服して「大帝」の定めた「始まりよりも前からの魔法」を信じることによって、「大帝」への忠誠をよりつよくしたのか、よくわかりません。
ナルニアはSF小説的に言えば、パラレル・ワールドです。もしかしたらSFのパラレル・ワールドものの原点なのかもしれません。
アスランはこのパラレル・ワールドのイエス・キリストです。大帝は聖書のGODです。
だからこのエピソードはキリストの受難と復活をベースにしているはずですが、門外漢の僕としてはよく分りません。
ただ、アスランがこの試練を受けることによって、ナルニアは魔女を必要としなくなりました。
このように各エピソードを見ると、以前に紹介した、映画「永遠の愛に生きて」のなかでルイスが言った言葉に全て集約されるように思えます。
「神は我々の幸福ではなく、我々の成長を願われているのです。」
ナルニア国物語りは試練と成長の物語と言えるとおもいます。
ところでスーザンとルーシィも試練をうけました。
目の前でアスランが殺され、何もできずに泣き尽くした一夜のことです。
考えようによっては彼女たちの試練が最も重いものです。
エドマンドの場合は、この悲惨が自分が招いたものだと納得することもできます。
ピーターとアスランは自分の意志で解決できるものです。
しかし、彼女たちは、納得もできず、解決もできません。ただひたすら悲しむ他ありませんでした。
しかし、それでも泣き尽くした後には透きとおった落ち着きがありました。その時彼女たちの心は成長していたのだとおもいます。
また話が「永遠の愛に生きて」に飛びますが、ルーシィとスーザンの状況は妻ヘレンを亡くした後のルイスと同じです。
ルイスは頭では分っていたことになります。つまり、耐えられないような悲しいことに直面したとしても、逃げてはいけない、目をそらしてはいけない、と。
しかし、実際にそれをするのに、10歳の時の母の死から61歳でヘレンを亡くすまで51年もかかった。
ルーシィとスーザンは分っていないのに逃げなかった。(作中人物と比べるのもなんですが・・・)ルイスは分っていたのに逃げた。
分っているだけでは意味がない、ということですね。(まったく)