掌編な小説

愛と死を題材としたものだけを載せました。感想をいただければ幸いです。長編は苦手。少しずつですが、続きを書いていきます。

友達の銀次

2018年07月21日 | 掌編小説

 まぶしいくらい強く朝の日が差している。ずっと眠っていた感覚で、浩一は目を覚ました。
 何時間眠っていたかなんてわからない。昨日寝入ったのかな。覚えていない…。寝入った時間も今何時かさえも
わからない。
 浩一は時計を探した。体を起こして視線を上部にゆっくりと回転しながら動かす。どうもここは自分の部屋のようだ。
あらためて思った。忘れているのだと。何で自分はここにいるのかということを。
 半分ほど体を捻った時、浩一は声をあげた。父親が首を吊っていたのだ。
「え?な、何故?」声が恐怖でかすれた。
 部屋の隅には空のペットボトル、机の上には灰皿で何かを燃やした後がある。
 親父が死んでいる!?。何で首を吊ったのだろう。何で親父は自殺なんかしたんだろう。しかも俺の部屋で…。
浩一はなんら思い当たるふしがなかった。
 震えが生じた。そして冷や汗が出ていた。冷汗が出ているということは身体が死に至るような何か危険なことは起きた
という証拠だと、いつか見たテレビ番組、何とかジェネラルとか言ったか…で言っていた。とにかく昨日までの記憶はあ
るんだ。昨日この家に帰ってきて…そこまでは覚えている。
 それよりも親父が死んでいる。叫びたい衝動にかられた。
 下の玄関ドアをたたく音。鍵が開いているので開けて入ってきゃがった。
(誰だ!)
「お~い浩一ぃ〜、居んのかあ?」

 下からあほらしい声が聞こえた。この部屋まで上がってきやがった。あの声はヤク仲間の銀次だ。部屋のドアは開いてい

るのでズカズカと入ってきた。銀次はいつもそうだ。完全に自分の部屋だと思っていやがる。毎日は来ないが時々ヤクを
打つ為に浩一の部屋に来る。一つ下の風来坊だ。それ以上浩一は銀次のことを知らない。どこに住んでいるかも知らない。
しかし、知らなくていいのだ。ヤクを打てば帰って行く。そういう関係だ。
「な、なんなんだー」
銀次が叫んだ。
「親父さんどうして…」
「どうしてって、どうも縊死{いし}のようだ」
「縊死ってなんだ?自殺?殺人かもしれねえじゃん」
「まあな。それより、俺が昨日帰ってきたときから覚えてないんだ」
「覚えてない!?ひょっとしてお前…」
「だから、殺してないって。俺じゃないし、殺人でもねえよ。絞殺だとしたら絞殺痕の位置が違うし、扼殺としては吉川
線がない。首吊り自殺だ」
「お前よく知ってんな、そんなこと」
「まあな。とにかく親父を降ろしてやりたい。手伝ってくれないか」
銀次は手際よく手伝ってくれた。硬直はまだあったので、おそらく昨日亡くなったのだろうと浩一は思った。
「遺書はあったのか?」銀次が当然あるだろうみたいな口調で言った。
「わからん」
「わからんって、何も残さず死ぬような親父さんじゃないだろう」
「お前親父をよく知ってんのか?」
「ま、まあたまに来た時に会ったことはあるよ」
「多分そこの机にある燃やしカスが遺書だったんだろう。状況からすると俺が燃やした感じだな」
 浩一は覚えていない自分と、一縷の望みのないこの状態にどうしていいかわからなかった。誰かに助けて欲しかった。
でも、今ここに居るのは普段から頼りない銀次のみだ。そのことが一層浩一を落胆させた。
「銀次、俺は母親を殺した。狭心症発作が起きたとき、わざとニトロだと言って別の強心配糖体を飲ませた。母さんは
苦しんだ。吉川線ができないように手を抑えつけた。俺はまだ子供だったし、母さんは薬を間違えて飲んで死亡したと
いうことになった。でも、それはおれの計画的な仕業だった」
「それで吉川線を知っていたのか」
「遺書には多分そのことが書いてあったのだろう。親父は自分も死んで俺を殺そうと思った。それが昨日多分失敗した
んだよ」

