ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)

映画、旅、その他について語らせていただきます。
タイトルの由来は、ライプツィヒが私の1番好きな街だからです。

パリ五輪で期待したい美女アスリートたち(陸上競技編-4)

2024-06-30 00:00:00 | 美女探求(2024パリ五輪の美女たち)

本日は、中長距離で期待したい美女たちを。昨年の世界陸上800mの選手を。

英国のジェマ・リーキー(Jemma Reekie)。スコットランドの人。

痩せすぎかもしれませんが、私は好きです。

おなじく英国のキーリー・ホジキンソン(Keely Hodgkinson)。

英国人女性が美人とは思いませんが、彼女はレベルが高い。英国は、中距離は昔から強い国です。

ドイツのクリスティナ・ヘリング(Christina Hering)。

美人はもう1枚。

スロヴェニアのアニタ・ホルヴァット(Anita Horvat)。

スイスのロレ・ホフマン(Lore Hoffmann)。

リトアニアのガルビ・ガルヴィディテ(Gabija Galvydytė)。

スロヴァキアのガブリエラ・ガヤノワ(Gabriela Gajanová)。上でご紹介した英国のキーリーちゃんと。

フィンランドのエヴリーナ・マッタネン(Eveliina Määttänen)。

デンマークのアンネマリー・ニッセン(Annemarie Nissen)。

アイルランドのルイーズ・シャナハン(Louise Shanahan)。

ノルウェーのヘッダ・ヒンヌ(Hedda Hynne)。

スペインのロレナ・マルティン(Lorena Martín)。

イタリアのエレナ・ベロ(Elena Bellò)。

ウクライナのナタリア・クロル(Natalіia Krol)。

こちらは、旧姓ですかね。

ポーランドのアンゲリカ・サルナ(Angelika Sarna)。

おなじくポーランドのマルガリータ・コスズノワ(Margarita Koczanowa)。

ポーランドのアンナ・ヴィエルコシュ(Anna Wielgosz)。

オーストラリアのエリー・サンフォード(Ellie Sanford)。真ん中の人。

ブラジルのフラヴィア・デ・リマ(Flávia de Lima)。

ポルトガルのパトリシア・シルヴァ(Patrícia Silva)。

スペインのロレア・イバルザベル(Lorea Ibarzabal)。

おなじくスペインのダニエラ・ガルシア(Daniela García)。

ドイツのマイテ・コグバーク(Majtie Kolberg)。

染めているのかもしれませんが、金髪の女性はやはり映えます。

なお今回ご紹介した白人選手たちは、おそらく決勝に行くのは厳しい人が多いと思いますので、興味のある方は予選にご注目ください。

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パリ五輪で期待したい美女アスリートたち(陸上競技編-3)

2024-06-29 00:00:00 | 美女探求(2024パリ五輪の美女たち)

本日は棒高跳を。写真の大きさに他意はなし。

米国のケイティ・ムーン(Katie Moon)。

ベネズエラのロベリス・ペイナド(Robeilys Peinado)。

オーストラリアのニーナ・ケネディ(Nina Kennedy)。

スイスのアンジェリカ・モゼー(Angelica Moser)。

チェコのアマリエ・スヴァビコワ(Amálie Švábíková)。

米国のサンディ・モリス(Sandi Morris)。彼女も人気のあるアスリートです。

スロヴェニアのティナ・シュテイ(Tina Šutej)。

イタリアのエリザ・モリナロロ(Elisa Molinarolo)。

英国のモリー・コードリー(Molly Cauder

セクシーショットもあったので、もう1枚。

フランスのニノン・シャペル(Ninon Chapell)。

美人はもう1枚。

カナダのアリシャ・ニューマン(Alysha Newman)。

上に同じでもう1枚。さすが、すごい肉体。

カナダのアニカ・ニューウェル(Anicka Newell)。刺青を入れた女性は苦手。

デンマークのキャロライン・ボンデ・ホルム(Caroline Bonde Holm)・

ニュージーランドのイモゲン・アイリス(Imogen Ayris)。

もう1枚。

フランスのマーゴ・シェヴリエ(Margot Chevrier)。

おきれいな方はもう1枚。

フィンランドのエリナ・ラムペラ(Elina Lampela)。

ドイツのアンユリ・クネッシェ(Anjuli Knäsche)。

イタリアのロベルタ・ブルーニ(Roberta Bruni)。

ブラジルのジュリアナ・カンポス(Juliana Campos)。

ニュージーランドのオリヴィア・マクタガート(Olivia McTaggart)。

ベルギーのエリエン・フェケマン(Elien Vekemans)。

また次の競技でお会いしましょう。

 
 

