【2】へ
結局二人はアルコールが飲める店には行かなかった。あゆみのリクエストで横浜に向かった。
「観覧車の見えるところで話したい」
やっとのことで、望みを口にしたあゆみ。野宮は彼女のためにおととしの桜の頃、二人で泊まった横浜のホテルに予約を入れた。
うろ覚えで部屋指定をしてみる。すると、ちょうど今夜そこが空いているという。二年前と同じツインの部屋に入り、ベランダに出て観覧車が人々に忘れ去られたようにゆっくりと回転するのを見守った。まるで世界をまわすねじ細工の金具のようだと思いながら。
ミニバーからアルコールを取り出して野宮はあゆみに渡した。
二人とも、大空を攪拌しながら観覧車の小箱が連なって視界をよぎる様を目で追った。
夜風は生ぬるい。もう夏が近いことを教えてくれる。
野宮はウイスキーを飲りながら、ベランダの手すりにもたれた。
あゆみは言った。ビールのほろ苦さが口の中に広がる。
「結婚って、もっと自分から遠いものだと思っていたんです。あたし。親戚とかきょうだいとかのお式には出てたんですが、自分の身近なともだちが結婚するのは、初めてで」
真山をともだちと表現するのは苦しい。でもそれ以外に当てはまる言葉が思いつかない。
「うん」
「でも真山から葉書が届いて、現実なんだなって。もういつまでも大学生じゃないんだなって。ひとりひとり、自分の道を進んでいかなくちゃいけないんだって知らされた気がして。……真山の結婚自体より、なんだかそっちのほうがショックだったような気がします」
数ヶ月先には、親友のはぐみと花本先生との結婚式が控えている。あゆみは花嫁の付添い人だ。
楽しみではある。心から祝福しているのは確かだ。
でも、
「リカさんと入籍したことより、そっちがショックなんて……へんですよね?」
風を含んで広がる髪を押さえながら同意を求めると、野宮は手すりに背中を預けて首を振った。
「分かる気がする。俺なんか同期がちゃくちゃくと身を固めてるしね」
事務所でのこってるのは山崎とかぐらいだよ。
あ、美和子さんてのもいるけど。野宮が付け足す。
「……いつまでもこのままでいられないっていう、ものさびしさに参った?」
そして、野宮はストレートにあゆみの心情を言い当てる。
「うん。そうなのかな。でもわからない。単に、うらやましいのかも。ないものねだりなのかも」
「素直だなあ」
思わず苦笑する。
「そんなことまで言わなくてもいいんだよ? 山田さん」
分かってるからさ。ちゃんと。
言わされてしまうんですとあゆみは心の中で弁解する。
野宮の前では取り繕えない。どんなに隠そうとしても気持ちを読まれてしまうのと同時に、素の自分が出てしまう。
「俺も大人になるってのはさびしさの数が増えることって思ってた時期もあった。昔」
観覧車の回転を眺めて野宮が続けた。
「クサイけどほんとに。でも、今はなんか違う気がしてる」
「……どう違ったんですか」
「それは――」
と言いかけて、野宮は口を噤む。感情を整理するため、ウイスキーを少し含んだ。そして、
「教えない」
「え、なんで?」
「くさいから。君がドン引きするの見えるから」
青春スーツを着込んだとはいえ、一抹の照れくささは残っている。
「えええ。そんな、そんなことないのに」
教えてください。あゆみは野宮に詰め寄った。
笑ってそれをいなして野宮は言う。
「君が俺のことだけ見てくれるようになったら教えてあげるよ。それまで、あそこの観覧車の中に封印だ」
あゆみは硬直する。
もしもそうなったら、君はその時点で答えを自分で見つけてるんだろうけど。
そんな台詞を心にしまって、野宮はあゆみを見つめた。
「さっき、えらかったな。事務所で」
「え?」
「真山の結婚祝い、自分も贈りたいって。……よく言えた」
ほめられ、あゆみの顔がくしゃりと歪む。
やだ。また泣いてしまう。
この人の前ではいつも涙ばかり見せてる気がする。もう泣きたくないのに。どうして。
あゆみはてすりに置いた腕に額を押し当てた。ビールがわずかにこぼれ服をぬらしたが気に掛けなかった。
「野宮さん、あたしね。それとは別に二人に自分の焼き物を贈りたい」