 少しの時間が流れた。
「知っているよ」と銀次が言った。
「なんだって?」
「俺はもうヤク中じゃねえ。今お前と打っているのはコカルボキシラーゼを静脈注射しているだけだ。長い間かかった
が、ヤクはもう抜けているよ。それに親父さんがお前を殺そうとは思っていなかった。想像だが、息子殺しの失敗じゃ
ない」
「俺が打っているのは?」
「浩一が打っているのはまだ5回に1回はヤクだ。お前はまだ抜けてない」
「なぜそんなことをしている」
「親父さんに頼まれたからだ。お前のことは何もかも知っている。母親のことも訊いている」
「親父に訊いたのか?」
「俺は親父さんに恩がある。薬漬けで死んだも同然の俺を助けてくれた。コカルボキシラーゼを最初は10回に1回、
それをだんだん割合を増やしていって、ヤクから抜けさせてくれた」
「親父に?」
「俺は親父さんに頼まれた。お前がもし生きていたら、浩一を頼むってな」
 浩一はうつむいたふりをして涙を一滴落とした。

         (終)

 

(注)コカルボキシラーゼ(ビタミンB1の補酵素)でヘロイン等からは断ち切られられません。
   先に「本当の理由」を読んでもらうとありがたいです。


本当の理由

2018年07月21日 | 掌編小説

 浩一が戻って来たとき、家の中には誰もいる気配はなかった。
(親父のやつ、またどこかで飲んでいやがるんだな)
 時計の針はもう午前三時を回っている。
 浩一は、いつもこんなに遅くなって家に帰る。時には明け方を過ぎ、昼近くになることもある。毎日夜遊びしているからだ。
 彼は二年前に母に先立たれ、父と二人暮らしだった。そのころからぐれはじめ、万引き、深夜徘徊、窃盗、シンナー、暴走行為、淫行、etc…。ひと通りの悪さを経験し、現在も続いている。
 家に帰ると、すぐに台所に向かう。それが日課となっていた。冷蔵庫を開け、炭酸飲料水の入ったペットボトルを取り出し、喉の渇きを潤す。毎日そうしている。欠かしたことがない。
 浩一が飲もうと、ボトルに口をつけようとしたその時、二階からドスンという鈍い音、そのすぐ後にドアの開く音がしたような気がした。
(ん? おかしいな、誰もいない筈なのに……、親父か?)
 二階に人がいるような気がする。
「誰かいるのかー? 親父ー」
 返事はなかった。
 彼らの家は閑静な住宅街の外れの、こぢんまりとした一戸建てだが、父子二人暮しの女気のない家の中は、活気もなく、がらんとしていた。二階は浩一の部屋と物置になっている部屋があるだけだ。
(上に誰かいる!?)
 浩一は、ボトルを持ったまま、恐る恐る二階への階段を上がっていった。
 自分の部屋のドアが半分開いている。中は真っ暗だ。照明器具のスイッチを手で探りながら入れる。
 その光景を目の当たりにしたとたん、腰を抜かした。というより、体中の血の気が引いた。全身の力が抜け、手に持っていた炭酸飲料水のボトルが、辺りに落ちて転がり、その音が空しく部屋に響いた。
「親父ー、な、なんなんだよー」
 浩一は思わず涙声で言った。
 父は首を吊っていた。
 浩一の部屋の、ほぼ真ん中辺りの柱と天井との間に穴を開け、物干し用のロープを通し、縛り付け、たらしている。そのロープの先には、首に二重三重にも巻きつけた、だらりとなった父の体が、こちらを向いて少しだけ揺れている。
 椅子が倒れていた。おそらく踏み台にしたのだろう。ロープを首に巻きつけた後、蹴ったとみられる。その横に白い封筒があった。封筒には「遺書」と書かれてある。
 浩一はその遺書を見つけても、すぐに読む気になれなかった。神妙に読む気になったのは、一時間ほどの放心状態を脱してからであった。