 

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本日から台湾へ行ってきます

2024-06-28 00:00:00 | Weblog

この記事発表時点(6月28日午前0時)にはまだ日本にいますが、朝のうちに日本を出国して、早い時間に台湾におりたちます。コメント欄には対応できませんので、申しわけございませんが、水曜以降になろうかと思います。

無事に帰れましたら、水曜にあいさつの記事を書きますのでそれまで乞うお待ち。

 

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パリ五輪で期待したい美女アスリートたち(陸上競技編-2)

2024-06-27 00:00:00 | 美女探求(2024パリ五輪の美女たち)

では本日は跳躍系の競技を。走高跳です。写真の大きさに他意はなし。

走高跳オーストラリアのエレノア・パターソン(Eleanor Patterson)。以下走高跳の選手を。

走高跳ウクライナのヤロスラワ・マフチク(Yaroslava Mahuchikh)。

2人でのツーショット。

オーストラリアのニコラ・オリスラガース(Nicola Olyslagers)。旧姓マクダーモット。

セルビアのアンジェリーナ・トピッチ(Angelina Topić)。

キプロスのエレーナ・クリチェンコ(Elena Kulichenko)。名前からお分かりのように、ウクライナ出身です。

ウクライナのイリーナ・ゲラシュチェンコ(Iryna Gerashchenko)。

スロヴェニアのリオ・アポストロフスキ(Lia Apostolovski)。

カザフスタンのナデジーダ・デュボヴィツカヤ(Nadezhda Dubovitskaya)。カザフスタンは、ロシア系がわりと多いので、要注目です。

ドイツのクリスティーナ・ホンセル(Christina Honsel)。

美女はもう1枚。ドイツは、セパレートでなくこのようなレオタード風のユニフォームも使用します。

フランスのソレーヌ・ジケル(Solène Gicquel)。

フィンランドのエラ・ユンニラ(Ella Junnila)。

エストニアのエリザベス・ピヘラ(Elisabeth Pihela)。バルト3国の女性はものすごくレベルが高いと思います。金髪も多いことも要注目。あなたも金髪の女性好きでしょ!?

ベルギーのメレル・マース(Merel Maes)。こういうきりっとした顔、私わりと好みなんです。

ギリシャのタチアナ・グシン(Tatiana Gusin)。彼女もきれいな身体をしています。

チェコのミハエラ・ハルバ(Michaela Hrubá)。

リトアニアのアイリーヌ・パリシテ(Airinė Palšytė)。彼女もベテランです。無防備な姿がいい。

ルーマニアのダニエラ・スタンチュ(Daniela Stanciu)。

ドイツのヨハンナ・ゲーリング(Johanna Göring)。

オーストラリアのエリン・ショー(Erin Shaw)。すごい美人じゃん。

美女はもう1枚。

クロアチアのヤナ・コチャック(Jana Koščak)。本来彼女は七種の選手なのですが、なぜか昨年の世界選手権では高跳びにエントリーしていました(出場はせず)。

ラストは勝利の祝福? 左は、たぶんドイツのピア・メッシング(Pai Messing あるいはPia Meßing)。右は不詳。

きりがないので、今日はこれでやめます。次を乞うご期待。

 

 

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フランソワーズ・ドルレアックが亡くなって本日で57年目

2024-06-26 00:00:00 | ドルレアック姉妹(フランソワーズ・ドルレアックとカトリーヌ・ドヌーヴ)

フランソワーズ・ドルレアックがお亡くなりになったのが、1967年6月26日です。不慮の自動車事故によるものでした。長きにわたって彼女の特集をしていなかったので、しばらくぶりに写真をお見せします。大きさは、私がいただいたサイトのままです。

こういうことを書くとなんですが、フランソワーズ・ドルレアックって、ちょっと絶句するほどの美女という感もありますね。私もいろんな美女を写真や映像、肉眼でみていますが、その中でもちょっと別格にもほどがある美女だと思います。今度は、彼女の誕生日のあたりに写真を特集しましょうか。