毎日使ってもらえるような、あんまし大きくない食器をこの手で作って焼くから。それをスペインまで届けたいの。
結婚おめでとうって、メッセージを添えて。
「外国に空輸ってどうすればいいのか知らなくて。……贈るの、手伝ってもらえますか」
涙声で言い切ったあゆみに、野宮は「もちろん」と答えた。
やさしくおおきな手が、後頭部にそっと置かれる。
髪を撫でられ、何度かくしゃっとされる。
あゆみの両の瞳から大粒の涙が連なって落ちた。
「……山田さんさ、前に、俺の言ったこと憶えてる?」
ふと話題を変えた野宮。あゆみが涙に濡れた頬を上げて彼を見る。
「どうしようもならなくなったら、俺を呼びなって。鳥取の駅で俺が言ったの。憶えてるかい?」
「あ、はい」
あのときのことを忘れることなんてできない。
あの日からこの男の人が、知り合いの建築デザイナーから特別な人に切り替わった。
「俺を呼ぶとどういうオプションがあるのか、今日教えてあげるよ」
やっとね。
そう言って、野宮は懐にあゆみを抱き寄せた。
男物のシャツに、頬を押し当てられる。
身体が、目に見えない何かに縛られたように動かない。あゆみは野宮のなすがままになった。
なのに、
「回し蹴りとかなしだよ」
牽制して耳元で囁くから、つい「し、しませんっ」と声を荒げてしまう。
野宮は短く笑って、「ほんと? あれもろ食らったら即死だからさ」と更に腕の中にあゆみを閉じ込めた。
あゆみは息を吸い込んだままは吐き出し方を忘れたように呼吸を止めた。胸が苦しいのは、胸が圧迫されているだけではないということだけは、かろうじて分かった。
「……一人で泣かなくていい。泣きたくなったらここで泣けばいい」
これからはずっと。
体温を通して初めて聞く野宮の声は。海の底から響いてくるように深みがあって。心を締め付けられるように切ないのに、ぜんぶつつまれ解かれていくような温もりに満ちていた。
あゆみは目をぎゅっと瞑った。何かが自分の中からあふれ出てしまわぬように。
野宮の心臓の鼓動が頬を打つ。それだけで、こんなにも泣きたくなるのはなんでだろう?
だめだよ。野宮さん。
こうされると、なんだかもっと泣きたくなる。
どうして?
答えを知っているのに、それにまだ手を伸ばしたくないような。複雑な想いがあゆみの思考を塞ぐ。
「男の胸で泣くの、初めて?」
野宮は、あゆみの肩をぽんぽんと宥めるように叩いた。
あゆみは身じろぎもしない。
野宮は口の端をほんの少し持ち上げて、「それは、光栄」と微笑を浮かべた。
観覧車の作動音と二人の呼吸の音が重なる。
あゆみの頭を顎の下に挟むようにして、野宮は彼女を包み込む。そのとき、くぐもった声が懐から聞こえた。
「……野宮さん。ゴメンナサイ」
「ん?」
異変を感じ、野宮が身を離す。
顔を覗き込むと、あゆみの顔色が変わっていた。
まっさおだ。
「な、ど、どうしたの」
「なんか気持ちわる……。限界超えた、かも」
おえっ。
あゆみが口を押さえ、えづく。さっきまで青かった顔が、真っ赤に転じている。
「うわ、大丈夫かっ」
野宮も血相を変えて、飛び退った。「は、早くトイレへ」ベランダの戸を開けて、あゆみの手を引いてユニットバスに連れて行く。
間一髪、間に合った。
おええええええ。
便座に屈み込んであゆみが派手に胃の内容物を戻すのを、野宮は遠いまなざしで眺めた。
……そうだよな。そううまくはいかないよな。
このお姫様相手には。
常套の口説きの手段なんて通用するはずがない。
ちょっと急ぎすぎた、かな。キャパオーバーだったか。
自分も膝をついてあゆみの背中をさすってやりながら、野宮は自己反省をする。
苦しそうに涙目ではあはあと息をするあゆみに、「水もってくるから口すすいで」と言って、バスルームを出た。
でも、まあ。一歩前進ではあるかな。
内心そう呟いた野宮を、窓の外から無人の観覧車が面白がるように見下ろしていた。
【第二章】へ
下記の題に従って、連作で書いて行きました。お題は「恋したくなるお題配布」さまからお借りしました。
01. 君の「ほんと」を知ってるよ
02. そういうトコも好きなんだけど
03. 押しても駄目なら引いてみる
04. その沈黙の意味は「Yes」?