 『浩一、おまえももう一七歳になるのだから、これから書いてあることを理解できると思う。どうやらこれが父親として、息子に残す遺書になるようだ。
 私は考え、悩み抜いた結果、おまえに死んでもらうことにした。心配しなくていい、おまえ一人を死なせはしない。私も一緒にあの世に行こう。ただ、私の方が一足先に行っている。それだけの違いだ。
 この遺書を読み終える頃には、おまえが帰ってきた時にすぐに飲んだペットボトルの中の薬が効きはじめることだろう。おまえはいつも遅くなって帰り、決まって冷蔵庫の中の飲み物を飲む。だからその中に、私が病院でいつも貰っている糖尿病の薬と睡眠薬を、全部溶かして入れておいた。低血糖を起こして意識がなくなるのが速いか、睡眠導入の作用が現れるのが速いかは分からないが、どちらにしろ、永遠の眠りにつくことだろう。それがおまえにとって、一番楽な死に方だと思った。悪く思わないでくれ。――といっても、おまえは許さないだろうな。』
(親父の野郎、何てことしやがるんだ。たまたま今日これを、まだ飲んでなかったから、助かったようなものの、危く死んじまってたところだったぜ)
 足の辺りを触ってみるとまだ暖かい。硬直も起きてないことから、浩一が帰る直前に自殺を決行したに違いない。浩一は、父の弛緩した遺体と、思わず二階まで持って上がったボトルを見比べるようにしながら、胸を撫で下ろし、続きを読んだ。

 『生前の母さんの言っていたことを覚えているか? 母さんは、浩一が一人前になって、自分の病気も治って…、そうなったら一番いいのに…。いつもそう言っていた。自分が心臓を悪くして、家族に迷惑をかけて申し訳ない…。そうも言っていた。
 自らの死期を感じとっていたのだろう、生きているうちに、おまえが立派な人間に育つようにと、望みを託した。しかし、そんな母さんの切実な願いとは裏腹に、おまえはどんどん悪くなっていった。学校を無断で休むようになり、おまえのいう親友の家で、煙草を吸ったり、酒を飲んだりしていたのだ。そのうち、ろくでもない奴らとも付き合うようになった。警察に何回も補導され、遂には逮捕され、家裁送りにもなった。
 そんな時だ、母さんに心臓発作が起きたのは。私は、妻の死に水も取れず、そのまま逝かれてしまった。』
(何言ってやがるんだ、仕事仕事で、家庭を、家族を顧みなかったくせに…)

 『葬儀にも出なかったおまえは、よそで遊び歩いていた。初七日が終わって、やっと帰ってきたと思ったら、家中の金を持ち出し、また出て行った。
 それからというもの、おまえはまるで谷底へ転落するように、悪の道へと堕落の一途を辿っていった。
 そして今、おまえ、麻薬やっているな。毎日毎日遅くなって帰ってきて、真っ先に冷蔵庫の中の飲み物を飲んでいる。そんなに喉が渇くか? 口渇は麻薬常習者の特徴だからな。その光景を何度も目撃していると、おまえは治らない、おまえは更生しない。そう確信せざるを得ない。親族の名折れ、人間の恥さらしだ』
「そうさ、そうなんだよ。俺はもう治らねぇんだよ…。だけど、だけどそうだからって、俺を殺そうとするこたあねえだろ?」
 浩一は、息もとうに絶えた父に向かって、訴えるように言った。