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パリ五輪で期待したい美女アスリートたち(陸上競技編-1)

2024-06-25 00:00:00 | 美女探求(2024パリ五輪の美女たち)

先日次のような記事を発表しました。

パリ五輪では、アスリート美女の特集をまたやってみようか(東京の際は、五輪開催に抗議するため視聴もしなかった)

では前振りとして、いろいろな美女アスリートを発掘して本番に備えたいと思います。まずは陸上競技の美女たちを。なお名前の日本語表記は難しいので、表記は原則Wikipediaに名のある人はそれにのっとり、元のスペル(英語版Wikipediaにのっとります)も併記します。写真の大きさに他意はなし。またこの人たちが出るかどうかは当然未定ですので、そのあたりは乞うご容赦。今日は、400mの選手を中心に。

オランダのエヴェリン・サールバーグ(Eveline Saalberg)。

おなじくオランダのリーケ・クラヴァー(Lieke Klaver)。

さらにオランダのキャサリン・ピーターズ(Cathelijn Peeters

オランダのフェムケ・ボル(Femke Bol)。

オランダのリザンヌ・デ・ヴィット(Lisanne de Witte)。彼女はバックアップメンバーですかね。オランダは短距離が強くしかも白人の選手ばかりなので、私としても大喜びで特集しちゃいます。英国は強いが黒人ばかりで面白くない。この5人は、昨年の世系選手権で、4×400mリレーでの優勝メンバー。

ベルギーのハンネ・クラエス( Hanne Claes)。オランダ系ですね。美人とはこのような人です。スプリンター。

おなじくベルギーのエレーナ・ポネット(Helena Ponette)。

ポーランドのアリシャ・ヴロナ=クトルゼパ(Alicja Wrona-Kutrzepa)。

おなじくポーランドのマリカ・ポポヴィッチュ・ドラパワ(Marika Popowicz-Drapała)。

ポーランドのパトリシア・ヴィチシュキェヴィチ・ザワツカ(Patrycja Wyciszkiewicz-Zawadzka)。

ポーランドのナタリア・カチュマレク(Natalia Kaczmarek)。実はポーランドはわりと短距離が強く、しかも美女が多いので侮れません。読者の皆さまも乞うご注目。

フランスのアマンディーヌ・ブロシエ(Amandine Brossier)。

ドイツのルナ・ティエル(Luna Thiel)。彼女すごい美人ですね。ここは最高レベルに注目したいですね。

美人はもう1枚。

おなじくドイツのアリカ・シュミットAlica Schmidt)。彼女も美女アスリートとして知られます。私も彼女についてはいろいろ記事を書いていますのでよろしければお読みになってください。

すごい美女アスリート発見(アリカ・シュミット(Alica Schmidt))

本来だったら東京オリンピックで楽しめた(かもしれない)美女をご紹介(3)(ドイツの陸上選手アリカ・シュミットをまたご紹介)

ドイツの陸上選手アリカ・シュミットの美しい写真

アリカ・シュミット(Alica Scmidt)の美しい写真

おなじくドイツのカロリーナ・クラフツィク(Carolina Krafzik)。

ハンガリーのファンニ・ラパイ(Fanni Rapai,)。

チェコのテレザ・ペトルジルコヴァー(Tereza Petržilková)。チェコ人は美女民族なので、まったく侮れません。ついでながらに書くと、いまはともかく昔はヌードモデルなどにもたくさんのチェコ人がいて、めちゃくちゃ露出度の高いすごいモデルがいました。

これはおまけの写真。どういう趣旨で撮影されたかは不明。副業でモデルをやっている?

