手塚家のキッチン。
今日は土曜日なので夫婦ともに公休日だ。
揃って休みだというのに、柴崎は朝からここに篭りっきりだ。
相手をしてもらえない手塚は、手持ち無沙汰なのかちょくちょくキッチンに顔を出す。
「料理してるとき、前にかかって邪魔だろ。髪結った方がよくないか」
テーブルに頬杖をついて、柴崎の背中を見詰めていた手塚が、声を掛けた。
柴崎は泡立て器を使う手を止めずに、
「ん、そうね」
と生返事を返す。
料理に集中しているせいだ。
「結ってやるよ、ゴムはどこだ?」
「あ、そこの抽斗の中。出してくれる?」
「OK」
手塚が髪ゴムを取って、背後に回り柴崎の黒髪をひとつにまとめてやる。
その間も後ろを振り向きもしない。
うなじと耳の後ろがむき出しになる。その無防備な感じが何とも色っぽくて、手塚は背後からそうっと柴崎を抱きしめた。
もちろん、料理の妨げにならない程度の力で。
「……、どうしたのー?光。甘えんぼね、今日は」
ややあって、手塚にそうさせながら柴崎が背中で訊く。
手塚は自分の腕の中にすっぽりと収まってしまう痩身に、ぴとりと身体をくっつけたまま、
「おまえのせいだろ」
と面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「あたし?」
「お前ってばせっかくの休日だってのに、ろくに話もしてくれないじゃないか。
甘えたくもなるよ」
くっ。柴崎の肩がわずかに揺れる。
「すねてんの」
笑いを噛み殺した声。
「悪いか」
「ぜーんぜん。拗ねる旦那様ってのも異様に可愛くていいわよォ?」
「……馬鹿にして」
手塚は悔し紛れに柴崎を抱きしめる腕に力を込めた。柴崎がその時になって、ようやく後ろを振り仰ぐ。
「ちょ、ちょっと、光。痛い――」
手塚の目の前には、白いうなじと服から覗く胸元がある。
そういえば。
手塚は思い出した。もう何年も昔のこと。
その目がいたずらっ子のようにすがめられる。
「お前さ、いつだったか一緒に飲みに行った時、珍しく潰れて俺に負ぶわれて帰ったことあったよな。憶えてるか?」
「えー。そんなのあったっけ?」
これは、さり気なくそらっとぼけている時の声だ。一緒に住むようになってから判別できるようになった。
「あったさ。でもってお前、俺に【作品】刻んだろ」
ここに。
手塚はそう言って、柴崎の首筋にそっと唇を落とす。
ぞく。
柴崎はかかる吐息に思わず身を硬くした。
「ちょ、ちょっと、くすぐったい」
手塚はいったん身を離して、それでも腕の中に彼女を閉じ込めるのは止めずに柴崎の髪の匂いで鼻腔を満たした。
胸が上下する。
「なんであんなことしたんだっけ。お前。やたらと怒ってたよな」
「さー?何のこと? 忘れたわねえ」
「あの後大変だったんだぞ。みんなお前の【作品】、見物に来て」
「あらー? 人のこと痴女呼ばわりして失礼極まりなかったのはどこのどいつだっけ?」
くるんと首を後ろに巡らして、柴崎は手塚を斜に睨んだ。
「旦那を捕まえてどこのどいつはないだろ」
「ふんだ」
「あの時の仕返しだ。……動くなよ」
手塚が声をひそめる。そして柴崎の首に屈み込む。
吸血鬼が、深窓の令嬢の鮮血を啜るように。
「あ、ちょっと。な、何を――」
柴崎は抵抗したけれど、手塚の力に及ぶはずもなく。
くっきりとその肌に薔薇の花びらのようなキスマークが刻まれた。
「ば、ばか。あ、明日襟ぐりの深い服、着られないじゃないのよ。
久々に明日は笠原と買い物に出かける約束してんのに」
笠原と?
初耳だった。
手塚は何となく面白くない。
「タートルにすればいい」
素っ気なく言う。
「大体お前は昔っから笠原好きだよな。そうだよ、あの時だって、確か笠原がどうの、って――」
手塚の動きが止まる。
何かが、目の前に広がった霞の向こうに見えかかる。もう少しで、手が届きそうだ。
過去の記憶の端くれに。
柴崎は焦った。
ぐい、と手塚の腕から逃げ出し、手にしていたボウルからスプーンで中のものをひと掬いした。
湯せんで溶かしたチョコレート。目に染みるほど甘い。
スプーンを、手塚の口に突っ込む。有無を言わさず。
手塚は目を白黒させた。
「む……ぐ」
「どお? 味見は。美味しいでしょ?」
あたしのお手製よ。とびきりの愛情を込めた。
バレンタインのチョコケーキ。
あんたの。あんたのためだけの。
「う、美味い……」
手で口を押さえて手塚は喉を鳴らした。ごくり。
「美味いけど、甘いな」
あまり甘いものが得意ではない手塚は、複雑な面持ちだ。
「年に一回くらい、そんぐらい甘いもの、食べてもいいじゃない」
昔の笠原への嫉妬の意趣返しなんか、思い出す暇があったらさ。
という言葉はあえて口にはしない。
手塚は目許を緩めた。
「うん。サンキュー。今日も朝からかかりっきりで有難うな」
デコレート半ばのケーキのスポンジに目をやる。
あともう一息で完成というところまでできかかっている。
「もう少しだけ待って? できたら一緒に食べよ?」
「――その提案に賛成。だけど、その前に」
手塚は柴崎のおとがいに手を掛ける。
そっと上向かせた。
「お前を食べたい」
麻子。
ゆるゆると、手塚の唇が降りてくる。
いつもの角度で。
何か言いかけようと開いた柴崎の口が、手塚にふさがれる前に閉じる。
そして、両の瞼も。
それを見届けてから、手塚は柴崎の唇に唇を重ねた。
舌に残ったチョコの味が柴崎の口の中に移るのに、さほど時間はかからなかった。
――Saint Valentine's Day――
fin.
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チョコレート、負けます、確実に!!
そして、かわいいぞ、手塚!!
\(^o^)/ばんざ~~い!!
実際、手塚みたいな男に甘えられたら、こっちが溶けちゃいそうですね(^^;;ほんと可愛い可愛い(親ばか?汗)
私まだ中学生なので、読める時間が限られていましたが、よ・う・や・く読み終わりました!
たくねこさんもおっしゃっていますが、本当に
ご馳走様!!
って気持ちですw
このサイトのおかげで、いまだに読んだことのない他の有川作品に興味を持ちました!!
これからもこのサイトはずっと見ます!!
やたら!(ビックリマーク)が多い気もしますが、とにかく、これからも宜しくお願いします
全部目を通してくださって有難うございます。
中学生ですか…いいですね。
有川作品の新鮮な印象を丸ごと体感できる年齢ですよね。
どうぞ無理のない程度でお越しください。
お立ち寄り有難うございます。
コメントを読んで、私も図書館、読み直したくなりましたv