それでは、「あらすじ」を書き終わって、感想を書こうと思います。
いろいろあって、まとまりませんが、つれずれなるままに書いてみます。
CSルイスはまじめなひとです。
まじめとは、脱線しない、という意味です。
物語は「メインとなる流れ」と、それを肉づけし、または装飾する「傍流」、また、あってもなくてもいいようなエピソード、セリフ、「水たまり」から成っているものです。
いや、幹と枝と葉にたとえたほうが適当ですね。
このうち、幹と枝は物語のためにあるものです。しかし、葉は作者の自己主張のためにあります。
例えば、この間、村上春樹の「海辺のカフカ」を呼んだんですが、そのなかで、登場人物がシューベルトについて論ずる場面がありました。
曰く、「シューベルトのなんとかという曲(記憶力悪くてすいません)は天国的に冗長で、どう演奏しようが、退屈さをまねがれない。しかし僕は何故か魅かれる。その未完成さにひきつけられる。」
このセリフは物語の本流と何の関係もありません。最近でた、「スィングしなけりゃ音楽じゃない」にも同じく、シューベルトのあえて未完成のまま、生のインスピレーションをそのまま提示する態度について書いていました。
おそらく、村上春樹は「言いたかった」のだと思います。
そのような態度を「不真面目」と言っていいと思います。
大急ぎで付け加えますが、僕は「不真面目さ」が大好きです。かっこいい言い方をすれば、無駄であるがゆえに豊かです。
サンテグジュペリの星の王子様もそのような「不真面目さ」に満ちていました。
もし、ライオンと魔女をテグジュペリが書いたとしたら、かるく倍の長さになったでしょう。
たとえば、きつねが王子様に「君の星には猟師がいないのか!」と喜んで、移住しようかと思ったのに、盗むべき作物もまたない、と聞いて、「世の中はうまくいかないもんだ。」と嘆く場面があります。
あっちを立てればこっちが立たず。メリットがあればデメリットもある。という真実を語っていますが、これまた物語の本流と関係ありません。
星の王子様の約60パーセントはそのようなサンテグジュペリの「人生哲学」で占められています。
それは言ってみれば物語にまぎれこませたエッセイです。エッセイは自己表現です。
自分の体験した、または見聞したエピソードとそこから抽出した「法則」。それをどれだけ抽象化し、一般化して誰にでもあてはまる「法則」に磨き上げたとしても、つまるところ、「自分」です。
自分の会社に誰がかけたのか相田みつをのひめくりカレンダーがかけてあって、毎日、否応なく(?)読んでしまうのですが、今日は「やれなかったのかな、やらなかったのかな、」とありました。
昨日はたしか「そのとき、どううごく、」でした。
だれにでもあてはまる事を言っているはずなのに、どうしようもなく、「相田みつを」です。
自己表現は楽しいと思うのです。
ところが、ライオンと魔女にはそのような、「エッセイ」がほとんどみつかりません。
せいぜい、ビーバーさんにご馳走してもらう場面で、「半時間まえに自分でとった魚をフライにしてたべることほど素晴らしいことはありません。」とちょろっとまぎれこませてるぐらいです。
僕があらすじを書くときは葉や枝をボキボキおって幹を裸にする作業をするのですが、今回は、折るべき枝葉がほとんどありませんでした。
どのエピソードも必然性をもってそこに配されているのでどこも端折ることができませんでした。
これは少し不思議なことです。
というのは、あとがきに書いてあったのですが、ルイスがナルニア国物語を書くときに、始めにイメージがあったというのです。
最初にあったのは、雪の森林のなかを、フォーンとちいさな女の子が傘をさして歩いているシーンだったそうです。
そのほか、さまざまなイメージの群れが小鳥たちのように頭のなかにあって、それを後から上手くつながるように工夫して、ひとつの物語にしたそうです。
だとすれば、もっととっぴなエピソード、整合性からはみでるような場面があってもよさそうですが、全く理詰めに計算されつくしたような展開になっています。
僕は最初読んだとき、四人そろってナルニアにいくまで随分回り道するな、まどろっこしいな、と思いましたが、良く考えると、エドマンドが後に裏切る伏線がしこまれているので、必要なのですね。
と、いうことはCSルイスという人はもう無意識からして理詰めの人なんだとおもいます。本当に学者タイプの人なんでしょうね。
