掌編な小説

愛と死を題材としたものだけを載せました。感想をいただければ幸いです。長編は苦手。少しずつですが、続きを書いていきます。

ラベンダー畑に死す

2007年05月11日 | 掌編小説

 日々の生活の中に、訳もなくやってきて、歓迎されるはずもない退屈や、湿った空気の中から湧き出たような物憂い心の状態を倦怠症候群(アンニュイ・シンドローム)と呼んでいる。
 これは同じ憂鬱な状態の、曇り空の時のように何もかもが沈んで見えるような症状、鬱症候群(メランコリー・シンドローム)とは区別されている。
 ここに、愚にもつかない物語を述べることを許してもらえるなら、私の過去の真実を少しだけ語らせてもらえないだろうか。それはあなた方にとって、これから生きていくうえで、何の参考にもならないかもしれない。糧と呼べるものでもない。ひとりよがりだと嘲られるに相違ない。
でも、どうしても誰かに伝えたくてしょうがない。なぜなら、それは今、退屈だから…。

 もしあの時、彼女と富良野のラベンダー畑で出会わなかったら……。
 このごろよく思い出に耽る。思い出に縛られて生きる毎日が、惨めだと軽蔑さえしていた若い頃よ--あれから30年も経った。
 夏の淡い風に揺れる髪に似て、甘い香りのする追懐の日々は、彼女の本心を決めつけていた時のイメージを優しく蘇らせる。
 私は私の心の中で、彼女のイメージを育ててきた。ほら、誰にでもあるだろう? 小学校の時なんかにいた好きな異性を、大人になってからもすばらしい人になっていると信じていたい--。
 富良野の写真を見るたび、彼女との出会いを思い出さずにはいられない。歳のせいか、つい昨日のことまでも思い出せないのに、昔のことははっきりと覚えている。私はあれから彼女のことをずっと心の中に閉じ込めていた。
 私はこの匂いが好きだ。嗅ぐとしばらくの間浮遊感に浸れる。ラベンダーの匂い物質には、ラベンダーアルカロイドという麻薬に似た成分が含まれていると聞いている。そんな理由によるものなのかもしれない。
 私が高校生の時、夏休みになると、よくひとりで富良野に出かけた。辺り一面の紫の丘陵を見る為だ。畑の中の畦道{あぜみち}をひとりで歩くのが好きだった。富良野は観光客が多い。そこは私の秘密の場所のようなもので、ほとんど観光客の来ない、穴場のようなラべンダー畑である。
 その場所は、上富良野の外れにあった。
 ある日歩いていると、畑の中で見え隠れする人影を発見した。
 あの時の彼女は、麦藁帽子を被っていた。ラベンダーの隙間から突然現れた妖精と言ったら言い過ぎであろうか。深く帽子を被っていたので、顔の下部分--鼻と口辺りぐらいしか見えない。疲れているのか、丁度畦道の少し盛り上がった部分に腰を下ろしている。
 入院先の病院から、今しがた抜け出してきたような白い肌、細い腕や脚。彼女は痩せていた。それでも、女性としてふくよかな部分は持ち合わせている。大人の女性だ。私が横目で見ているのを気付かれまいと通り過ぎようか、会釈ぐらいはしとこうか、躊躇していた。
