ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

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知名度と実績が大幅に解離するのはアスリートとしても辛いところだと思う(本田真凛の引退)

2024-01-15 00:00:00 | スポーツ

フィギュアスケートの本田真凜が引退を発表しましたね。記事を。


本田真凜が引退会見「幸せな競技生活だったと思います」晴れやかな表情で語る
[ 2024年1月11日 14:06 ]

 フィギュアスケートの16年世界ジュニア選手権女王の本田真凜(22=JAL)が11日、都内で引退会見を開いた。
 約100人のメディア関係者が集まった中で、白いスーツに身を包んだ本田が口を開いた。「今シーズンをもちまして選手生活を終える決断をしました。たくさんの方に応援していただいたこと、本当にありがとうございました」と感謝の意を述べ、「スケートを始めてから今年で21年目になるんですが、こんなにも長い間、私のスケートに携わってくださったみなさんに感謝しています。見守ってくれたからこそいろんなうれしさに出会え、いろんな葛藤に向き合って乗り越えてこられた。私のこれまでの人生はどんな時を振り返っても全ての思い出にスケートがあります。幸せな競技生活だったと思います」と晴れやかな表情で語った。

 妹の望結、紗来とともにスケート一家として知られる本田は2歳から氷に乗り、ジュニア時代に頭角を現した。16年に世界の頂点に立ち、17年同大会でも平昌五輪金メダルのザギトワ(ロシア)に次ぐ銀メダル。一方で17年のシニア転向後は伸び悩み、モチベーションの低下にも苦しんだ。21~22年以降は日本連盟の強化指定選手から外れたが、明大4年で最終学年となる今季まで競技は続けると決めていた。

 昨年12月の全日本選手権はショートプログラムで最下位の28位(44・42点)。2年連続で上位24人のフリーに進めなかった。右骨盤を痛めた中での強行出場で、回転不足ながら3回転サルコーを着氷した。取材では今後について「お答えできることは今の時点でない」と話すにとどめていたが、5日に現役から離れることを所属事務所が発表した。

  ◇本田 真凜(ほんだ・まりん)2001年(平13)8月21日生まれ、京都市出身の22歳。5人きょうだい3番目の次女。2歳からスケートを始め、12年全日本ノービス選手権ではBクラスで歴代最高点を出して優勝。18年4月から関大高から青森山田高に編入し、1年ほど拠点を米国に置いた。明大4年在学中。全日本選手権の最高成績はジュニアながら出場した16年の4位。男子で世界選手権2連覇中の宇野昌磨(トヨタ自動車)と交際中。1メートル63。

上にもありますように、


昨年12月の全日本選手権はショートプログラムで最下位の28位(44・42点)。2年連続で上位24人のフリーに進めなかった。

ですからね。ご当人大学4年までは競技を続けるという意志だったとのことで、正直最後の2年くらいは、出るのもつらいというところがあったんじゃないんですかね。で、成績はしょうがないですが、上の記事にもあるように、


ジュニア時代に頭角を現した。16年に世界の頂点に立ち、17年同大会でも平昌五輪金メダルのザギトワ(ロシア)に次ぐ銀メダル。

というわけで、将来を嘱望されていたわけですが、その後は21年~22年シーズンから強化指定選手を外されるということになったわけです。相当本人も悔しかったはず。

で、それにもかかわらず自分が知名度が高く、マスコミでも大きく取り上げられるというのは、彼女にとって非常に苦しかったんじゃないんですかね。それで私が思い出すのが、ビーチバレーの浅尾美和ですね。彼女の引退の際に、私も記事を書いています。

浅尾美和の引退にちょっと思うところ

残念ですが、彼女は美人でスタイルがいいということが注目されましたが、実力はオリンピック出場に及びませんでした。が、彼女の場合実力よりもその美貌で事実上ビーチバレーの宣伝素材としての役割でしたからね。彼女の全盛期は、ほかはともかく浅尾の名前は知っていたという人も多かったはずで、正直彼女も、本来トレーニングしなければいけないときにグラビア撮影とかをしたわけです。一番ひどかったのが、北京五輪の際のレポーター起用でしょう。この時は相当にアスリートから嫌がられたらしい。それは当然な話で、彼女が取材に来たって多くのアスリートは不快なだけでしょう。てめえみたいに半分芸能人みたいな人間なんかと話ができるかと思われてもしょうがないでしょう。オリンピックに出るアスリートは、それこそ自分のいろいろなことを捨ててオリンピック出場を勝ち取ったわけですから。

もちろん本田は、そこまでひどいことはなかったとは思いますが、それでも芸能事務所(オスカープロモーション)に所属していた時代もあったというのは、あまりいい顔はされなかったかもしれません。JALに所属するという恵まれた立場であったことも、やはり実績とのギャップがあったはず。そして冒頭に掲載させたいただいた写真などでも彼女は笑顔です。どちらかというと、苦しさから解放された喜びがあるのでしょうね。本来彼女はもっと早く引退したかったのでしょうが、待ちに待った日というと厳しいかもですが、現役最晩年は、早く引退したいと考えていたのかもしれません。おそらく自分の知名度と実績のギャップに苦しんだのではないか。そういう点では、ほんと大変だったと思います。

彼女は今後プロスケーターとして活動するとのことですので、そちらの方が彼女ものびのびとできると思います。もう少し早く引退しても誰も何も言わなかったのでしょうが、でも彼女にとっては、学生の間は現役のアスリートであるということが、自分に課した最低の目標だったのでしょう。お疲れさまでした、今後も頑張ってくださいともうしあげてこの記事を終えます。なお上の写真は引用した記事より。下は、こちらより。昨年の日本選手権のSPでのものです。


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2 コメント

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Unknown (nordhausen)
2024-01-28 10:00:04
>本田真凜

知名度と実績が乖離したという意味では、浅田真央と共通するところがありますよね。ただ、早めに引退を決定しましたから、そういう意味では浅田よりも賢明と言えるのかもしれませんね。
返信する
>nordhausenさん (Bill McCreary)
2024-01-28 23:47:31
浅田真央も、最後のころは、もう引退すればいいのにという状況でしたね。
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