掌編な小説

愛と死を題材としたものだけを載せました。感想をいただければ幸いです。長編は苦手。少しずつですが、続きを書いていきます。

涙別

2017年11月10日 | 掌編

 彼女の住んでいた近隣の駅は、昔から阪急宝塚線蛍池駅と呼ばれ、小さい街に埋もれていた。
 梅田方面から降車して線路を渡り、改札を出て狭い路地を通り、商店街に差し掛かる。
 雅昭にとって懐かしい街が広がった。
 
 雅昭は京子と結婚の約束をし、ある理由から別れた。そして10年経って京子の家に訪ねてきたのだが、
京子はすでに亡くなっていた。雅昭は当時34歳。中年と呼ぶにはまだ早いかもしれない。
 彼女は雅昭と別れてすぐに自殺していた。
 雅昭はそのとき強い衝撃を受け、それ以来生ける屍となった。十余年も屍となっていた。現在は初老と
いってもいいだろう。しかし十余年もぼおっとして、またこの蛍池にやってきたのだ。
 彼女の父、茂郎に会うために。


 
 茂郎は昭和16年、尋常小学校を卒業し高等小学校に進学予定であったが、高等小学校は廃止されて、
国民学校高等科となった。現在の中学校のことだ。とは言っても名称が変更となっただけで、高等小学校と何ら
変わりはなかった。
 わが国が大東亜戦争に突入する少し前のことである。

----続く----


二度目のさよなら

2007年05月06日 | 掌編

 大阪府豊中市に蛍池{ほたるがいけ}という場所がある。
 その辺り一帯の地名になっているが、実際にはその名の小さな池が存在する。
 昔、普段は静かで、美しいその池が、毎年蛍の飛び交う季節になると、蛍狩りの家族連れなどで、小宴さながらの賑わいを見せたことから、蛍池と呼ばれたことは容易に想像はつくが、定かではない。
 阪急電鉄宝塚線蛍池駅は憐憫{れんびん}を誘うような小さな街の小さな駅だが、閑静な住宅街に接するように、その両端に線路を延ばしている。

 村崎雅昭が、藤原京子の家を訪ねるのは、10年ぶりのことである。今ではもう中年といってもおかしくない年頃だ。電車を降りて駅から申し訳程度の繁華街を過ぎると、蛍池があった。
(昔とちっとも変わってない…)
 と、彼は思った。
 夏の盛りへと向かう昼下がりは、雅昭にとって、汗が滲み出るほど暑く、歩く足下のアスファルトは、まるで融けかけているようだった。そして、また心苦しくもあった。その苦しさの中に、期待感のようなものがあることは否定できないけれども、それとは別に京子を訪ねなければならない理由もあったのだ。
 雅昭は京子の家に近づくにしたがって、しだいに足早になっていた。
 この10年間、雅昭は京子のことを忘れなかった。いや、忘れられなかった。京子に対して申し訳ないと思っていたせいもあったのかもしれない。そういった、贖罪の念が彼をしてそうさせたようだ。
 雅昭は、ちょうど10年前、京子とある約束をした。その約束をどうしても守りたかった。10年ひと昔というが、雅昭にとって、長いようで短い10年であった。

「10年経ったら、私を訪ねて来て」
「ああ、必ず行くよ。その時は君はもう結婚して、幸せな家庭を築いているかもしれない。」
「そうね、でもそれはあなたも同じよ」
「それでも会いに行くよ。約束だ」
「素敵ね、そんな約束」
「そうかなあ」
「そうよ、だって、お互い別の人と結婚するってわかっているのに、10年経って、昔の恋人と逢うなんて」
「それって不倫じゃないのか? 倫理に反することが素敵なのか?」
 雅昭は自分にも問いかけたつもりだった。
 その質問を京子は聞かないふりをしていたが、
「不倫じゃないわ、逢うだけで…」と、呟くように言った。
 それは雅昭にもわかっていた。
「お願い、絶対来て。私、もし結婚していたとしても、実家に帰ってるから」
「君の実家に行けっていうのか?」
「その時は、お父さんも許してくれると思うの」
「許す? 何を許すって言うんだ。俺は誰の許しも請わないよ」
「雅昭さん…」
 物憂げな雰囲気が二人を包んだ。大阪梅田駅前にある、丸ビルのホテルの一室で、最後の別れを惜しもうとしていた二人。誰もがそんな状況だったら、些細なことで喧嘩などしないだろう。しかし、雅昭にとって、京子の言ったことは、そんな些細なことではなかった。
 京子は、悲しそうな目をしたが、すぐに自分の言ったことを悔やんだ。
「ごめんね、悪かったわ。お父さんのこと持ち出して」
「いや、俺の方が悪かった。君の気持ち考えないで」
 二人の抱擁は長く続いた。若く、そして熱い恋だった。

