(これはハチクロの二次物です)
第一章 君の「ほんと」を知ってるよ
山田あゆみにスペインから一通のエアメイルが届いたのは、葉桜を過ぎた新緑の季節だった。
封書ではなく絵葉書で。
書き添えられていたのはたった一文。くせの強い、少しだけ悪筆の文字で。
あゆみはその見慣れた文字を何度も目で追った。何度追っても内容は変わらない。
それを分かっていても、真山から、海を超えて届いたのだと思うと、どうしてもそこに書かれてある文字から目を離せなかった。
大学の帰り、藤原デザインに足を向けるのはなんだか気が重かった。
でも依頼された陶器の釉薬について、もう少し具体的に詰める必要があった。美和子に会うには事務所に出向かなくてはならない。
美和子や、事務所のひとに会うのは構わない。構うのは、――
「こんばんは。山田です」
ひょいとドアから顔を覗かせる。一流のデザイン事務所だけあって、デスクやソファなど、普通の店では見かけないスタイリッシュなものが置かれている。ちょっとした雑貨や小物もみなハイセンスだ。そのせいか、書類や模型があちこち見えるのに雑然とした感じがしない。
「美和子さんいらっしゃいますか」
「あー、山田さんいらっしゃい」
窓際に置かれたマッサージチェアに寝そべった美人があゆみを見て手を挙げる。その身体の上に乗っていたリーダーが一声鳴いてあゆみのところまで駆け寄ってきた。
わふわふ言いながら尻尾を千切れんばかりに振る。
あゆみは屈んで歓迎を表すリーダーの鼻先に自分の鼻をくっつけた。
やわらかい毛並み、温かい鼻息があゆみの気持ちを和ませる。
「ごきげんよう、リーダー」
おひさしぶりです山田さん。
「ごめんね、今日はお土産はないの」
そんな、お気遣いなく山田さん。
ひとしきり挨拶を交わしていると。
「そんなのはいいのよう。気にしないでいつでも来て」
美和子が、あーすっきりしたと大きく伸びをしてチェアから降り立った。こきこき首を鳴らしながらあゆみに近づく。
「参ったわー。仕事立て込んでて健康ランドにも行けやしないのよ」
事務所備え付けの冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出す。ぐいっと封を切り中身を飲んだ。
そうは言うものの、美和子の肌の色艶はいい。とても疲労しているようには見えない。
「お疲れ様です。すいません、お忙しいのに打ち合わせなんかお願いして」
「いいのいいの。いつでも寄ってね。こんな可愛いお客さんならいつだって大歓迎なんだから。それに山田さんが来ると特別喜ぶ男もいるしね」
意味深な目線を送られて、あゆみは真っ赤になる。
「な、なんのことですか」
「あ~、とぼけちゃう? まあいいわ」
美和子は笑って応接室にあゆみを通した。
「の、野宮さんは今日はいらっしゃらないんですか」
さっきから、勝手に目が探してしまう。夕刻、人気の空いた事務所の中に彼の姿が見えない。
ほっとしたような、肩透かしを食ったような。あゆみの胸を複雑な風が通り過ぎる。肩にかけたトートバッグのショルダーをきゅっと握りなおした。
美和子はにんまりと口角を吊り上げて見せた。
「野宮ねー。今日は山崎と外勤なのよね。新規受注のお客さんとの打ち合わせでね」
「そ、そうですか」
直帰なのかな。今夜は戻らないのかな。
「会いたかった? 何か野宮に話でも?」
ストレートに訊かれ、「あ、いえそういうわけではなくて」ととっさに答えたところにいきなり「なんだ、そうなの」と別の声が割り込んでくる。
あゆみは魂消た。
背後に野宮当人が立っていたのだ。
心臓が口から飛び出しそうになる。
「の、野宮さん、い、いつからそこにっ」
気配、気配がなかったっ。
思わずバッグを胸の前で抱きしめてガードの態勢を取る。
野宮はけろりとした顔で「いつって、さっきから。いらっしゃい山田さん」と眼鏡の奥から言った。
「み、美和子さん。来たって気づいてたんなら教えてくれたって」
「あは、ごめんごめん」
茶目っ気たっぷりに笑うので、それ以上怒れない。
野宮は美和子に向かって、黒のブリーフケースを差し出した。仕事関係の書類が納められていると分かる、頑丈なものだ。
「これ、取引先から。山崎は用事があるって言って先に帰りました」
「お疲れ。あんたも直帰コースでよかったのに」
ケースを抱えにやにやと人の悪い笑みを浮かべて、美和子は山田にそっと耳打ちした。