05. 今日は離れてやらない
06. 言葉にしないけど分かってよ
07. ただ声が聞きたいだけ
08. 泣く一歩手前の顔をしてるのに
09. 何度でもこうして、ほら
10. ラスト・チャンス
「シロツメクサの花冠を君に」通販ページへ
結局二人はアルコールが飲める店には行かなかった。あゆみのリクエストで横浜に向かった。
「観覧車の見えるところで話したい」
やっとのことで、望みを口にしたあゆみ。野宮は彼女のためにおととしの桜の頃、二人で泊まった横浜のホテルに予約を入れた。
うろ覚えで部屋指定をしてみる。すると、ちょうど今夜そこが空いているという。二年前と同じツインの部屋に入り、ベランダに出て観覧車が人々に忘れ去られたようにゆっくりと回転するのを見守った。まるで世界をまわすねじ細工の金具のようだと思いながら。
ミニバーからアルコールを取り出して野宮はあゆみに渡した。
二人とも、大空を攪拌しながら観覧車の小箱が連なって視界をよぎる様を目で追った。
夜風は生ぬるい。もう夏が近いことを教えてくれる。
野宮はウイスキーを飲りながら、ベランダの手すりにもたれた。
あゆみは言った。ビールのほろ苦さが口の中に広がる。
「結婚って、もっと自分から遠いものだと思っていたんです。あたし。親戚とかきょうだいとかのお式には出てたんですが、自分の身近なともだちが結婚するのは、初めてで」
真山をともだちと表現するのは苦しい。でもそれ以外に当てはまる言葉が思いつかない。
「うん」
「でも真山から葉書が届いて、現実なんだなって。もういつまでも大学生じゃないんだなって。ひとりひとり、自分の道を進んでいかなくちゃいけないんだって知らされた気がして。……真山の結婚自体より、なんだかそっちのほうがショックだったような気がします」
数ヶ月先には、親友のはぐみと花本先生との結婚式が控えている。あゆみは花嫁の付添い人だ。
楽しみではある。心から祝福しているのは確かだ。
でも、
「リカさんと入籍したことより、そっちがショックなんて……へんですよね?」
風を含んで広がる髪を押さえながら同意を求めると、野宮は手すりに背中を預けて首を振った。
「分かる気がする。俺なんか同期がちゃくちゃくと身を固めてるしね」
事務所でのこってるのは山崎とかぐらいだよ。
あ、美和子さんてのもいるけど。野宮が付け足す。
「……いつまでもこのままでいられないっていう、ものさびしさに参った?」
そして、野宮はストレートにあゆみの心情を言い当てる。
「うん。そうなのかな。でもわからない。単に、うらやましいのかも。ないものねだりなのかも」
「素直だなあ」
思わず苦笑する。
「そんなことまで言わなくてもいいんだよ? 山田さん」
分かってるからさ。ちゃんと。
言わされてしまうんですとあゆみは心の中で弁解する。
野宮の前では取り繕えない。どんなに隠そうとしても気持ちを読まれてしまうのと同時に、素の自分が出てしまう。
「俺も大人になるってのはさびしさの数が増えることって思ってた時期もあった。昔」
観覧車の回転を眺めて野宮が続けた。
「クサイけどほんとに。でも、今はなんか違う気がしてる」
「……どう違ったんですか」
「それは――」
と言いかけて、野宮は口を噤む。感情を整理するため、ウイスキーを少し含んだ。そして、
「教えない」
「え、なんで?」
「くさいから。君がドン引きするの見えるから」
青春スーツを着込んだとはいえ、一抹の照れくささは残っている。
「えええ。そんな、そんなことないのに」
教えてください。あゆみは野宮に詰め寄った。
笑ってそれをいなして野宮は言う。
「君が俺のことだけ見てくれるようになったら教えてあげるよ。それまで、あそこの観覧車の中に封印だ」
あゆみは硬直する。
もしもそうなったら、君はその時点で答えを自分で見つけてるんだろうけど。
そんな台詞を心にしまって、野宮はあゆみを見つめた。
「さっき、えらかったな。事務所で」
「え?」
「真山の結婚祝い、自分も贈りたいって。……よく言えた」
ほめられ、あゆみの顔がくしゃりと歪む。
やだ。また泣いてしまう。
この人の前ではいつも涙ばかり見せてる気がする。もう泣きたくないのに。どうして。
あゆみはてすりに置いた腕に額を押し当てた。ビールがわずかにこぼれ服をぬらしたが気に掛けなかった。
「野宮さん、あたしね。それとは別に二人に自分の焼き物を贈りたい」
毎日使ってもらえるような、あんまし大きくない食器をこの手で作って焼くから。それをスペインまで届けたいの。