 雅昭はそれが優しさだと思っていた。互いを許し合える寛容さこそが優しさの真髄ではないか。そう信じて疑わなかった。
 一ヶ月経ち、二ヶ月経って、雅昭は仕事の忙しさに思い出を紛らわした。
 三ヶ月経つと、京子の面影が消えたように思えた。自分と別れることで、京子は幸せになれるんじゃないのか? しかもそれは京子の為だけじゃない。お互いの為に別れたんじゃないのか? 京子を忘れることで、京子が幸せになれるとさえ、自分自身に思い込ませ、そう信じ込む努力をした。そう言い聞かせることが、雅昭の唯一心のよりどころでさえあった。

 京子は、半年経っても雅昭のことが忘れられないでいた。忘れなければいけないのに、忘れられないことが、余計心の傷となっていつまでも残っている。それは半分父のせいだと、内心感じていた。
 京子は父と二人暮らし。父親は大阪府庁に勤める堅実な役人である。頑固な性格はいつまでたっても変わらない。むしろ歳をとる毎にわからずやになる一方である。
 京子が雅昭のことを父、藤原茂郎に話した時から、茂郎はうかない顔をしていた。
「だめだめ、どこの馬の骨ともわからん奴におまえをやれるかいな。ええか、おまえは藤原家の大事な一人娘や。婿をとれとは言わん。せめて俺の目に叶う男やないと結婚はさせられへん」
「村崎さんじゃだめなの?」
「だめにきまっとる。聞くところによると、今の仕事やめて、実家の九州に帰るそうやないか」
「なんでお父さんがそんなこと知ってるの?
「おまえには悪い思うたが、人をつこうて調べさせたんや」
「雅昭さんが帰るのはそんな理由じゃないのよ。お父さんが反対するから私たち…」
「そんなことあるかいな。そんな根性無しに娘を嫁がせる為に、この男手一つで育ててきたんとちがう」
 取り付く島もなかった。京子は、もう結論は出ているんだと自身に言い聞かせた。

 雅昭は藤原の家が見えはじめると、益々鼓動の激しさを増した。10年前は京子との密やかなデートの帰りに、よく家の前まで送って行ったものだった。そんな思い出が、否応なしに雅昭の心の中を過った。京子はもう忘れているかもしれない。今どき10年前二人で交わした、ただ会うという約束を覚えていて、実行する者がいるだろうか。いや、それでもいい。京子から素っ気ない顔をされて、「ああ、そうだったかしら」と言われるかもしれない。それでも、約束を雅昭は守りたい。そしてそのときはこのまま九州に帰ろう。
 家の前まで着くと、茂郎が玄関に立っていた。雅昭にとってはじめて見る、京子の父親の姿だ。彼は穏和な表情だった。
「君が村崎君か…、待ってたんや」
「え?」
 雅昭は聞き返した。
 待っていただなんて、二人だけの約束を京子は父親に話しているのだろうか…。
「君が来るのを待っていたんや」
 茂郎は復唱するように言い、その言葉遣いは優しかった。
 雅昭は、京子の父親が娘の以前付き合っていた男が訪ねて来たことに、多少なりとも驚愕を示し、自分と京子を会わせまいとして、何らかの妨害をすることはないにしても、快く思わないであろうということを、ある程度覚悟をしていた。その予想に反して、茂郎は稀有{けう}の出来事--見知らぬ訪問者に対して、歓迎さえしている。そのことは雅昭とって、戸惑いを示さないではいられない。
「あの、京子さんは…、いらっしゃいますか?」
 恐る恐るお伺いを立てるように訊いた。
「京子は……、京子は死んだよ」
「し、死んだ?」
「ああ、ちょうど9年前の今頃やった。君と別れて1年して、自殺した」
「え? 自殺…した…」
 雅昭は、体が震えて、茂郎の言葉を繰り返すことしかできない。
「一時は君の事を怨んだ。でも、今は怨んじゃいない。悪いが、京子が君宛に残した手紙を読ましてもろうた。今日これを君に渡す為にとっといたんや」
 そう言って、茂郎は雅昭に古い封筒を渡した。
「僕にですか?」
 雅昭がは封筒の中の色あせた白い便箋を取り出した。一目で京子が書いたとわかる、懐かしい特徴のある細い文字が目に映る。
 雅昭は茂郎に、『今ここで読んでいいですか?』と、目で訊くと、茂郎は頷いた。