「今日山田さんがこっちに寄るって分かって、さっきメールしておいたの。途中まで帰りかけてたのに、慌ててUターンしてすっとんできたのよ、野宮」
「え」
あゆみが硬直する。野宮はからかわれるのは慣れているのか、「余計なことは言わんでいいですよ。姐さん。さ、さくっと打ち合わせしたらどうすか」と促した。
「ああそうね。どうする? 野宮も入る?」
「いや、俺は。こっちにいます」
終わったら声かけてください。自分のデスクに向かいながら、野宮は美和子ではなくあゆみに言った。
「俺になんか話でも?」
「え」
「いや。さっき、なんか何かを言いたそうだったから」
あゆみは返答に困った。
とっさに長四角をしたおおきめの葉書が頭をよぎる。
「別に、話っていうほどのものでは」
言葉を濁す。
自分でも分からないのだ。今日、野宮に会って何を言いたかったのか、それとも何も言いたくなかったのか。
どっちなのか。
野宮はあゆみの困惑をいつものように自然に受け入れて、
「ふーん。ま、いいや。晩飯、食べよう? いいよね」
彼女が返事をする前に席に着いてしまう。ぎち、と椅子のキャスターを鳴らして。
応接室のドアノブに手をかけて、美和子が聞こえよがしに突っ込んだ。
「気取っちゃって。嬉しいくせにね。素直じゃないったら」
「聞こえてますよ姐さん」
背中で威嚇するも、長めの髪から覗く耳たぶが赤かった。
「はいはい、じゃちょっと山田さん借りるわね」
愉快で仕方がないといった風に美和子が笑った。
――あたしはずるいのだろうか。
野宮の気持ちを知ってて、彼の周りを着かず離れず軌道を見失った人工衛星みたいにうろついて。
仕事のついでみたいに藤原デザインに立ち寄って、たあいないおしゃべりをしたり、たまには一緒にリーダーの散歩に出かけたり。
同じ星空を見上げたり。
そんなことを繰り返すあたしは、不誠実なんじゃないか。
誰に? ――そうあゆみは自問する。
あたしのこと、好きになってくれた野宮さんに? それとも全身全霊をかけて、好きになった真山に?
自分自身に?
分からない。でも、ずるいものはずるい。
それだけは分かる。けれどもどうしようもない。
真山をまだ完全に思い切れないのも、野宮から離れられないのも事実。偽りのない、今の気持ちなのだから。
踏ん切りのつかないまま、いまあたしはここにいる。ドア一枚隔てたところで、自分を待っている野宮のことを気にかけながら。
あゆみは早く終わってほしいようなほしくないような、相反する気持ちを抱えたまま美和子との打ち合わせを続けた。
「やっぱさ、デザイン事務所なんだから、家具とか? インテリアで行くのが普通なんじゃないの?」
「でも、向こうだって本職だよ。それに、バレンシア美術館の設計担当するグレードの」
「あああ何それ、卑屈になってまうな」
「別にあっちのグレードが高いとかいう問題ではないでしょ? 要は気持ちの問題だと思うんだよね」
「そうそう。海外なんだから日本のものが手に入りづらいんじゃない? 和物で攻めるとかどうよ」
「日本酒にすっか。大吟醸ひと樽とか」
「それいいね! 木槌を特製にしてさ」
「藤原デザインの銘を入れんの」
「輸送は、……船便か? スペインって船便出てるっけ」
打ち合わせを終えて応接室から出たあゆみと美和子。彼女たちの耳に飛び込んできたのはスタッフルームの会話だった。
残業していた高井戸たちが車座になって雑談していた。
「なになに、何の話?」
美和子が首を突っ込む。と、座の中にいた野宮が「終わった? じゃあ行こうか」とあゆみを戸口に促そうとした。
あからさまに話題を耳に入れたくないその様子で、あゆみはピンとくる。しかしフォローの甲斐なく高井戸が、何気なく答える。
「あ、美和子さん、いいとこに来た。女の人の意見聞かせて? ほら結婚祝いの相談。事務所としてなんか贈ろうかって。真山の」
「あ、」
美和子が口を半開きにして棒立ちになった。顔に縦線を引いて背後のあゆみを窺う。
野宮がうわーと空を仰いだ。
「そそそ、そうね。どどどどうしようっか」
だりだりと嫌な汗が流れた。レイザーのように鋭い視線で野宮に【早く、早くお姫様をこの場から連れ出して】とサインを必死で送る。
「……」
そうか、そうだよね。
あたしに連絡よこしたくらいだから、お世話になっていた前の事務所に送らないなんてことないんだった。今更のようにあゆみは納得する。
半分ほっとして。半分がっかりして。