 彼女は、柔らかい風に逆らわぬように麦藁帽子を脱ぐと、
「どちらからの訪問者かしら?」
と、親しげに話しかけてきたのは彼女の方からだった。
「札幌」
「そう、本土の人かと思った」
「ホンド? 007、ジェームス…」
「それはボンド!」
「ええと、じゃあ大木…」
「オオキ? ああ、それは大木凡人」
彼女は少し笑ってくれた。その笑顔は、とても年上とは思えない可愛らしさを演出させた。
「本州のこと。昔は内地って言ってたそうだけど…。おかしいでしょ?
北海道も同じ日本なのに。でも、私には遠い所よ」
「どうして?」
「君には近くても、私には遠いのよ」
 17歳だった私には、子供のせいか、意味がよくわからなかったが、それは多分、彼女が大人(23~4歳ぐらいにみえた)だからなのだろうと、その時は思った。
「ラベンダー畑によく来るの? 私も時々来るの。近くよ、上富良野」
「そうなんですか」
「ラベンダーはね、匂いが強いから少し嗅ぐのがいいの。吸い込み過ぎたらだめ」
「へー、知らなかった」
 他にもとりとめもない会話を交わした後で、彼女は「薬の時間」だと言って、缶のお茶で白いカプセルを飲んだ。
「何? それ。病気なんですか?」
「抗癌剤」
「え?」
「……本当は違うの。抗癌剤のプラセボ(偽薬)よ」
「プラセボ…?」
「そう、形はそっくりだけど、カプセルの中はラクトース(乳糖)。私、胆癌なんだけど、末期なのよ。だから本物の抗癌剤処方したって同じことだから、プラセボでいいみたい」
「どうしてそんなこと知ってるって…、いやそんなことよりも、どうしてそんな大事な事、僕に、初対面なのに、話してくれるんですか?」
「そうね、どうしてかしら。今まで他の誰にも話さなかったのに…。きっとこの暖かい日差しと、柔らかい風に乗ったラベンダーの香りのせいなんでしょう」
「それ、かなりキザですね」
二人は互いに笑った。笑える筈がないのに笑った。
 それが二人の出会いだった。年上の女と年下の男の付き合い(こんな下賤な言い方は似合わないだが)は、そんな風にはじまったかのように思えた。
 ひとしきり話した後、彼女は言った。
「じゃ私、今日はこれで」
「明日もこの畑来る?」
「うん、来るわ」
「僕も来る」
そういって、彼女はまた来た畦道を帰って行った。
 私は彼女のゆっくりと歩く後ろ姿を見送った。
 次の日、同じ場所で待っていたが、彼女は現れなかった。その次の日もまた次の日も行ってみたが、私は二度と彼女と会えなかった。
 半年後に私は噂を聞いた。彼女はICU(集中治療室)に入り、何人もやってくる見舞い客の雑菌に感染し、息を引き取った。死因は肺炎による呼吸停止だと。
 生命の終局はあっけなく、生の余韻のかけらもないという。でも、私にはあの瞬間が、何年も新鮮な記憶として残った。