また跳躍系の種目などの美女たちをご紹介します。

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JR東日本廃線可能性最高路線紀行兼浜松弾丸紀行〈2023年10月)(4)(終)

2024-06-24 00:00:00 | フォトログ

「炭焼きレストランさわやか」の順番が来るまでまだ当分時間があるので、うなぎをいただきます。浜松に理由があってよく来ますが、この店で(「浜名湖うなぎ丸浜」(食べログにリンク))うなぎを食べるのが定番です。ただしほかの店もチャレンジしないとな。静岡県は、食べログの「うなぎ 百名店」2022が10軒選出されていまして、うち6軒が浜松市です。こちらの店は入っていません。また違う店で食べないとな。

ランチでは、うな丼は安く食えます。

白焼きと肝の煮つけをいただきます。最初の予定では、うな重と白焼きを食べる予定でしたが、食べすぎになるのとやや経済的に負担なので、本日は見送りました。

漁協の直営ですので安くいただけます。

それから時間と空間が若干ワープし、私の番が近づいたので、チェーンの店へ赴きます。

席に案内されます。

ドリンクをいただきます。

スープです。

竜田揚げも注文しました。

こちらのハンバーグです。

ライスの量も多い。

おいしくいただきます。肉は、わざと赤くしてあります。牛肉だからできる技。

会計の際、あめだったかな、いただきました。

小樽なると屋」は、北海道物産展ではよく出店しています。私も、「ミスはこだて」さんと会ったときや、地元小樽でもいただいています。なおリンクしたのは、「食べログ」です。ただ今回は、さすがに買うにいたりませんでした。

「第39代ミスはこだて」のお二人とまた逢った(彼女らと逢えるのも今回が最後)(田中樹里さんの巻)

北海道の旅(2020年8月~9月 Day1-3)(3)

小樽と札幌、地ビールの旅(2022年5月)(Day2-3)(5)

帰ります。お疲れさまでしたと自分でいってれば世話ありませんが、やっぱりそういう気がします。

(おわり)

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オーラル・ヒストリーの重要性と「やっぱり時間が経たないと証言がでてこないな」ということを痛感する

2024-06-23 00:00:00 | 社会時評

先日なかなか興味深い事実が報道されましたね。NHKの記事を、やや長いですが、1つ1つの記述が非常に貴重なので全文引用いたします。


オッペンハイマー “涙流し謝った” 通訳証言の映像見つかる
2024年6月20日 12時56分 

原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を流して謝った」と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかりました。専門家は「実際に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに聞いたというのは大きな意味がある」としています。

ロバート・オッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで原爆の開発を指揮した理論物理学者で、原爆投下による惨状を知って苦悩を深めたと言われていますが、1960年に来日した際は、被爆地を訪れることはなかったとされています。

今回見つかった映像資料は、1964年に被爆者などが証言を行うためにアメリカを訪問した際、通訳として同行したタイヒラー曜子さんが2015年に語った内容を記録したもので、広島市のNPOに残されていました。

この中でタイヒラーさんは、訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表でオッペンハイマーと面会した際の様子について「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。

面会については、被爆者の庄野さんも後に旧制高校の同窓会誌などで明らかにしたうえで「博士は私に『広島・長崎のことは話したくないのでかんべんしてほしい』と語りかけた。背負っている重荷をひしひしと感じた」などとつづっています。

核兵器をめぐる議論の歴史などを研究しているアメリカのデュポール大学の宮本ゆき教授は「実際に被爆者に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに聞いたというのは大きな意味があると評価したい」としたうえで「被爆者の願いはオッペンハイマーがことばに責任を持って核兵器廃絶に向かっていくことだったと思うが、面会後もそうした動きはなく、私たちに残された課題だと理解すべきだ」と指摘しています。

ロバート・オッペンハイマーとは 
ロバート・オッペンハイマーは、第2次世界大戦中のアメリカで、原爆の開発計画=「マンハッタン計画」の科学部門を指揮した理論物理学者です。

1945年7月に行われた人類初の核実験「トリニティ実験」を経て広島と長崎に原爆が投下され、アメリカでは戦争の終結を早めたとして脚光を浴びましたが、その後、被爆地の惨状を知り苦悩を深めていったと言われています。

1960年に来日しましたが、被爆地を訪れることはなかったとされていて、1967年に62歳で亡くなりました。

オッペンハイマーをめぐっては、原爆開発の過程などを描いた映画がアカデミー賞で7部門を受賞し、日本でもことし3月に公開されました。

タイヒラー曜子さんと庄野直美さん
今回の映像資料に証言を残していたタイヒラー曜子さん、旧姓・浦田曜子さんは通訳として被爆者の証言活動に同行しました。

ドイツに住む夫のウルリッヒ・タイヒラーさんによりますと、タイヒラー曜子さんは1964年の東京オリンピックで通訳を務めたほか、ドイツに移り住んだあともG7サミットといった要人が集まる国際会議などで通訳を担当したということです。

