掌編な小説

愛と死を題材としたものだけを載せました。感想をいただければ幸いです。長編は苦手。少しずつですが、続きを書いていきます。

無限ループ

2007年05月06日 | 掌編小説

 気がつくとベッドの上だった。どうやらここは、病院の一室らしい。
 私は、慎重にゆっくりとした動作で辺りを見回した。というより、自分の体を思い通りにすばやく動かすことができない。ぐったりと、体が弱ってしまっている。
 どうしてこの場所にいるのかさえわからない。まるで記憶がないのだ。
(交通事故にあったのだろうか。それにしては外傷がない。骨も折れていないようだ)
 私は、自分の体のあちこちを手で触れてみたが、体が弱っていること以外はどこにも異常はなかった。
(自分の名前さえわからない始末だ。いったいどうしてこうなってしまったのだろう。誰かに鈍器のようなもので殴られて、気を失い、病院に担ぎ込まれてしまったのかもしれない。頭がぼーっとしているのもそのせいなのか。あるいは、何か精神的衝撃{ショック}が原因で記憶喪失に陥ったのではないだろうか)
 現実として想像できるあらゆる可能性を求めて、私の大脳皮質と脳幹の中の物質を活性化させた。私は何とかして、自分を取り戻したかった。何でもいい、何か自分が自分である証拠が欲しい…。
 そう思っているところに、ドアにノックの音がした。
 看護師だった。
「根本さん、おはようございます。検温のお時間です」
 彼女は無造作に体温計を私に渡す。
「何かお変わりありませんか?」
 化粧の濃いその看護師は20代だろうか30代にも見えるような感じだった。彼女の様子からすると、私は昨日今日、この病院に担ぎ込まれたのではなさそうだ。
「あの……」
 と言いかけて、私は話すのを止めた。
(まてよ、ここで自分はどういう理由でこの場所にいるのか、つまりどんな病気で入院しているのか、彼女に聞いたとしても、『回診の時、主治医の先生に直接聞いてください』とかなんとか言って、適当にあしらわれるかもしれない。それからもしかして、私の記憶がなくなったことを大騒ぎして、脳波検査だの、CTやMRI、電気ショック治療だのと仰々しくされるかもしれない)
 私はそういうことが嫌なのだ。できるなら、自分自身で人知れず記憶を取り戻したい。
(そういえば、彼女、私のことを『ネモトさん』と呼んだっけ。これで苗字はわかった。せめて下の名前だけでも聞き出せないものだろうか。自分が記憶を失っていることを悟られずに…)
「病院勤め大変ですね。ここ、長いんですか?」
「え? 何言ってるのよ、やあね根本さん、私、昨日が初日って言ったじゃない。まだぼけるの早いわよ。それとも記憶喪失症にでもなっちゃったの?」
 心臓をえぐられたような言葉だった。が、私は努めて笑って、「この病院の看護師さん多いし、みんな白衣だから同じように見えるんですよ」といって、誤魔化した。
 彼女が病室から出て行った後、今の会話の中に、あまり収穫になるようなことがなかったことに、落胆を覚えずにはいられなかった。
 どれくらい時間が経っただろうか。
「根本さん」
 振り向くと、白衣を着た男が立っていた。彼の右側のポケットに聴診器らしきものが見える。顔つきは40代の、内科医らしい繊細さがある。この人が私の主治医だろう。
 「どうです? 体の具合は。何か変わったことはないですか?」
「ええ、まあまあです」
 私は曖昧な返答しかできない自分に、多少の腹立たしさを感じながらも、何か自分を知るきっかけを探していた。
「薬はちゃんと飲んでいますか?」
「薬? あ、はいなんとか…」
(ここはなるべく話を合わせておいたほうがいいだろう)
「そうですか……、実は根本さん…」
 彼は深刻な表情を呈した
(薬って、何か重病の薬を貰っているんだろうか)
 私は妙な胸騒ぎを感じずにはいられない。それと同時か、少し後ぐらいか、記憶を取り戻すきっかけをつかんだ。それはこの医師の言葉--『実は根本さん』という重厚な響きによってもたらされた。
そうか、この台詞、この風景、この状況、今までに感じた妙な雰囲気が、昨日の主治医との会話を思い出させた。

 「どうやら胃潰瘍ができているようですね」
 「はあ」
 入院が必要ですが、でも安心してください。以前は外科手術 で潰瘍部位を切除して治していましたが、現在は内服薬で完 全に良くなるんですよ。ピロリという菌が原因であることが わかってきたんです。
  医師は自身に満ちた顔で、説明を続けた。
 「では白い錠剤を処方しておきましょう」
 「わかりました」