 『おまえは充分過ぎるほど、つまり「死」に値するほど、人に迷惑をかけてきた。
 でも、おまえを殺す本当の理由はそんなことじゃない。
 浩一、おまえ、故意に母さんを--妻を殺したんだろう?
 おまえは普段から母さんに喧しいくらいにいろいろと言われるのを、疎ましく思っていた。いなくなればいいと思った。母さんに対して、おまえの中に殺意がなかったとは言わせない。
 後の警察の事情聴取で、おまえは母さんに狭心症の発作が起きた時、心臓の薬を間違えて飲ませたと言った。死亡を確認に来てもらった医師にもそう言った。
 しかし、それは嘘だ。血を分けたこの父には、誤魔化しがきかない。
 母さんが発作で苦しんでいる時、ニトログリセリンでなく、強心薬のジギトキシンを飲ませようとした。生憎、母さんはすぐには飲まなかった。なぜなら、狭心症発作薬のニトログリセリンは舌下錠だからだ。それでも、ジギトキシンは速やかに口腔粘膜から吸収された。ジギタリス中毒というのを起こし、母さんは死んだ。死因は急性心不全。強心薬と狭心症の薬、発音は似ているが、別の薬だ。おまえは、その言い訳が通ることを狙っていた。警察も、医師も、子供のおまえの言うことを信じた』
(……)

 『私がどれだけ妻を愛していたか、おまえに解るか? 自分の生命を賭してまでも、おまえを、息子を殺す理由が解るか?
 父より』
 一応ここで遺書は終わっていたが、後で付け加えたとみられる一文が、最後の一枚に記されてあった。

 『もしかしたらこの遺書を読んでいるおまえは、冷蔵庫の中の毒を飲んでいないかもしれない。いいか、これは賭けだ。もし飲んでいなければ、まっとうに妻と私の分まで生きていってくれ。頼む。      父より』
(親父……、俺に後戻りができるってのか? どこまでお人好しなんだよ。でも…、偶然とはいえ、まだ俺は生きてるんだ。死んじゃいない。親父がドアを閉め忘れてたから、俺は開く音に気付いて……。まてよ、親父、わざと半分開けておいたのか? 俺が毒を飲む前に気付くか、気付かないか? まさか、それが賭けなのか?)
 浩一は、読み終え、項垂れて一考していたが、意を決したようにむくりと立ち上がると、遺書を雑巾のようにねじって絞り、灰皿の上で火をつけた。まるではじめからこんなものは存在しなかったように燃やし尽した。
 それから、「すまない」と声にならないほど小さく呟き、ペットボトルの中身を躊躇うことなく一気に飲み干した――。
                (終)


はなむけ

2018年07月15日 | 掌編小説

  穏やかな暖かい天候が続いた。
 澄江の嫁ぐ日が近づいている。達造は、娘の花嫁姿を見るのを憂鬱な表情を浮かべながら、居間のソファーに腰を下ろす。庭に散った葉が一本の銀杏の木の周りを埋め尽くしている。やがて枯葉となり、黄土色から焦げ茶色に変わって土に戻るだろう。その枯葉の下には人間の死体が埋まっている。澄江の母であり、達造の妻、紀伊子の遺体である。もうすでに白骨化しているに違いない。と達造は思った。キャスパーの法則によると、地上よりも地中に埋めたほうが8倍腐敗スピードが遅く、白骨化しにくい。
 
達造が紀伊子を庭に埋葬した時から10年も経った。
 澄江
が結婚をすると言い出した。達造は驚きはしなかった。父親としてろくな返事もできなかった達造は何も言わず、昔のように走りはじめた。
 
ハンドルを曲がる方向に少し。まず強めにブレーキをかけ、重心を前方に移動させる。ブレーキ配分は前後で7:3ぐらいが良い。そのように設定している。ブレーキを踏むと同時にクラッチを踏む。次いで回転数を維持するためスロットル全開にする。微妙なタイミングが必須のヒールアンドトウは慣れたものだ。達造はギヤは2速を選択した。3速でもよかったのだが、今日は攻めたい気がした。慣性ドリフトは今日はする気分ではない。峠の頂上付近の少し下り気味、パワードリフトの絶好のヘアピンカーブだ。
(ブレーキ配分は8:2の方がよかったか…)
まず後輪が滑りだし、遅れて前輪もグリップを超え滑りだした。カウンターをあてなければ、スピンしてしまう。
(慣れた道だ。そんな簡単にスピンするかよ)
達造は独り言を呟いた。
 