タイヒラーさんは、広島市で証言した4年後の2019年に亡くなりました。

オッペンハイマーと面会した庄野直美さんは、原爆投下のあと家族の安否を確認するため、広島市内に入り被爆しました。

理論物理学が専門で広島女学院大学の教授などを務めながら、長年にわたって原爆被害の研究や核兵器廃絶を目指す活動に取り組み、2012年に86歳で亡くなりました。

タイヒラー通訳が語ったオッペンハイマー
今回見つかった映像資料で、タイヒラーさんは面会に同行した際の自身の受け止めや面会の様子、それにオッペンハイマーの印象などについて次のように話していました。

「私自身がすごくまだ未熟だったので、重要性を個人としては当時認識していなかったと思う。オッペンハイマーというのは、マンハッタン計画の学者の中でも特に核の開発で重要な役割を果たした人で、核開発をしたこと自体、ものすごく後悔していた。被爆者に会った時に私は『同行してください』と言われて行ったわけだが、研究所の部屋に入ったその段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、そして『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった。会合の記録はたぶんないんだと思うし、重要性というのは私自身も分かっていなかった。その前に、トルーマン大統領のライブラリーに行った時に、トルーマンは被害者の人たちを前にして『これはアメリカが取った正当な行為だ』とあくまでも原爆を投下したことを正当化した。それはそれなりの論理があるんだろうと思うが、トルーマン大統領のことばとオッペンハイマーのことばの、この対比。これは私にとって重要な経験だった」

庄野さんとオッペンハイマー 面会予定記した資料も 
今回の映像資料が残っていた広島市のNPOを創立したアメリカ人女性が、帰国後に設立したウィルミントン大学の平和資料センターには、1964年に被爆者たちが被爆証言を行うためにアメリカなどを訪問した、「世界平和巡礼」に関連する複数の資料が残されていました。

このうち、訪問団のアメリカでのスケジュールを記した資料には「1964年6月に庄野博士がオッペンハイマーとの非公表でのアポイントのためプリンストンを訪れる」などと記されています。

また、訪問団のコーディネーターが面会の約束の2か月前にオッペンハイマーに宛てて書いた手紙も残されていて「庄野博士のアメリカ滞在中の1番の望みは、あなたと会って話すことだ」と記されています。

また、手紙には「面会は公式でもそうでなくてもあなたの裁量次第だ」という記述があるほか「公式な議論の場が設定されようとされなかろうと、庄野博士は個人的にでもあなたと専門分野の仕事について話し合いたいはずだ」とも書かれていて、庄野さんがオッペンハイマーとの面会を強く望んでいた様子がうかがえます。

広島市のNPO理事長 “被爆者が事実を知ることに価値がある” 
映像資料が残されていた広島市のNPO「ワールド・フレンドシップ・センター」の立花志瑞雄理事長は「原爆の開発に関わったオッペンハイマーが、国家のレベルを越えた一人の人間として、被害者への感情を表現したのではないか。広島・長崎の被爆者がその事実を知ることは価値があると思う」と指摘しました。

また、立花理事長は、アメリカを訪れた被爆者の希望で面会が実現したとみられることについて「今も多くの被爆者がさまざまな場に出かけて証言などの活動をしているが、その一つ一つが大切なんだと改めて感じさせられる。今回見つかった証言だけでなく、60年前に被爆者がアメリカなどを訪問して核兵器の廃絶を訴えたという事実も少しでも多くの人に知ってもらいたい」と話しています。

専門家 “核兵器廃絶が私たちに残された課題” 
倫理学が専門で、核兵器をめぐる議論の歴史などを研究しているアメリカのデュポール大学の宮本ゆき教授は「オッペンハイマーが実際に被爆者に会って謝ったことは驚きで、被爆者がじかに『ごめんなさい』ということばを聞いたというのは大きな意味があると評価したい」と述べました。

一方で「多くの被爆者の願いは、オッペンハイマーがそのことばに責任を持って核兵器廃絶に向かっていくことだったと思うが、残念ながらオッペンハイマーの1964年以降の取り組みを見ても、そうした動きはなかった」と指摘しました。