  あれから30年後の今、私は思う。彼女の死は殺人ではなかったのか。あるいは業務上過失による致死なのか。プラセボについては知っていない事がないくらい調べた。プラセボ効果は、本人が投与されることを知っていてはまったく効果を示さない。何らかの形で彼女は自分に投与されている事を知り得たのであろう。
 医師は、もう末期だから彼女にプラセボを処方したのであろうか、もう一つの可能性は治験である。末期癌だから、新薬に対する比較の為のプラセボ投与群のデータが欲しかったのか。
 いずれにしても、患者に知られるなんて、これは殺人に匹敵する行為だ。
 そんなことを考えていると、また倦怠が襲ってくる。どうすることもできず、幾度もラベンダー畑の写真を見ては、思い出に耽る。
                        (終)

注:ラベンダーは麻薬成分を含みません。ラベンダーアルカロイドという
物質も存在しません。


無限ループ

2007年05月06日 | 掌編小説

 気がつくとベッドの上だった。どうやらここは、病院の一室らしい。
 私は、慎重にゆっくりとした動作で辺りを見回した。というより、自分の体を思い通りにすばやく動かすことができない。ぐったりと、体が弱ってしまっている。
 どうしてこの場所にいるのかさえわからない。まるで記憶がないのだ。
(交通事故にあったのだろうか。それにしては外傷がない。骨も折れていないようだ)
 私は、自分の体のあちこちを手で触れてみたが、体が弱っていること以外はどこにも異常はなかった。
(自分の名前さえわからない始末だ。いったいどうしてこうなってしまったのだろう。誰かに鈍器のようなもので殴られて、気を失い、病院に担ぎ込まれてしまったのかもしれない。頭がぼーっとしているのもそのせいなのか。あるいは、何か精神的衝撃{ショック}が原因で記憶喪失に陥ったのではないだろうか)
 現実として想像できるあらゆる可能性を求めて、私の大脳皮質と脳幹の中の物質を活性化させた。私は何とかして、自分を取り戻したかった。何でもいい、何か自分が自分である証拠が欲しい…。
 そう思っているところに、ドアにノックの音がした。
 看護師だった。
「根本さん、おはようございます。検温のお時間です」
 彼女は無造作に体温計を私に渡す。
「何かお変わりありませんか?」
 化粧の濃いその看護師は20代だろうか30代にも見えるような感じだった。彼女の様子からすると、私は昨日今日、この病院に担ぎ込まれたのではなさそうだ。
「あの……」
 と言いかけて、私は話すのを止めた。
(まてよ、ここで自分はどういう理由でこの場所にいるのか、つまりどんな病気で入院しているのか、彼女に聞いたとしても、『回診の時、主治医の先生に直接聞いてください』とかなんとか言って、適当にあしらわれるかもしれない。それからもしかして、私の記憶がなくなったことを大騒ぎして、脳波検査だの、CTやMRI、電気ショック治療だのと仰々しくされるかもしれない)
 私はそういうことが嫌なのだ。できるなら、自分自身で人知れず記憶を取り戻したい。
(そういえば、彼女、私のことを『ネモトさん』と呼んだっけ。これで苗字はわかった。せめて下の名前だけでも聞き出せないものだろうか。自分が記憶を失っていることを悟られずに…)
「病院勤め大変ですね。ここ、長いんですか?」
「え? 何言ってるのよ、やあね根本さん、私、昨日が初日って言ったじゃない。まだぼけるの早いわよ。それとも記憶喪失症にでもなっちゃったの?」
 心臓をえぐられたような言葉だった。が、私は努めて笑って、「この病院の看護師さん多いし、みんな白衣だから同じように見えるんですよ」といって、誤魔化した。
 彼女が病室から出て行った後、今の会話の中に、あまり収穫になるようなことがなかったことに、落胆を覚えずにはいられなかった。
 どれくらい時間が経っただろうか。
「根本さん」
 振り向くと、白衣を着た男が立っていた。彼の右側のポケットに聴診器らしきものが見える。顔つきは40代の、内科医らしい繊細さがある。この人が私の主治医だろう。
 「どうです? 体の具合は。何か変わったことはないですか?」
「ええ、まあまあです」
 私は曖昧な返答しかできない自分に、多少の腹立たしさを感じながらも、何か自分を知るきっかけを探していた。
「薬はちゃんと飲んでいますか?」
「薬? あ、はいなんとか…」
(ここはなるべく話を合わせておいたほうがいいだろう)
「そうですか……、実は根本さん…」
 彼は深刻な表情を呈した
(薬って、何か重病の薬を貰っているんだろうか)
 私は妙な胸騒ぎを感じずにはいられない。それと同時か、少し後ぐらいか、記憶を取り戻すきっかけをつかんだ。それはこの医師の言葉--『実は根本さん』という重厚な響きによってもたらされた。
そうか、この台詞、この風景、この状況、今までに感じた妙な雰囲気が、昨日の主治医との会話を思い出させた。

 「どうやら胃潰瘍ができているようですね」
 「はあ」
 入院が必要ですが、でも安心してください。以前は外科手術 で潰瘍部位を切除して治していましたが、現在は内服薬で完 全に良くなるんですよ。ピロリという菌が原因であることが わかってきたんです。
  医師は自身に満ちた顔で、説明を続けた。
 「では白い錠剤を処方しておきましょう」
 「わかりました」