本当なんだな。ほんとに結婚したんだなと実感が、わずかな胸の痛みとともに湧いてきた。
野宮はその場から引き剥がすタイミングを掴みあぐねて、彼女を見守るしかなかった。美和子は「えーと、相談はいいけど場所を替えない?」と再度フォローを試みる。
そのとき、あゆみが口を開いた。右手を無意識のうちにぐっと握り締めて。
自分を励ます気持ちに連動するように、身体も一歩前に出す。そして、
「あの、高井戸さん。あたしもそれに混ぜてくれませんか。真山の結婚祝い、あたしも何か贈りたいんです」
エアメイルに書き添えられていたのはたったの一文。
――元気ですか? この春、入籍しました。
素っ気無いほど飾り気のない言葉。
入籍しました。その文字が信じられないほど遠くて、最初は心が麻痺したように何も感覚がなかった。
何回も目で追うごとに、ようやくそれは現実のこととしてあゆみの中で緩やかに立ち上がってきた。
たぶん、たくさん迷ったんだと思う。あたしに知らせるかどうか。
知らせないなら知らせないでよかった。済ませることもできた。
藤原デザインのスタッフ経由とか、大学の関係の人から耳に入るってこともありえた。
だけど真山はあたしに手紙をしたためた。
あたしの名前を宛名に書き、結婚の報告をくれた。
……よかったね、真山。
自然と湧き上がったのは、失意ではなく祝福の気持ちだった。
だってあたし、知ってる。真山がどれくらい長くひたむきにリカさんのことを愛してきたか。なりふり構わず懸命に傍にいて彼女を支えようとしてきたか。
真山の願いはかなった。愛する女性とこれから先の人生をともに歩んでいく道に、いま踏み出した。
だから、おめでとう。
お幸せに。
心から、そう思った。
そして、じんわりと温かみが広がった胸に、ふっと差し込んだのは野宮の顔だった。
野宮さんに逢いたい。逢って何を話せばいいのかはよく分からない。でも顔を見て何かを話したかった。
それは心の底から突き上げてくるような、焦燥にも似た想いだったので、自分自身びっくりした。
「今夜はどうする? まっすぐ帰る?」
車を発進させてから、野宮が訊いた。
「え、でも晩御飯」
あゆみの顔が、対向車の照らすライトを受けて数秒きらめく。まぶしそうに目を細めた。
「なんか上の空だから日を改めたほうがいいのかなって」野宮が胸ポケットからタバコを取り出し、火をつけて咥えた。ハンドルを握っているため、一連の動きを片手一本でしてみせる。
「そんなことないですよ」
「そお?」
ちらりと横顔を窺う。煙のにおいがかすかにあゆみの鼻
をかすめていく。
「じゃあどこかで飲もうか。山田さんとは今までじったり
腰を据えて飲んだことはなかったよね」
「でも、野宮さん、運転」
「代行あるから大丈夫」
あゆみは少し逡巡する。
「……野宮さん、お酒強そう」
「そう見える?」
笑いながら答える顔がそうだと言っている。あゆみはシートベルトが窮屈に思えて居住まいを正した。
「美和子さんは沼。俺はザルってことかな。あ、山崎はあんま強くないんだよね」
「ザル……。沼って」
でも確かにそれっぽい。あゆみは納得する。美和子と健康ランドに行ったとき、自分はへべれけで潰れても彼女はけろーりとしていたっけ。
「山田さんは酒屋なんだからイケる口でしょ」
「それが、お恥ずかしながらアルコールはあまり強くなくて」
舌は悪くないんですけど、量が飲めないんです。
小声になってしまう。
「そっかー。今日はサシでとことん飲むのもいいかなって思ってたんだけど」
「な、なんでですか」
警戒して訊く。
「だって今日うちの事務所に来たの。真山の結婚の話を聞いたからでしょ」
違う? 信号待ちで停車させながら野宮はタバコの灰を灰皿に落とす。
「俺に話があるっぽかったのって、それじゃないの?」
あゆみは黙った。意固地になってフロントガラスを見据えたまま。
「ち、違います」
トートバッグが膝の上からずり落ちそうになるのを押さえてあゆみは返す。野宮は紫煙を吐き出しながら、中空に言葉を置くように呟いた。
「ふーん。ほんとかな」
「ほ、ほんとです」
しばらく車内に沈黙に満ちる。ややあって、野宮がギアをチェンジさせ、スムーズに発車させて言う。
「俺、君の【ほんと】をよーく知ってるからさ。あまりあてにしないことにしてるんだよ」
「あ、あてにしないって、ひどい」
「だってこのまま帰したら泣くでしょ。一人で」