ただ、宮本教授はアメリカの状況について「アメリカには『核を持って武装しなければならない。核が私たちを守ってくれる』という核抑止論が根強くあるほか、当時は核の危機も高まっていたので、核兵器を開発した人が核兵器を否定することは難しかったと思う」と述べました。

そのうえで宮本教授は「オッペンハイマーが核兵器廃絶に向けて動かなかったのであれば、それは私たちに残された課題だと理解するべきだ。私たちが行動することで、オッペンハイマーの『ごめんなさい』ということばとの間を埋めていかなければいけないと思う」と指摘していました。

記事にもありますように、ロバート・オッペンハイマー博士(以下肩書・敬称略)は、1960年に日本に来ています。そしてこの時は、被爆地である広島と長崎へは訪問していない模様です。彼が最終的にどのような理由で広島・長崎を訪問することを見送ったのかはもちろん他人のうかがえるものではありませんが、彼が日本に来たら広島に行こうが行くまいが、どっちみち「どの面下げて来れるんだ」かそうでなければ「なぜ行かない。無責任だ」といわれます。どっちにしてもいい顔をされません。なおWikipediaから来日時の彼の発言を引用しますと、


1960年9月に来日した際に原爆開発を後悔しているかという質問に対して「後悔はしていない。ただそれは申し訳ないと思っていないわけではない」と答えた。ただし、この発言はFBIの監視下に置かれて以降のものであり、前述のような後悔の念が垣間見えるような発言を避けている。広島県・長崎県を訪れることはなかった。

とのこと。そうしたら、さっそく上の報道が紹介されていましたね(2024年6月21日の確認)。


被爆者が1964年に渡米した際にオッペンハイマーと面会した。彼は涙を流して何度も謝罪の言葉を述べたという。

というわけです。ところでオッペンハイマーと面会したのは、理論物理学者の庄野直美氏(男性)です。氏は、広島出身でしたが、当時九州帝国大学の学生であり、お亡くなりになった際は広島女学院大学の名誉教授でした。あるいはですが、物理学者としてより平和運動家としての知名度の方が高いかもしれません。Wikipdiaの記事は内容が薄いので、興味のある方は氏の訃報記事をご参照ください。当方庄野氏について知識がないのですが、たぶんそちらの方面では知名度の高い方なのでしょう。そして、庄野氏のオッペンハイマーとの面会は、おそらく氏の人生のなかでも最も心の動かされた瞬間ではないかと思います。

上のNHKの記事でも、庄野氏は旧制高校の同窓会誌でその時のことを書いているとありますので、この件がまったくのシークレットだったわけではないようですが、たぶんオッペンハイマーの号泣などはやはり庄野氏としても公にはしにくいものを感じたのでしょう。オッペンハイマーは1967年に亡くなっているので、それから45年の間庄野氏はご存命だったわけですが、それでもです。

で、すでにお亡くなりになっている通訳のタイヒラー曜子さんが、この話を2015年に話しているのがみそだと私は思うわけです。つまり2012年に庄野氏が亡くなった後だから、あえてこの話を記録する形で公表したということなのでしょう。ご存命だったらはたしてそれを話したかどうか。そしてこのタイヒラ―曜子さんの証言が、9年の時を経て発表された経緯というのも、彼女が2019年に亡くなったことがその1つの理由なのでしょう。おそらく記事でも紹介されている映画『オッペンハイマー』が今年公開されて、オッペンハイマーへの注目が一気に高まったということは当然の前提です。

なお記事中に出てくるタイヒラ―曜子さんの夫であるウルリッヒ・タイヒラ―氏は、日本でも著書が翻訳されています。

[高等教育シリーズ] ヨーロッパの高等教育改革 (高等教育シリーズ) (高等教育シリーズ 138) 

さて、庄野氏は、オッペンハイマーとの面会をエッセイのようなものでは書いたようですが、おそらくそれらの詳細は、人目に触れる形で活字(もしくはネットでもいいですが)発表されることはなかったかと思います。私的な場ではそういうことについての話もあったかもですが、なかなかそれらは外には出ません。が、今回は、その面会で通訳を務めた人がわざわざ公表したことですから信ぴょう性は高いでしょう。そしてその発言が映像で記録されているということは、これはまさに「オーラル・ヒストリー」というやつでしょう。当事者が書いてくれないのだから、そうなると「聞き取り」「聞き書き」「ライフヒストリー」とかの精神で、経験者・関係者に話をしてもらうしかないわけです。とくに体験者が近くにいる近現代史の研究にとってはなおさらです。