『雅昭さん、元気ですか? あなたはあまり身体の強い人ではないから心配です。
 でもこうして、私の手紙を読んでくれている時のあなたは、ちゃんとあの時の約束を守って、来てくれたんですね。ありがとう。
 あなたと別れて一年になります。考えてみれば、いろんなことがありました。あなたとの出会い、父との確執、そしてあなたとの別れ。

あれから一年、私にとって、例えようもなく長い時間でした。
 私、何度もあなたに会いに行こうとした。雅昭さんの居所なんて調べること、造作もないことだから。

でも、それはしなかった。あなたは必死で私を忘れようとしているんだと思っていたから。私と別れることの方が、あなたは幸せになれる。そう思っていたから。
 私、これでもあなたを諦めようとしたんですよ。でも、それはできる筈はなかったのです。私の精神は空中を漂っています。

何年経っても私、きっと今のまま、あなたを愛し続けています。こんな気持ちであなたとの約束をどう果たせばいいのでしょう。一度はさよならを言った私たち。

いまさらこんなこと言っても、あなたは笑うでしょう。
 しかし、私はもうこの世にいません。この弱い私自身は、これ以上耐えることができなかったのです。結局、死を選んでしまった私を、九年後のあなたは許してくれるでしょうか。
 どうか、一人よがりで、わがままな私の死など、気になさいませぬよう、あなただけは幸せでありますように……。
九年後の雅昭様                  京子』

 雅昭は読み終えると、藤原氏に短く一礼し、走り出していた。便箋を持ったまま全力疾走した。倒れそうになって、どこへということもない、ただあてもなく歩き続けた。そして気付くと、いつのまにか蛍池の辺りに来ていた。日も暮れている。
 その時、何匹もの蛍が光を放ち、飛び交いはじめた。以前は蛍池でそんな光景を見たことはないほど多くの蛍だ。その中の一匹が雅昭の耳元に止まった。
「雅昭さん…」
 と、かすかに囁いたように聞こえた。
「京子?」
 蛍は依然止まっている。
「来てくれてありがとう」
 蛍はまたそう囁いた。
「京子なのか? 俺はおまえを愛していたのか?」
「ええ、この10年間二人は愛し合っていたわ」
「二人共?」
「だから今日で終わりにしましょう、私は今日を待った。そして、あなたも覚えていてくれて、今日を待って来てくれた。本当にありがとう。でも、今日で二人の恋は終わったの。私のことはいいから、あなたは新しい人生を歩んでください」
 そう囁いたように雅昭には聞こえた。
 それからその蛍はどこかに飛んでいってしまった。
 雅昭は草むらに跪{ひざまづ}き、人目など気にせず、大人になってはじめて子供のように大声で、しばらく泣いた。


 ひとしきり泣いた後、雅昭はすっと立ち上がり、京子の実家の方向に戻りはじめた。京子の父、茂郎に伝えなくてはならないと思った。
 誰でもない、京子を殺したのは俺だ。直接手を下してはいないが、精神的に追い詰め、俺が殺したようなものだ。自殺なんかじゃない。
京子はあの世で殺されたなんて思ってもいないだろう。人知れず、気付かず俺は京子を9年前に殺したのだ。
「でも……俺は京子を忘れるよ。京子はそうして欲しいんだろう?京子がそうして欲しいならそうする」
 小さくつぶやくつもりが大きな声になってしまった。
 暮れた空に向かって雅昭は泣こうとしたが、もう涙も枯れてしまい、何時間も蛍池にいた。

    (終)