 というわけで、昨日からこの病院に入院しているのだった。私は記憶を取り戻したことに、ほっと一安心したのも束の間、今現在目の前で、主治医は真剣な表情で、「実は根本さん」と言っている。昨日よりももっと重い口調だ。
 例えようもなく押し寄せてくる危惧の念。そしてそれは、徐々に現実みを帯びて、私の人生をも飲み込んでしまうほどの怪物が襲ってくるような圧迫感だった。そんな弱い自分に憤りを感じる間もなく、やがてそれは恐怖心に変わっていった。
「実は根本さん、昨日あなたに胃潰瘍だと言いましたね。うちの病院の内科医全員で話し合い、協議した結果、やはり本人に本当のことをお知らせした方が言いという決論に達したのです」
「それで?」
 私は平静を装うことに必死だった。
「胃潰瘍ではなく、胃噴門部に癌細胞が認められました。
 やはり癌だった。私の不安と恐怖は当たっていたのだ。夢であってくれと願った。いくら素人でも癌の知識ぐらい多少はある。こんな形で自分の癌の宣告を受けようとは……。なんで患者が願ってないものを勝手に宣告するんだ。そういうのを医者の身勝手というものだ。といってももう遅い。
「決して悲観なさらないでください。根本さんの場合、治癒する可能性は非常に高いのです。薬物療法を行えば、必ず良くなると思います。決して不治の病ではないということを信じて頑張ってください」
 それだけ言って、医師は病室から出て行った。病室にぽつんと一人残された私は、いろいろなことが頭の中を駆け巡った。
(『決して不治の病ではないことを信じて--』か……。それじゃあまるで、不治の病だってことを言っているようなものじゃないか)
 考えていたら頭がくらくらしてきた。
 やがて気を失う。
 気がつくとベッドの上だった。どれくらい気を失っていたのだろう。体が思うように動かない。どうしたことだろう。しかも記憶がない。名前すら思い出せない。
 やがて看護師が部屋に入ってきて、無造作に体温計を渡される。
「何かお変わりありませんか?」
「あの……」
 私は逡巡した。記憶を自分自身で取り戻したかったので。
 次に主治医が入ってきて、私に言った。
「実は根本さん…」
 この台詞、どこかで聞いたような……。
 そして私はこの台詞により、記憶を取り戻した。自分がどういう事態に陥っているのかを把握するのに、たいして手間はかからなかった。
(時間が過去へと戻っている。夢なのか? いや違う。このリアルさは何なのだ。やはり現実だ。だとしたら……)
 主治医は予想通り私に、「本当の診断名は昨日お話したのとは違うのです」と言った。
 ひょっとしてこれは……、自分ではどうすることもできない、次元を越えた、何か強大な力が私自身に加えられているんじゃないのか。きっとこれから何時間か経つと、私は気が遠くなってゆくだろう。そして気がつくと、またベッドの上に記憶のない自分がいるのである。
「無限ループだ!」
 と、思わず大声で叫んだ。病室の外まで聞こえたかもしれない。別に聞こえてもかまわない。そんなことはどうでもいい。ただ、この恐怖と、不安と、焦燥が混乱している心の中で、私はこの現実にどう対処していいか、見出せずに、おろおろするばかりだった。
 私はある一定の狭い時間と空間の中を永久にさまよう、生ける屍のようなものだ。
 そうしているうちに、気が遠くなりかけた。
(嗚呼、また記憶のない時の自分に戻るのか……)
 失神と同時に過去への時間旅行が必然的になされるのだ。それが何度も何度も、永遠に繰り返されてゆく…。
 希薄になりつつある、朦朧とした意識の中で、主治医とその同僚だろうか、医師達の会話がかすかながら聞こえてきたのは、失神する一歩手前だった。
「やっぱり副作用が出たな」
「ああ、あの抗癌剤は副作用として精神症状が出やすいからな」
「看護師の話だと、無限ループがどうのこうのって叫んでたらしいぜ」
「参ったなあ、でもあの抗癌剤の投与を中止したから、放っておいてもいいよ。しかし、誤診だとわかったときはビビったぜ。一昨日、最初はてっきり癌だと思って、告知すべきか迷い、胃潰瘍だと嘘をついたんだ。で、昨日は考え直して癌だと告知したんだが、結局今日それを胃潰瘍だと言いなおさなくちゃならなかった。まったく嫌になるよ、これで病名訂正3回目だぜ」
「でも良かったじゃないか、本人は納得してくれたんだから」
                         (終)