 というわけで、昨日からこの病院に入院しているのだった。私は記憶を取り戻したことに、ほっと一安心したのも束の間、今現在目の前で、主治医は真剣な表情で、「実は根本さん」と言っている。昨日よりももっと重い口調だ。
 例えようもなく押し寄せてくる危惧の念。そしてそれは、徐々に現実みを帯びて、私の人生をも飲み込んでしまうほどの怪物が襲ってくるような圧迫感だった。そんな弱い自分に憤りを感じる間もなく、やがてそれは恐怖心に変わっていった。
「実は根本さん、昨日あなたに胃潰瘍だと言いましたね。うちの病院の内科医全員で話し合い、協議した結果、やはり本人に本当のことをお知らせした方が言いという決論に達したのです」
「それで?」
 私は平静を装うことに必死だった。
「胃潰瘍ではなく、胃噴門部に癌細胞が認められました。
 やはり癌だった。私の不安と恐怖は当たっていたのだ。夢であってくれと願った。いくら素人でも癌の知識ぐらい多少はある。こんな形で自分の癌の宣告を受けようとは……。なんで患者が願ってないものを勝手に宣告するんだ。そういうのを医者の身勝手というものだ。といってももう遅い。
「決して悲観なさらないでください。根本さんの場合、治癒する可能性は非常に高いのです。薬物療法を行えば、必ず良くなると思います。決して不治の病ではないということを信じて頑張ってください」
 それだけ言って、医師は病室から出て行った。病室にぽつんと一人残された私は、いろいろなことが頭の中を駆け巡った。
(『決して不治の病ではないことを信じて--』か……。それじゃあまるで、不治の病だってことを言っているようなものじゃないか)
 考えていたら頭がくらくらしてきた。
 やがて気を失う。
 気がつくとベッドの上だった。どれくらい気を失っていたのだろう。体が思うように動かない。どうしたことだろう。しかも記憶がない。名前すら思い出せない。
 やがて看護師が部屋に入ってきて、無造作に体温計を渡される。
「何かお変わりありませんか?」
「あの……」
 私は逡巡した。記憶を自分自身で取り戻したかったので。
 次に主治医が入ってきて、私に言った。
「実は根本さん…」
 この台詞、どこかで聞いたような……。
 そして私はこの台詞により、記憶を取り戻した。自分がどういう事態に陥っているのかを把握するのに、たいして手間はかからなかった。
(時間が過去へと戻っている。夢なのか? いや違う。このリアルさは何なのだ。やはり現実だ。だとしたら……)
 主治医は予想通り私に、「本当の診断名は昨日お話したのとは違うのです」と言った。
 ひょっとしてこれは……、自分ではどうすることもできない、次元を越えた、何か強大な力が私自身に加えられているんじゃないのか。きっとこれから何時間か経つと、私は気が遠くなってゆくだろう。そして気がつくと、またベッドの上に記憶のない自分がいるのである。
「無限ループだ!」
 と、思わず大声で叫んだ。病室の外まで聞こえたかもしれない。別に聞こえてもかまわない。そんなことはどうでもいい。ただ、この恐怖と、不安と、焦燥が混乱している心の中で、私はこの現実にどう対処していいか、見出せずに、おろおろするばかりだった。
 私はある一定の狭い時間と空間の中を永久にさまよう、生ける屍のようなものだ。
 そうしているうちに、気が遠くなりかけた。
(嗚呼、また記憶のない時の自分に戻るのか……)
 失神と同時に過去への時間旅行が必然的になされるのだ。それが何度も何度も、永遠に繰り返されてゆく…。
 希薄になりつつある、朦朧とした意識の中で、主治医とその同僚だろうか、医師達の会話がかすかながら聞こえてきたのは、失神する一歩手前だった。
「やっぱり副作用が出たな」
「ああ、あの抗癌剤は副作用として精神症状が出やすいからな」
「看護師の話だと、無限ループがどうのこうのって叫んでたらしいぜ」
「参ったなあ、でもあの抗癌剤の投与を中止したから、放っておいてもいいよ。しかし、誤診だとわかったときはビビったぜ。一昨日、最初はてっきり癌だと思って、告知すべきか迷い、胃潰瘍だと嘘をついたんだ。で、昨日は考え直して癌だと告知したんだが、結局今日それを胃潰瘍だと言いなおさなくちゃならなかった。まったく嫌になるよ、これで病名訂正3回目だぜ」
「でも良かったじゃないか、本人は納得してくれたんだから」
                         (終)



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