ロールはないわけではないが少なく、またアライメントのトーインはプラスマイナス0、キャンバー角はプラス側に1°の角度に設定した。少々直進安定性は犠牲になったが、タイヤ偏磨耗はなく、ステアリングのキレはよい。2速全開だったので、車体が内側に寄り過ぎた。アクセルを緩め、車の体勢を整える。
 
車の方向はハンドルで操作すると思いがちだが、アクセルで方向を決める。踏めば内側に、戻せば外側にノーズは向く。後輪が一旦滑り出してグリップを失うと、ハンドルをいくら切っても方向は定まらない。ドリフトとはこういうものだということを、あらためて感じさせてくれる。サイドブレーキで後輪をロックして滑らすなど、ドリフトじゃない。えせドリフトだと常に達造は思っている。
 
車種は2年前に手に入れたBMW735iの中古品である。それにいろいろ手を加えた。オートマチックをマニュアルに替え、ギヤ比も日本用の道路事情に合わせるようにした。サスペンションはまだ十分使えたが、オリジナルよりショックアブソーバーは減衰力が高いもの、スプリングも硬いものに交換した。これでドリフトがしやすくなった。改造はしたが、違法改造はしていない。いつ出しても車検は通過する、そんな範囲での改造だ。公道を走れない改造はしない。いくら改造ではないと言っても危険運転は違法に違いないのだが、ドリフトを危険運転と思っていない達造の信念は変わらなかった。
 
グリップでコーナーを曲がると言う奴は言わせておけばよい。そんな奴はコーナーでブレーキが早過ぎるのだ。その時点で勝負は決まったようなもの。ノーズを先に取られたらもう終わり、よっぽどじゃないと追い越せない。無理をすればクラッシュするだけだ。
 
以前、妻の車を運転していた時、カーブでタックインを起こしたことがある。慌ててアクセルを踏んだところ、FF車特有のアンダーステアが現れた。結果軌道が膨らみ過ぎて、クラッシュしそうになった。もちろんこれもドリフトではない。アクセルを戻すことによって起こるタックインはノーズが内側を向いてしまうこと、それだけだ。
 
どんなに運転が下手な人でもタックインは可能だ。カーブでアクセルを戻すだけだからである。しかし多くの人はノーズが内側を向いた時、アクセルを適度に踏み込むことをしない。その方がよっぽど危険なのだ。残念なことにFF車の特徴を理解している人は少ない。
 
BMWの車重は同じ大きさの国産車より重い。だが、達造にはそんな心配は無用だ。コーナーの立ち上がりでのトラクションのかかりはずば抜けている。これがFRの強みで、一気にパワーをかけられる。達造はAT車をマニュアルに改造した時点でESC(エレクトリック・スタビリティ・コントロール)を犠牲にした。横ブレ防止装置を外したことになる。外したことにより、横ブレはするが、テクでカバーでき、ドリフトがしやすくなったのだ。だが、国産車のコンパクトな車にはその取り回しのしやすさには及ばない。
 
後ろから誰かやって来た。
(86か?いやBRZだ。澄江の車と同じだな)
娘の澄江は12年製のBRZに乗っている。86はドリフト仕様で嫌だと言ってBRZにしたらしいが、実際は変わらないのではないか?と達造は思っている。
 