結婚おめでとうって、メッセージを添えて。
「外国に空輸ってどうすればいいのか知らなくて。……贈るの、手伝ってもらえますか」
涙声で言い切ったあゆみに、野宮は「もちろん」と答えた。
やさしくおおきな手が、後頭部にそっと置かれる。
髪を撫でられ、何度かくしゃっとされる。
あゆみの両の瞳から大粒の涙が連なって落ちた。
「……山田さんさ、前に、俺の言ったこと憶えてる?」
ふと話題を変えた野宮。あゆみが涙に濡れた頬を上げて彼を見る。
「どうしようもならなくなったら、俺を呼びなって。鳥取の駅で俺が言ったの。憶えてるかい?」
「あ、はい」
あのときのことを忘れることなんてできない。
あの日からこの男の人が、知り合いの建築デザイナーから特別な人に切り替わった。
「俺を呼ぶとどういうオプションがあるのか、今日教えてあげるよ」
やっとね。
そう言って、野宮は懐にあゆみを抱き寄せた。
男物のシャツに、頬を押し当てられる。
身体が、目に見えない何かに縛られたように動かない。あゆみは野宮のなすがままになった。
なのに、
「回し蹴りとかなしだよ」
牽制して耳元で囁くから、つい「し、しませんっ」と声を荒げてしまう。
野宮は短く笑って、「ほんと? あれもろ食らったら即死だからさ」と更に腕の中にあゆみを閉じ込めた。
あゆみは息を吸い込んだままは吐き出し方を忘れたように呼吸を止めた。胸が苦しいのは、胸が圧迫されているだけではないということだけは、かろうじて分かった。
「……一人で泣かなくていい。泣きたくなったらここで泣けばいい」
これからはずっと。
体温を通して初めて聞く野宮の声は。海の底から響いてくるように深みがあって。心を締め付けられるように切ないのに、ぜんぶつつまれ解かれていくような温もりに満ちていた。
あゆみは目をぎゅっと瞑った。何かが自分の中からあふれ出てしまわぬように。
野宮の心臓の鼓動が頬を打つ。それだけで、こんなにも泣きたくなるのはなんでだろう?
だめだよ。野宮さん。
こうされると、なんだかもっと泣きたくなる。
どうして?
答えを知っているのに、それにまだ手を伸ばしたくないような。複雑な想いがあゆみの思考を塞ぐ。
「男の胸で泣くの、初めて?」
野宮は、あゆみの肩をぽんぽんと宥めるように叩いた。
あゆみは身じろぎもしない。
野宮は口の端をほんの少し持ち上げて、「それは、光栄」と微笑を浮かべた。
観覧車の作動音と二人の呼吸の音が重なる。
あゆみの頭を顎の下に挟むようにして、野宮は彼女を包み込む。そのとき、くぐもった声が懐から聞こえた。
「……野宮さん。ゴメンナサイ」
「ん?」
異変を感じ、野宮が身を離す。
顔を覗き込むと、あゆみの顔色が変わっていた。
まっさおだ。
「な、ど、どうしたの」
「なんか気持ちわる……。限界超えた、かも」
おえっ。
あゆみが口を押さえ、えづく。さっきまで青かった顔が、真っ赤に転じている。
「うわ、大丈夫かっ」
野宮も血相を変えて、飛び退った。「は、早くトイレへ」ベランダの戸を開けて、あゆみの手を引いてユニットバスに連れて行く。
間一髪、間に合った。
おええええええ。
便座に屈み込んであゆみが派手に胃の内容物を戻すのを、野宮は遠いまなざしで眺めた。
……そうだよな。そううまくはいかないよな。
このお姫様相手には。
常套の口説きの手段なんて通用するはずがない。
ちょっと急ぎすぎた、かな。キャパオーバーだったか。
自分も膝をついてあゆみの背中をさすってやりながら、野宮は自己反省をする。
苦しそうに涙目ではあはあと息をするあゆみに、「水もってくるから口すすいで」と言って、バスルームを出た。
でも、まあ。一歩前進ではあるかな。
内心そう呟いた野宮を、窓の外から無人の観覧車が面白がるように見下ろしていた。
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下記の題に従って、連作で書いて行きました。お題は「恋したくなるお題配布」さまからお借りしました。
01. 君の「ほんと」を知ってるよ
02. そういうトコも好きなんだけど
03. 押しても駄目なら引いてみる
04. その沈黙の意味は「Yes」?
05. 今日は離れてやらない
06. 言葉にしないけど分かってよ
07. ただ声が聞きたいだけ
08. 泣く一歩手前の顔をしてるのに
09. 何度でもこうして、ほら
10. ラスト・チャンス
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