echo garden

基本的に読書感想文です。

ローマから日本が見える 9

2006-02-11 00:48:13 | Weblog
 ローマの指導者たちは急ぎ、軍を組織しましたが、平民たちの大移住によって兵力は半減しており、歴戦の勇将カミルスも国外に自主退去していました。
 迎撃に出たものの、勢いにのるケルト人に粉砕されました。
 蛮族に囲まれ、行き場を失った人々は市内にある、カピトリーノの丘に篭城することにしました。ローマにある7つの丘のうち、最も高かったからです。
 しかし、市民全員が逃げ込むには狭すぎました。
 結局、徹底抗戦のために丘には若者と壮齢期の男たち、そして、彼らの妻女のみが篭城することに決まりました。元老院議員であっても高齢なものは入れませんでした。
 ローマ市内に侵入したケルト人は暴虐の限りを尽くした、と史書は伝えます。
 同胞が虐殺され、住み慣れた街が破壊されてゆくのを丘の上の人々はただ、見ているしかありませんでした。
 
 7ヶ月にも及ぶ篭城の末、ローマ人はケルト人と和平を結びます。と言っても、ローマ人が勇猛に闘った結果ではありません。
 元来、森の住人であるケルト人にとって、都市を占領していることに魅力を感じなくなった、というのが最大の理由でした。
 彼らはローマ側が差し出した300キロの金塊を受け取ると、さっさと引き上げていきました。
 残されたのは廃墟とわずかの人々のみで、ここでローマが終わっても不思議ではないほどでした。
 この事件をローマ史家は<ケルト・ショック>と言います。エンヤの祖先がまさかこんなことを・・・<ぼくもショック>です。
 しかし残された人々は一致団結し、復興に励みました。
 まず第一にせねばならなかったのは周辺国との戦争です。
 それまでは周辺のラテン人の諸ポリスは、最も勢力のあったローマを中心として、ラテン同盟を結成していましたが、今回の事件でローマが弱体化したのを見ると、とたんに反旗をひるがえし、侵略を始めたのです。
 カミルスが呼び戻され、周辺の諸都市との戦いを繰り返しましたが、彼が率いる戦いはほとんど常勝といっていいほどでした。
 それによってローマの防衛網を再構築したカミルスは「第二のローマの建国者」とよばれました。  


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1 コメント

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キルト展のお知らせ (WildChild)
2007-02-27 20:34:02
エンヤ・ケルト・LOTRについてコメント有難うございました。
来る3月20日~25日に名古屋市民ギャラリー矢田で、「一人一点キルト展」が開催されます。
今回は、「Watermark」を展示します。
良かったらどうぞ。
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