二度目のさよなら

2007年05月06日 | 掌編

 大阪府豊中市に蛍池{ほたるがいけ}という場所がある。
 その辺り一帯の地名になっているが、実際にはその名の小さな池が存在する。
 昔、普段は静かで、美しいその池が、毎年蛍の飛び交う季節になると、蛍狩りの家族連れなどで、小宴さながらの賑わいを見せたことから、蛍池と呼ばれたことは容易に想像はつくが、定かではない。
 阪急電鉄宝塚線蛍池駅は憐憫{れんびん}を誘うような小さな街の小さな駅だが、閑静な住宅街に接するように、その両端に線路を延ばしている。

 村崎雅昭が、藤原京子の家を訪ねるのは、10年ぶりのことである。今ではもう中年といってもおかしくない年頃だ。電車を降りて駅から申し訳程度の繁華街を過ぎると、蛍池があった。
(昔とちっとも変わってない…)
 と、彼は思った。
 夏の盛りへと向かう昼下がりは、雅昭にとって、汗が滲み出るほど暑く、歩く足下のアスファルトは、まるで融けかけているようだった。そして、また心苦しくもあった。その苦しさの中に、期待感のようなものがあることは否定できないけれども、それとは別に京子を訪ねなければならない理由もあったのだ。
 雅昭は京子の家に近づくにしたがって、しだいに足早になっていた。
 この10年間、雅昭は京子のことを忘れなかった。いや、忘れられなかった。京子に対して申し訳ないと思っていたせいもあったのかもしれない。そういった、贖罪の念が彼をしてそうさせたようだ。
 雅昭は、ちょうど10年前、京子とある約束をした。その約束をどうしても守りたかった。10年ひと昔というが、雅昭にとって、長いようで短い10年であった。

「10年経ったら、私を訪ねて来て」
「ああ、必ず行くよ。その時は君はもう結婚して、幸せな家庭を築いているかもしれない。」
「そうね、でもそれはあなたも同じよ」
「それでも会いに行くよ。約束だ」
「素敵ね、そんな約束」
「そうかなあ」
「そうよ、だって、お互い別の人と結婚するってわかっているのに、10年経って、昔の恋人と逢うなんて」
「それって不倫じゃないのか? 倫理に反することが素敵なのか?」
 雅昭は自分にも問いかけたつもりだった。
 その質問を京子は聞かないふりをしていたが、
「不倫じゃないわ、逢うだけで…」と、呟くように言った。
 それは雅昭にもわかっていた。
「お願い、絶対来て。私、もし結婚していたとしても、実家に帰ってるから」
「君の実家に行けっていうのか?」
「その時は、お父さんも許してくれると思うの」
「許す? 何を許すって言うんだ。俺は誰の許しも請わないよ」
「雅昭さん…」
 物憂げな雰囲気が二人を包んだ。大阪梅田駅前にある、丸ビルのホテルの一室で、最後の別れを惜しもうとしていた二人。誰もがそんな状況だったら、些細なことで喧嘩などしないだろう。しかし、雅昭にとって、京子の言ったことは、そんな些細なことではなかった。
 京子は、悲しそうな目をしたが、すぐに自分の言ったことを悔やんだ。
「ごめんね、悪かったわ。お父さんのこと持ち出して」
「いや、俺の方が悪かった。君の気持ち考えないで」
 二人の抱擁は長く続いた。若く、そして熱い恋だった。

