その夜、帰宅は深夜だった。ただいまさえ声に出すのが憚られる時間帯。
隣近所と、何より家人を起こさないようにそっと玄関ドアを開けて中に入る。
センサーで電気が点く。月明かりに慣れた目に、LEDのライトは乱暴なほどまばゆく映った。
「……」
目をしばたたかせて靴を脱ぎ、かかとを揃えて三和土に上がる。すぐにはシューズラックに入れない。磨いて、手入れをしてから。
ああでも、さすがに今夜はその気力がない。疲労が澱のように体の隅々によどんでいる。
夕飯は、移動中に簡単に済ませた。風呂も明日の朝でいい。結局俺は、まっすぐにベッドルームに向かう。
間接照明が灯された、俺たちの寝室。制服の襟元を緩めつつ、俺は二つ並んだベッドの手前、俺のほうに潜り込んで眠りに就いている妻のもとへ歩み寄る。
麻子。
寝化粧もしていないはずなのに、そして、結婚してからもう20年も過ぎたというのに、その面は驚くほど美しいままだ。
出会った頃ーー図書隊の華と唄われたころと、ほとんど遜色ない美貌。
もちろん、年齢を重ねた跡は見受けられる。でも、こうやって目を閉じて眠りを揺蕩う姿は、付き合ったころと何ら変わらず、俺はずっと眺めてしまうのだ。
時間を忘れて。
現に今も、ベッドの端に腰を下ろし、着替えもせずに麻子の寝顔を見つめていた。そこで気配を感じたのか、彼女がふっと目を覚ました。何度かまばたきをして寝室の天井に視線を向けてから、ぱたんとこちら側へ顔を倒した。
目が合う。
麻子は俺を認め、ふわっと微笑んだ。そして、
「……おかえり」
夜の闇を白く染めるように、優しい声で囁く。
「うん。ただいま」
俺はその前髪に手を伸ばした。くしゃっとやると、おでこが覗いた。
額を晒すと、人形のように整った顔が露わになり、いつもよりあどけない印象になる。
上体を起こし、ヘッドレストに背を預ける。
「お疲れ様。ご飯は?用意できてるわよ」
「うん。でも食ってきた」
「そう……」
沈黙が訪れる。
訊きたいことは、山ほどあるだろう。でも、口にすることはない。
答えは分かっているから。--辛い言葉を、相手に話させたくない。相手の耳に入れたくない。
ニュースや新聞などで報道されていることよりも、目の当たりにした事実はきっとむごい。容赦のないほど。
それは、十数年前、仙台の被災地に救援で駆けつけたことで身を染みて分かっているから。
だから麻子は何も言わない。俺も話さない。
優しい沈黙に身をゆだねる。
「ごめんね、今夜帰ってくるって分かっていて、先に寝んで」
「いいんだ。俺が口を酸っぱくして言ってるからな。夜を跨ぐ仕事になるかもしれないときは、俺を待たないでくれと」
くす。麻子は肩で微笑う。
「結婚当初は、たくさん叱られたわね、あんたに。ーー起きて待つな、ちゃんと寝てくれと」
「ああ、そうだったな」
懐かしい。俺もつい頬が緩む。
「約束は守ろうとしたけれど、……眠りは浅いわ。どうしても」
「……いいんだ」
俺は言う。
「お前が俺が出張のとき、俺のベッドに潜りこんで眠るくせがあるって、可愛いところがあるなんて、お前の部下たちは知らないんだろうなって思うと、ちょっと嬉しいんだ。帰ると癒される」
なあ? 手塚総司令、と付け加え。
麻子はあからさまに嫌な顔をして見せた。
「あんたのそういうところ、昔から嫌いよ」
「それは誉め言葉として受け取っておく。ーーところで、1か月ぶりに帰宅した夫に何かご褒美はないのか?」
すると、麻子はベッドの端に座る夫に擦り寄って、ハグをした。
広くて厚みのあるその肩に頬を当て、深く息を吸い込む。--嗅ぎなれたアフターシェーブローションの香りが鼻腔をくすぐる。
ようやくそこで、夫が自分のもとへ無事に戻って来たのだと、実感することができた。
「お帰りなさい、ーー本当に、お疲れさまでした。……それと、ありがとう」
ありがとう、光。そう繰り返す麻子の声は柄にもなく震えていた。
でも俺はそれに気づかないふり。そして、ただ彼女の背に手を回す。
「……ん」
俺は妻の肩を抱く。細い。今にも折れそうな華奢な身体。それでいて芯は強い。
しかし、今回の震災に関しては、自身のふるさとが被災したため、心労が色濃かった。やっぱり瘦せたなと思った。全国各地の図書隊に緊急応援の要請をかけたり、被災地の知事(長)と連絡を取り合ったり、被災からずっと激務が続いていたのだ。
俺を現地に派遣することを最終的に決めたのも麻子だった。被災した方々のため、全国各地から集められた本を避難所に、学校に届けてほしい。そして、倒壊した図書館の瓦礫の撤去作業や、再建に関する予算の試案の作成にあたってほしい。
できるなら、傷んだ図書の補修・修理にも人員を回して。
麻子の意志を余すところなく引き受けて実行部隊に落とし込めるのは、自分しかいないという自負のもと、俺は全国のタスクフォースを総括する立場で出動した。
陣頭指揮を、現場で執った、このひと月。
あっという間だった、無我夢中だったという思いしか、今はない。
「あんたのにおい、落ち着く……やっぱり」
ややあって、麻子が囁いた。
「だから俺のベッドに入るんだろ? ひとりで眠れないときは」
「そうね、でもあんたも喜ぶから。あたしがベッドに潜り込んでいると」
言い当てられて俺は肩をすくめる。だって、
だってさ。
「きれいな眠り姫が自分のベッドで横になってるなんて幸福なこと、滅多にあることじゃないからな」
そう伝えると、「……ばか」と珍しく頬を赤らめて俯いた。
「あたしをいくつだと思ってるの」
「俺と同い年だろ。同期だから」
いくつになっても、お前はきれいだよ。
てらいもなく俺は口にする。と、麻子は不意に目を眇めるようにして俺を見つめ、口づけを刻んだ。
「……」
俺はなんだか胸がいっぱいでそうっと両の目を閉じた。
眠りから目覚めた姫君からの、祝福のキス。それで物語は幕を閉じる。いつの時代も。
めでたしめでたし、で終わればいい。いつか、この現実も。
今この災禍で負った人々の傷が癒え、少しずつでいい、立ち上がって前を向いてくれれば。ーーそれが何年掛かるかはわからないが。そのためにできることは惜しまないつもりでいる。
どうか、今よりも安らかであってくれと願わずにいられない。
麻子は俺の唇を自分のもので優しく包み込んだ。俺たちは、嵐の夜に止まり木で肩を寄せ合う小鳥のように、何度も唇をついばむ。
そして、ただ、窓の外に白光が差し込む夜明けを待つのだ。
※
pixivさんに初めて投稿したのは、「図書館戦争」の手塚と柴﨑のCPの二次でした。
コロナ禍の二人を描いたもの……。時代時代、その年代に応じた二次を書けるのが、有川作品の人物の良さだと思います。
どうか、今お辛い思いをなさっている方々が、少しでもお力を得ますように。少しずつでも傷が癒えますように、願ってやみません。