ロムルス ローマのはじまり
欧米では、正しいことを言っているのに信じてもらえない人のことを「カッサンドラ」というそうです。
カッサンドラはトロイの王女です。
木馬はアカイアの罠だと気づいたのに、アポロンにかけられた呪いによって誰にも信じて貰えず、彼女はなす術もなく滅亡を見守るしかなかった。
紀元前12世紀中ごろのことです。
時代が下って紀元前8世紀、イタリア半島の中部を流れるティヴェレ川の上流にアルバロンガという都市国家=ポリスがあった。
その王族の血統をたどっていくとトロイの王族につく、という伝説をもっていました。
ローマの始祖、ロムルスはその王女の息子です。しかし王子ではありません。
それどころか単なる邪魔者であって、弟のレスともども籠にいれて川にながされてしまいました。
母親は牢獄入りです。
なぜなら、現国王は母親の父から王座をうばった、叔父だったからです。正当な王位継承者がいては困るのです。
川に流されたロムルス達は下流で雌狼にひろわれ、乳をもらい育てられました。
そのうちに土地の羊飼いにひろわれ、羊飼いとして成長しました。
長ずると2人とも人に抜きん出るようになり、周辺の羊飼い連中のリーダー的存在になりました。
その過程で、自分たちの出生の秘密を知り、仲間の羊飼いを引き連れて、アルバロンガに攻め入りました。
国王を殺して復讐は遂げたものの、母親はすでに獄死していました。
その後、2人はそこにとどまらず、ティヴェレ川下流の本拠地に戻り、仲間と共に新しい都市を建設しました。
しばらくの間、兄弟は分割して統治してたが、あるときレスが分割線をこえて侵入してきた事から戦争になり、最終的にロムレスが勝ち、ただ1人の王になった。
彼の名から、その町はローマと呼ばれるようになった。
これが建国の伝説です。
そうとう怪しいですが、街が紀元前8世紀に作られたこと、建国者たちのルーツがアルバロンガにあることなどは確かなようです。
アルバロンガはトロイの末裔かどうかは別として、イタリア中部にいたラテン人の本拠地でした。
いまや世界中に広がったラテン人ですが、当時は北方のエトルリア人、南方のギリシャ人にはさまれて、イタリアのなかでも劣勢な人々でした。
ところで、ギリシャ人はあのアテネやスパルタのギリシャ人ですがエトルリア人はよく分らない人々です。しかし、早くから鉄器の利用をしっていたらしく、イタリア北部にうつってきたのも、鉄鉱山が目的だったといわれています。
また、高度な建築技術をもっていて、後にローマの代名詞になる、水道橋や、石畳の舗装道路なども、彼らから吸収したものです。
このころ12のポリスがあり、ラテン人よりはるかに進んだ文明を持っていたにもかかわらず、(ローマ人にとってはエトルリア人はみな国王に見えた、といいます)主導的なポリスがなく、同調した行動がとれなかったために、後には完全にローマに飲み込まれます。
今ではトスカーナ地方という地名(エトルリア人の土地)に名残を記すのみです。
ロムルスたちについてより真実に近いことは、彼ら、建国者たちは約3000名いたらしいですが、アルバロンガはじめ、周辺のラテン人のポリスや村からのあぶれ者、食い詰め者の集団だったらしいのです。
そして、女性はほとんどいなく、荒くれの男ばかりだったらしい。
というようなことは、建国早々に起きたある事件から推測できるのです。
それは「サビーニの女たちの強奪」事件・・・
欧米では、正しいことを言っているのに信じてもらえない人のことを「カッサンドラ」というそうです。
カッサンドラはトロイの王女です。
木馬はアカイアの罠だと気づいたのに、アポロンにかけられた呪いによって誰にも信じて貰えず、彼女はなす術もなく滅亡を見守るしかなかった。
紀元前12世紀中ごろのことです。
時代が下って紀元前8世紀、イタリア半島の中部を流れるティヴェレ川の上流にアルバロンガという都市国家=ポリスがあった。
その王族の血統をたどっていくとトロイの王族につく、という伝説をもっていました。
ローマの始祖、ロムルスはその王女の息子です。しかし王子ではありません。
それどころか単なる邪魔者であって、弟のレスともども籠にいれて川にながされてしまいました。
母親は牢獄入りです。
なぜなら、現国王は母親の父から王座をうばった、叔父だったからです。正当な王位継承者がいては困るのです。
川に流されたロムルス達は下流で雌狼にひろわれ、乳をもらい育てられました。
そのうちに土地の羊飼いにひろわれ、羊飼いとして成長しました。
長ずると2人とも人に抜きん出るようになり、周辺の羊飼い連中のリーダー的存在になりました。
その過程で、自分たちの出生の秘密を知り、仲間の羊飼いを引き連れて、アルバロンガに攻め入りました。
国王を殺して復讐は遂げたものの、母親はすでに獄死していました。
その後、2人はそこにとどまらず、ティヴェレ川下流の本拠地に戻り、仲間と共に新しい都市を建設しました。
しばらくの間、兄弟は分割して統治してたが、あるときレスが分割線をこえて侵入してきた事から戦争になり、最終的にロムレスが勝ち、ただ1人の王になった。
彼の名から、その町はローマと呼ばれるようになった。
これが建国の伝説です。
そうとう怪しいですが、街が紀元前8世紀に作られたこと、建国者たちのルーツがアルバロンガにあることなどは確かなようです。
アルバロンガはトロイの末裔かどうかは別として、イタリア中部にいたラテン人の本拠地でした。
いまや世界中に広がったラテン人ですが、当時は北方のエトルリア人、南方のギリシャ人にはさまれて、イタリアのなかでも劣勢な人々でした。
ところで、ギリシャ人はあのアテネやスパルタのギリシャ人ですがエトルリア人はよく分らない人々です。しかし、早くから鉄器の利用をしっていたらしく、イタリア北部にうつってきたのも、鉄鉱山が目的だったといわれています。
また、高度な建築技術をもっていて、後にローマの代名詞になる、水道橋や、石畳の舗装道路なども、彼らから吸収したものです。
このころ12のポリスがあり、ラテン人よりはるかに進んだ文明を持っていたにもかかわらず、(ローマ人にとってはエトルリア人はみな国王に見えた、といいます)主導的なポリスがなく、同調した行動がとれなかったために、後には完全にローマに飲み込まれます。
今ではトスカーナ地方という地名(エトルリア人の土地)に名残を記すのみです。
ロムルスたちについてより真実に近いことは、彼ら、建国者たちは約3000名いたらしいですが、アルバロンガはじめ、周辺のラテン人のポリスや村からのあぶれ者、食い詰め者の集団だったらしいのです。
そして、女性はほとんどいなく、荒くれの男ばかりだったらしい。
というようなことは、建国早々に起きたある事件から推測できるのです。
それは「サビーニの女たちの強奪」事件・・・