 雅昭はそれが優しさだと思っていた。互いを許し合える寛容さこそが優しさの真髄ではないか。そう信じて疑わなかった。
 一ヶ月経ち、二ヶ月経って、雅昭は仕事の忙しさに思い出を紛らわした。
 三ヶ月経つと、京子の面影が消えたように思えた。自分と別れることで、京子は幸せになれるんじゃないのか? しかもそれは京子の為だけじゃない。お互いの為に別れたんじゃないのか? 京子を忘れることで、京子が幸せになれるとさえ、自分自身に思い込ませ、そう信じ込む努力をした。そう言い聞かせることが、雅昭の唯一心のよりどころでさえあった。

 京子は、半年経っても雅昭のことが忘れられないでいた。忘れなければいけないのに、忘れられないことが、余計心の傷となっていつまでも残っている。それは半分父のせいだと、内心感じていた。
 京子は父と二人暮らし。父親は大阪府庁に勤める堅実な役人である。頑固な性格はいつまでたっても変わらない。むしろ歳をとる毎にわからずやになる一方である。
 京子が雅昭のことを父、藤原茂郎に話した時から、茂郎はうかない顔をしていた。
「だめだめ、どこの馬の骨ともわからん奴におまえをやれるかいな。ええか、おまえは藤原家の大事な一人娘や。婿をとれとは言わん。せめて俺の目に叶う男やないと結婚はさせられへん」
「村崎さんじゃだめなの?」
「だめにきまっとる。聞くところによると、今の仕事やめて、実家の九州に帰るそうやないか」
「なんでお父さんがそんなこと知ってるの?
「おまえには悪い思うたが、人をつこうて調べさせたんや」
「雅昭さんが帰るのはそんな理由じゃないのよ。お父さんが反対するから私たち…」
「そんなことあるかいな。そんな根性無しに娘を嫁がせる為に、この男手一つで育ててきたんとちがう」
 取り付く島もなかった。京子は、もう結論は出ているんだと自身に言い聞かせた。

 雅昭は藤原の家が見えはじめると、益々鼓動の激しさを増した。10年前は京子との密やかなデートの帰りに、よく家の前まで送って行ったものだった。そんな思い出が、否応なしに雅昭の心の中を過った。京子はもう忘れているかもしれない。今どき10年前二人で交わした、ただ会うという約束を覚えていて、実行する者がいるだろうか。いや、それでもいい。京子から素っ気ない顔をされて、「ああ、そうだったかしら」と言われるかもしれない。それでも、約束を雅昭は守りたい。そしてそのときはこのまま九州に帰ろう。
 家の前まで着くと、茂郎が玄関に立っていた。雅昭にとってはじめて見る、京子の父親の姿だ。彼は穏和な表情だった。
「君が村崎君か…、待ってたんや」
「え?」
 雅昭は聞き返した。
 待っていただなんて、二人だけの約束を京子は父親に話しているのだろうか…。
「君が来るのを待っていたんや」
 茂郎は復唱するように言い、その言葉遣いは優しかった。
 雅昭は、京子の父親が娘の以前付き合っていた男が訪ねて来たことに、多少なりとも驚愕を示し、自分と京子を会わせまいとして、何らかの妨害をすることはないにしても、快く思わないであろうということを、ある程度覚悟をしていた。その予想に反して、茂郎は稀有{けう}の出来事--見知らぬ訪問者に対して、歓迎さえしている。そのことは雅昭とって、戸惑いを示さないではいられない。
「あの、京子さんは…、いらっしゃいますか?」
 恐る恐るお伺いを立てるように訊いた。
「京子は……、京子は死んだよ」
「し、死んだ?」
「ああ、ちょうど9年前の今頃やった。君と別れて1年して、自殺した」
「え? 自殺…した…」
 雅昭は、体が震えて、茂郎の言葉を繰り返すことしかできない。
「一時は君の事を怨んだ。でも、今は怨んじゃいない。悪いが、京子が君宛に残した手紙を読ましてもろうた。今日これを君に渡す為にとっといたんや」
 そう言って、茂郎は雅昭に古い封筒を渡した。
「僕にですか?」
 雅昭がは封筒の中の色あせた白い便箋を取り出した。一目で京子が書いたとわかる、懐かしい特徴のある細い文字が目に映る。
 雅昭は茂郎に、『今ここで読んでいいですか?』と、目で訊くと、茂郎は頷いた。