が、残念ながら、そして当然ながら、こういった話は、一定の時間が経たないとなかなか関係者も話をしてくれません。他人に迷惑がかかるということもあるし、やはりご当人がどうしても話したくないこともいろいろある。今回の証言も、通訳という第三者の立場である人からのものであるが故であるという側面があることは確かでしょう。

それでちょうどNHKで次のような番組が放送されました。


「遺(のこ)された声 〜女子学徒 100本の録音テープ〜」
初回放送日:2024年6月21日

沖縄戦に動員され、負傷兵の看護にあたった女子学徒たち。戦後に元学徒45人の証言を収めた大量の録音テープの存在が明らかになった。その声は今に何を語りかけるのか。

沖縄戦では10代の女学生およそ400人が動員され半数近くが亡くなった。生き残った元学徒が1980年代に体験を語った録音テープはおよそ100本。戦争前夜の青春の日々、病院壕の過酷な実態、死を覚悟したときのこと、戦後の苦悩…鮮明な記憶が語られている。録音したのは戦後沖縄を代表する写真家・平良孝七。証言に耳を傾け、ひとりひとりにレンズを向けていた。遺(のこ)された声と元学徒たちの肖像が問いかけるものは。

この証言テープは、だいたい1980年代に収録されたとのことです。ということは、1945年の受難から35年以上たってのものであり、そういった録音が容易になった時代背景もあるし、また時が経たないと、そういう話を第三者に語ることができないという側面もあるはず。たとえば最後の沖縄県官選知事だった島田叡などは、ご当人が死んだ後まもなくにでも関係者が真偽の怪しい話や片言隻句を大げさに書き立てて美化してくれるなどということすらありえますが、一般人はもちろんそんなことはないわけで、そうなるとオーラル・ヒストリーの強みが出てきます。文章を書くのが得意な人たちばかりでは(当然)ない。話をしてもらいそれを第三者がまとめる、書き起こしたり音声資料をそのまま活用することも可能でしょう。しかしそのためにはいろいろ時間もかかります。もちろん話は、政治や戦争といったものばかりではなく、例えば映画やスポーツの秘話などもご同様。やはり映画監督が亡くならないと、黒澤明大島渚の映画なども、細かいところまで論じきれないところがあるでしょう。存命の人物で言えば、山田洋次などもたぶんそうでしょう。長嶋茂雄に対して、本格的に彼の功罪もふくめて議論できるのは、やはり彼が死んだ後ではないか。彼(女)、上に上げた人たちには女性はいませんが、ともかくその人たちの関係者も、存命中は言いにくいこともあるでしょう。そう考えると、飯塚事件を扱った最近のドキュメンタリー映画『正義の行方』も、映画の中で証言している警察関係や、家族、ジャーナリストらや、映画でなくそれ以前の報道で取材に応じている人たちも、だいぶ昔の事件だから、すでに死刑が執行されているから(冤罪なら、これはとんでもない話ですが)という人たちも多いはず。

なお本日6月23日が沖縄戦における日本軍の組織的抵抗が終わった日とされていますので(日本軍の指揮官だった牛島満長勇が自ら命を絶った日。違う日という説もあり。最終的に決着したのは、日本軍が沖縄戦降伏文書に調印した9月7日)、本来なら旅行の記事を発表する日曜ですが、こちらの記事で更新します。旅行記事は、明日発表します。なお島田知事の関係では、下の記事もお読みいただけると幸いです。ほかにも沖縄戦に関する記事は複数発表しています。

沖縄県最後の官選知事である島田叡は、第32軍司令官牛島満らの推薦で知事になった?

