ねえ、温泉行かない? とイツキにもちかけるのには、割と勇気が要った。
なぜなら……。
「いいけど……。大丈夫かな。温泉とか泊まるのってかなり高いよね」
普通のビジネスホテルと比べてという意味合いだろう。経済観念は相変わらずしっかりしている。
さやかは普通に泊まるならね、と言ってから、
「あたしの友達が、フロントで働いているホテルがあってね。源泉かけ流しの温泉が入ってるんだって。ちょっと遠いけど格安で泊めてあげられるって。顔見せがてら、来ないってこないだ電話で誘われたんだ」
「へえ……じゃあ、実質交通費だけってこと?」
初めてイツキの顔に興味の色が浮かぶ。現金だなあ。内心苦笑しつつさやかは頷いた。
「温泉かあ、ずいぶん行ってないなー」
頭の中で記憶を辿っている様子。願わくはその記憶が昔女の人と行ったものじゃありませんように。そんな嫉妬に毛が生えた程度のものを胸のうちに生じさせながら、
「あたしもだよ。二人ではまだだよね」
温泉が湧き出そうな山奥には、結構出かけてるけどね。
そう言うと、不意に真顔になってイツキがさやかに向き直った。
「行こうか。そのお友達の厚意に甘えて」
「決める?」
「うん。温泉でさやかといちゃいちゃするのも悪くないかなって今思った」
たちまちどかんと真っ赤になるさやか。
「いちゃいちゃって、別にあたしはそんなこと」
その反応がツボにはまったらしく、ここぞとばかりイツキが攻勢に出る。
「あれ? やっぱさやかも同じこと思ってた? 温泉宿ってなんだか響きがエロイじゃない。男女の情事にもってこいっていうか」
「湯治とか、そっちが目的な健全な男女だっているよ!」
そういう人たちの年齢層はけっこう上のほうだが。、
「俺たちは毎晩愛し合うぐらい、健全な男女でしょうが」
さやかはその場で地団太踏んだ。頬は相変わらず熱があるみたいに赤い。
「だーかーら、イツキを誘うのやだったんだよ。温泉っていうと、絶対そっち方面の想像すると思ったんだ」
「……やだったの、俺を誘うの」
とたんに暗い顔になる。
あ、違。
そうじゃなくて。
さやかは言葉を重ねる。
「そ、そうじゃない。や、やだって言ったのは、イツキがそっち系の話に流すのが分ってたってことで」
「ふーん、そうかー。傷つくなー。妻が夫を誘うのがそんなにやだったとか面と向かって言われると」
わざとらしく胸を手で押さえる。まるでそこに目に見えない矢でも突き刺さってでもいるかのように。
心なしかよろよろと、部屋の壁に片手をついた。
「ご、ごめんって。あたしが悪かった。だからしょげないでよ。一緒に行こう? 温泉」
「……お風呂場でいちゃいちゃするって約束して? だったらさっきの水に流す」
きらん。顔を上げたそこに、二つの目が炯炯と光る。
さやかは絶句した。
「~~~だ、だって混浴とかないとこだよ、そこ」
ネットで調べた範囲の知識で応じると、イツキはあっさりと返した。
「混浴はなくても家族風呂ぐらいはあるだろ。仮にも温泉を謳うんだから。あーさやかと温泉につかりながらいちゃいちゃしたい。したいなあ」
「ば、……あからさまに言わないでよもう! 恥ずかしいなあ」
「だってしたいもん。さやかは? したくない? 温泉で」
顔を覗き込むようにくっつけてくる。言わせるつもりだ。
茹蛸になったさやかは、し、したいけど、と消え入るような声で囁く。
「え? 聞こえない」
ちゃんと言わないと、水に流せないなあ。
意地悪く絡んでくる。
さやかは「もおっ、分ってるくせに、言わせないでよイツキのばかっ」と喚いた。
こぶしを振り上げて腕をはたきにくるさやかをなんなく押さえて、イツキは笑った。
「分ってるけどからかってみたくなるんだよ。あんましうちの奥さんが可愛すぎてさ」
「ん、もう、イツキのそういうとこ、きらいだよ!」
ぶんむくれて拗ねる、その横顔も致命的に可愛いと思ってしまう、イツキ。結局最後にはだんなさまの手のひらの上で転がされちゃうんだからなあと、まだ火照りを頬に残すさやか。
ふたりは、どんなスイーツでも糖度が及ばないほど甘い、無敵の新婚5ヶ月目カップルだ。
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読みたいと思うとつい書いてしまいます。
でも、お求めくださるみなさまにあまり負担にならないように、作りたいと思うので、じっくり焦らずに頑張ります。