『雅昭さん、元気ですか? あなたはあまり身体の強い人ではないから心配です。
 でもこうして、私の手紙を読んでくれている時のあなたは、ちゃんとあの時の約束を守って、来てくれたんですね。ありがとう。
 あなたと別れて一年になります。考えてみれば、いろんなことがありました。あなたとの出会い、父との確執、そしてあなたとの別れ。

あれから一年、私にとって、例えようもなく長い時間でした。
 私、何度もあなたに会いに行こうとした。雅昭さんの居所なんて調べること、造作もないことだから。

でも、それはしなかった。あなたは必死で私を忘れようとしているんだと思っていたから。私と別れることの方が、あなたは幸せになれる。そう思っていたから。
 私、これでもあなたを諦めようとしたんですよ。でも、それはできる筈はなかったのです。私の精神は空中を漂っています。

何年経っても私、きっと今のまま、あなたを愛し続けています。こんな気持ちであなたとの約束をどう果たせばいいのでしょう。一度はさよならを言った私たち。

いまさらこんなこと言っても、あなたは笑うでしょう。
 しかし、私はもうこの世にいません。この弱い私自身は、これ以上耐えることができなかったのです。結局、死を選んでしまった私を、九年後のあなたは許してくれるでしょうか。
 どうか、一人よがりで、わがままな私の死など、気になさいませぬよう、あなただけは幸せでありますように……。
九年後の雅昭様                  京子』

 雅昭は読み終えると、藤原氏に短く一礼し、走り出していた。便箋を持ったまま全力疾走した。倒れそうになって、どこへということもない、ただあてもなく歩き続けた。そして気付くと、いつのまにか蛍池の辺りに来ていた。日も暮れている。
 その時、何匹もの蛍が光を放ち、飛び交いはじめた。以前は蛍池でそんな光景を見たことはないほど多くの蛍だ。その中の一匹が雅昭の耳元に止まった。
「雅昭さん…」
 と、かすかに囁いたように聞こえた。
「京子?」
 蛍は依然止まっている。
「来てくれてありがとう」
 蛍はまたそう囁いた。
「京子なのか? 俺はおまえを愛していたのか?」
「ええ、この10年間二人は愛し合っていたわ」
「二人共?」
「だから今日で終わりにしましょう、私は今日を待った。そして、あなたも覚えていてくれて、今日を待って来てくれた。本当にありがとう。でも、今日で二人の恋は終わったの。私のことはいいから、あなたは新しい人生を歩んでください」
 そう囁いたように雅昭には聞こえた。
 それからその蛍はどこかに飛んでいってしまった。
 雅昭は草むらに跪{ひざまづ}き、人目など気にせず、大人になってはじめて子供のように大声で、しばらく泣いた。


 ひとしきり泣いた後、雅昭はすっと立ち上がり、京子の実家の方向に戻りはじめた。京子の父、茂郎に伝えなくてはならないと思った。
 誰でもない、京子を殺したのは俺だ。直接手を下してはいないが、精神的に追い詰め、俺が殺したようなものだ。自殺なんかじゃない。
京子はあの世で殺されたなんて思ってもいないだろう。人知れず、気付かず俺は京子を9年前に殺したのだ。
「でも……俺は京子を忘れるよ。京子はそうして欲しいんだろう?京子がそうして欲しいならそうする」
 小さくつぶやくつもりが大きな声になってしまった。
 暮れた空に向かって雅昭は泣こうとしたが、もう涙も枯れてしまい、何時間も蛍池にいた。

    (終)