また『歴史評論』2024年8月号は、オーラル・ヒストリーについて特集するのとのことですので、発売されたら私も目を通したいと思います。これは、bogus-simotukareさんの記事から知りました。いつもながら感謝を申し上げます。

新刊紹介:「歴史評論」2024年8月号

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JR東日本廃線可能性最高路線紀行兼浜松弾丸紀行〈2023年10月)(3)

2024-06-22 00:00:00 | フォトログ

前記事の翌日です。日曜は仕事があったので、夜に東海道本線に乗ってJR東海へ乗りうつります。JR東日本も、いいかげんこのような車両を導入しろです。

水をいただきます。

電光掲示板もあります。

浜松駅に到着します。青春18きっぷなら、超過料金を払うか、翌日分もスタンプを押すかしないといけませんが、秋のパスは、初日あるいは2日目でしたら、翌日分にカウントされるだけです。私の場合3日目にカウントされました。

さすがに閑散としています。

浜松駅近くの宿に落ち着きます。「コンフォートホテル浜松」です。ここも泊まったことがあります。

翌日の朝食です。コンフォートは、デフォルトで朝食がついているのがありがたいところです。ただ昨今だいぶ宿泊費が高騰しています。

ヨーグルトです。

チェックアウトして、街を散策します。

映画館へ。これもいかにも古典的なジェンダー概念のポップですね。「北極百貨店のコンシェルジュさん」だからしょうがないか。

映画を見て外に出ます。

いい天気です。

ちょうど北海道の物産展をしていました。前は、「ミスはこだて」の人が、このようなところに顔を出していたのですがね(浜松には来ていないと思いますが)。廃止されてしまってきわめて残念です。ただそれから次々に観光親善大使が廃止されたのも事実で、やはり定期的に新しい観光親善の人を輩出するシステムの維持が難しくなっていたのでしょう。

で、ここに何をしに来たかというと、ご当地ファミレスチェーンである「炭焼きレストランさわやか」の店舗(浜松遠鉄店)に来たのです。が、いつも込んでいるので、カードをもらいます。順番が近づくとまたここに来ようという寸法です。

(つづく)

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フランスの俳優(女優)であるアヌーク・エーメ(Anouk Aimée)が亡くなった

2024-06-21 00:00:00 | 美女探求

フランス人の俳優(「女優」とは原則書かないこととしています)であるアヌーク・エーメ (アヌーク・エメ、アヌーク・エメーとも。Anouk Aimée)が亡くなりましたね。記事を。


『男と女』でヒロインを演じたフランス人女優のアヌーク・エーメ死去
2024/06/18 20:19掲載(Last Update:2024/06/18 20:27)

恋愛映画の名作として語り継がれるクロード・ルルーシュ監督の『男と女』(1966年)でヒロインを演じ、またフェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)や『8 1/2』(1963年)、ジャック・ドゥミ監督の『ローラ』(1961年)などにも出演した、フランス人女優のアヌーク・エーメ(Anouk Aimée)が死去。彼女の娘がSNSで、アヌークが6月18日の朝にパリの自宅で亡くなったと発表しています。92歳でした。

アヌーク・エーメはパリ生まれ。両親がともに舞台俳優をしている家庭で育ち、ダンスを習い始めたのちに演劇講座にも通うようになる。1947年、14歳の時にスカウトされ、アンリ・カレフ監督の『密会』(1947年) で映画デビュー。詩人で脚本家のジャック・プレベールが彼女のために書いた『火の接吻』で注目され、1966年には『男と女』でヒロインのアンヌを演じ、アカデミー主演女優賞にノミネート。同作はアカデミー外国語映画賞などを受賞し大ヒットし、トップ女優の仲間入りを果たす。1980年には『Salto nel vuoto』でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞した。名実ともにフランスを代表する女優の一人であり、欧州を代表する女優の一人だった。私生活では4度の結婚と離婚を経験、3番目の夫は『男と女』の共演者でもあるピエール・バルーだった。

上の記事にもありますように、けっきょく彼女は、『男と女』につきますかね。この映画に出演したおかげで、彼女は永遠の女優に(失礼、俳優)なったと思います。やはり映画史に残る映画に出演した人は強い(当たり前)。

では彼女の写真を。

アルバート・フィニーと。結婚していた1970年代の写真。たぶん70年ごろ?

ラストは、やっぱり『男と女』から。パブ写真ですかね。実は彼女はユダヤ人だったので、ドイツ占領時代は非常に危険だったので田舎に逃げたりもしていました。

アヌーク・エーメさんのご冥福を祈ってこの記事を終えます。

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