いろいろあって、まとまりませんが、つれずれなるままに書いてみます。
CSルイスはまじめなひとです。
まじめとは、脱線しない、という意味です。
物語は「メインとなる流れ」と、それを肉づけし、または装飾する「傍流」、また、あってもなくてもいいようなエピソード、セリフ、「水たまり」から成っているものです。
いや、幹と枝と葉にたとえたほうが適当ですね。
このうち、幹と枝は物語のためにあるものです。しかし、葉は作者の自己主張のためにあります。
例えば、この間、村上春樹の「海辺のカフカ」を呼んだんですが、そのなかで、登場人物がシューベルトについて論ずる場面がありました。
曰く、「シューベルトのなんとかという曲(記憶力悪くてすいません)は天国的に冗長で、どう演奏しようが、退屈さをまねがれない。しかし僕は何故か魅かれる。その未完成さにひきつけられる。」
このセリフは物語の本流と何の関係もありません。最近でた、「スィングしなけりゃ音楽じゃない」にも同じく、シューベルトのあえて未完成のまま、生のインスピレーションをそのまま提示する態度について書いていました。
おそらく、村上春樹は「言いたかった」のだと思います。
そのような態度を「不真面目」と言っていいと思います。
大急ぎで付け加えますが、僕は「不真面目さ」が大好きです。かっこいい言い方をすれば、無駄であるがゆえに豊かです。
サンテグジュペリの星の王子様もそのような「不真面目さ」に満ちていました。
もし、ライオンと魔女をテグジュペリが書いたとしたら、かるく倍の長さになったでしょう。
たとえば、きつねが王子様に「君の星には猟師がいないのか!」と喜んで、移住しようかと思ったのに、盗むべき作物もまたない、と聞いて、「世の中はうまくいかないもんだ。」と嘆く場面があります。
あっちを立てればこっちが立たず。メリットがあればデメリットもある。という真実を語っていますが、これまた物語の本流と関係ありません。
星の王子様の約60パーセントはそのようなサンテグジュペリの「人生哲学」で占められています。
それは言ってみれば物語にまぎれこませたエッセイです。エッセイは自己表現です。
自分の体験した、または見聞したエピソードとそこから抽出した「法則」。それをどれだけ抽象化し、一般化して誰にでもあてはまる「法則」に磨き上げたとしても、つまるところ、「自分」です。
自分の会社に誰がかけたのか相田みつをのひめくりカレンダーがかけてあって、毎日、否応なく(?)読んでしまうのですが、今日は「やれなかったのかな、やらなかったのかな、」とありました。
昨日はたしか「そのとき、どううごく、」でした。
だれにでもあてはまる事を言っているはずなのに、どうしようもなく、「相田みつを」です。
自己表現は楽しいと思うのです。
ところが、ライオンと魔女にはそのような、「エッセイ」がほとんどみつかりません。
せいぜい、ビーバーさんにご馳走してもらう場面で、「半時間まえに自分でとった魚をフライにしてたべることほど素晴らしいことはありません。」とちょろっとまぎれこませてるぐらいです。
僕があらすじを書くときは葉や枝をボキボキおって幹を裸にする作業をするのですが、今回は、折るべき枝葉がほとんどありませんでした。
どのエピソードも必然性をもってそこに配されているのでどこも端折ることができませんでした。
これは少し不思議なことです。
というのは、あとがきに書いてあったのですが、ルイスがナルニア国物語を書くときに、始めにイメージがあったというのです。
最初にあったのは、雪の森林のなかを、フォーンとちいさな女の子が傘をさして歩いているシーンだったそうです。
そのほか、さまざまなイメージの群れが小鳥たちのように頭のなかにあって、それを後から上手くつながるように工夫して、ひとつの物語にしたそうです。
だとすれば、もっととっぴなエピソード、整合性からはみでるような場面があってもよさそうですが、全く理詰めに計算されつくしたような展開になっています。
僕は最初読んだとき、四人そろってナルニアにいくまで随分回り道するな、まどろっこしいな、と思いましたが、良く考えると、エドマンドが後に裏切る伏線がしこまれているので、必要なのですね。
と、いうことはCSルイスという人はもう無意識からして理詰めの人なんだとおもいます。本当に学者タイプの人なんでしょうね。
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