BRZが煽ってきた。
(?しつこいな。ふん、次のコーナーの立ち上がりでぶっちぎってやる)
BRZは十分ドリフトに慣れている。
(なんだ、奴のサスペンションは。ダンパーはどこのだ?海外製?)
バックミラーを見るとどうやら車高調整式ショックアブソーバーを装着している。やるな。だが、インを保っている以上こいつに抜けるわけがない。左のコーナーの出口でBRZは達造のバックミラーから消えた。
(右か?)
BRZは鋭い立ち上がりでBMWを追い抜いて行った。
(外側から抜きやがった。そしてその時のドライバーは確かに澄江だった。なぜ澄江が・・・)
 カーブを抜けた直線道路の左側ぎりぎりにBRZは駐車していた。達造もその後ろに車を停止した。澄江が降りてきて、
「お父さん……」
「お前だったのか。分からなかった」
「最後にお父さんの走りを見ておこうと思って」
「そうか…。澄江、お前速いな、どこで覚えた」
「直線ではお父さんに負けるけどね、コーナーで一度お父さんと勝負してみたかったの」
「嫁入り前の娘がする事じゃないな」
「うん、今日でドリフトは卒業する」
「俺も今日がそのつもりだった」
「なんで?」
「うむ。それより澄江、あれは、あれはお前がやったんだろう?」
「あれって何」
「つまり……紀伊子だ」
「お母さんを何?」
「やってないのか」
「やるって、殺(や)るってこと?お父さんが殺したんじゃないの?私じゃない。お父さんはずっと私を疑ってたの?」
「なぜ紀伊子の遺体を埋めた?」
澄江は少し涙ぐんだ。
「私はまだ中学生で、学校から帰ってお母さんの頭から血が流れて、もう亡くなっていたの。私はお父さんだって確信した」
「だから俺に疑いがかからないように庭に埋めたのか」
「うん。本当にお父さんじゃないんだね?」
「俺はてっきりお前だと思っていた。庭に埋めたのもお前だと分かっていたから」
「じゃあ真犯人は誰かしら」
「それは分からん。押し入り強盗かもしれん。お前でないことが分かって安心した。これで胸を張って嫁に出せるよ」
達造は悲しい目を澄江を見て2度頷いた。
「ありがとう」
と、澄江は言った。
達造はもう澄江と話すこともないだろうと思った。最期に話せて良かったと安心した。
(澄江、これから起こることは事故だ。後で妙な詮索はするんじゃないぞ)
BMWはゆっくりと発車し、順番にしなやかにトップにギヤチェンジした。すぐに最高速度に達した。300km/hは出ているだろうか、下りの緩いカーブだし、リミッターを外している以上考えられなくもない。
 
300km/hで思い出した。ランボルギーニは曲がれないという伝説。おそらくサスペンションに問題があると思われるが、日本の旧ハチロク(AE86。1983~当時カローラレビン・スプリンタートレノ16バルブ4A-GEUエンジンのNA)のほうがダウンヒルに限るがコーナーは速い。当時のフェラーリも同じだと思っている。でもそんなことはどうでもいい。
(何キロ出ていようが構うことはない。俺が間違っていたのだ。彼女は自殺した。正しくは最終的には俺が殺した。自殺を幇助したといった方が正しいのか)
 しかし、達造が遺体を見つけ、掘り返したとき、まだ紀伊子の息は微かながらあった。紀伊子は俺にしか聞き取れない声で「このままわからないように埋めなおして…」と言った。10年前、澄江と紀伊子に何があったかはわからない。何らかの諍いか不意な事故とか…。それも今となっては真相を突き止めようとは思わない。
  
(澄江、幸せになれよ。おまえにとって、はなむけになればよいが)
達造は心底思った。そして次の行動に出た。リミッターを外して250Km/hは出ているだろう左のコーナー。右は崖。ブレーキは踏まずクラッチを抜くだけ。スロットルは開けたまま2速。スライドはゆっくり発生する。その滑りを感じながらカウンターをあてる。完璧な慣性ドリフトだ。アクセルを緩める。自動的に右の崖にノーズは向く。
 達造を乗せたBMWは消えた。 

 はなむけは、近親者が遠方に旅立つときに、旅の安全を祈って、馬の鼻先を行き先の方向に向けた習慣から「馬の鼻向け(うまのはなむけ)」という言葉が生まれ、短く略された。『土佐日記』『古今和歌集』『伊勢物語』など、平安前期の文献にもこの表現はみられる。

(終)