帰せないよ。そこで真顔になって言う。
あゆみは声を失う。いくら言葉を探しても、ストックがない。
「な、泣くなんて、そんな」
痛いところを突かれ、あゆみはたじろぐ。
「飲もう? 聞くよ。なんでも。だから今夜は飲もう」
一人で抱えないで。
ここは鳥取じゃない。東京だ。
俺はここにいるんだから。遠慮なく頼ったっていいんだよ。
声にならない彼の声が聞こえ、あゆみは胸がいっぱいになる。
「野宮さん、甘すぎ、ます。あんまあたしを甘やかさないでください」
声が闇に吸い取られていくように震えた。
自分がどんどんずるい人間になっていく気がする。安易に痛みのないほうへずるずると滑り落ちていくおそれに囚われる。
どんどん嫌な女になりそうで怖い。
優しくしすぎないで。かぼそく言ったあゆみに向かって、
野宮は「それは無理」とすげなく答えた。
「俺、君が好きだから、甘やかしたいし優しくしたい。それは悪いけど諦めて」
とどめを刺して、野宮は流れるように滑らかに車線変更をした。
甘えたっていい。拗ねたってゴネたっていい。
嫌いになんかならないよ。
好きな子からそうされるのは、男にとってとっておきの勲章なんだよ。
君は知らないだろうけど。
結局二人はアルコールが飲める店には行かなかった。あゆみのリクエストで横浜に向かった。
「観覧車の見えるところで話したい」
やっとのことで、望みを口にしたあゆみ。野宮は彼女のためにおととしの桜の頃、二人で泊まった横浜のホテルに予約を入れた。
うろ覚えで部屋指定をしてみる。すると、ちょうど今夜そこが空いているという。二年前と同じツインの部屋に入り、ベランダに出て観覧車が人々に忘れ去られたようにゆっくりと回転するのを見守った。まるで世界をまわすねじ細工の金具のようだと思いながら。
ミニバーからアルコールを取り出して野宮はあゆみに渡した。
二人とも、大空を攪拌しながら観覧車の小箱が連なって視界をよぎる様を目で追った。
夜風は生ぬるい。もう夏が近いことを教えてくれる。
野宮はウイスキーを飲りながら、ベランダの手すりにもたれた。
あゆみは言った。ビールのほろ苦さが口の中に広がる。
「結婚って、もっと自分から遠いものだと思っていたんです。あたし。親戚とかきょうだいとかのお式には出てたんですが、自分の身近なともだちが結婚するのは、初めてで」
真山をともだちと表現するのは苦しい。でもそれ以外に当てはまる言葉が思いつかない。
「うん」
「でも真山から葉書が届いて、現実なんだなって。もういつまでも大学生じゃないんだなって。ひとりひとり、自分の道を進んでいかなくちゃいけないんだって知らされた気がして。……真山の結婚自体より、なんだかそっちのほうがショックだったような気がします」
数ヶ月先には、親友のはぐみと花本先生との結婚式が控えている。あゆみは花嫁の付添い人だ。
楽しみではある。心から祝福しているのは確かだ。
でも、
「リカさんと入籍したことより、そっちがショックなんて……へんですよね?」
風を含んで広がる髪を押さえながら同意を求めると、野宮は手すりに背中を預けて首を振った。
「分かる気がする。俺なんか同期がちゃくちゃくと身を固めてるしね」
事務所でのこってるのは山崎とかぐらいだよ。
あ、美和子さんてのもいるけど。野宮が付け足す。
「……いつまでもこのままでいられないっていう、ものさびしさに参った?」
そして、野宮はストレートにあゆみの心情を言い当てる。
「うん。そうなのかな。でもわからない。単に、うらやましいのかも。ないものねだりなのかも」
「素直だなあ」
思わず苦笑する。
「そんなことまで言わなくてもいいんだよ? 山田さん」
分かってるからさ。ちゃんと。
言わされてしまうんですとあゆみは心の中で弁解する。
野宮の前では取り繕えない。どんなに隠そうとしても気持ちを読まれてしまうのと同時に、素の自分が出てしまう。
「俺も大人になるってのはさびしさの数が増えることって思ってた時期もあった。昔」
観覧車の回転を眺めて野宮が続けた。
「クサイけどほんとに。でも、今はなんか違う気がしてる」
「……どう違ったんですか」
「それは――」
と言いかけて、野宮は口を噤む。感情を整理するため、ウイスキーを少し含んだ。そして、
「教えない」
「え、なんで?」
「クサイから。君がドン引きするの見えるから」
青春スーツを着込んだとはいえ、一抹の照れくささは残っている。
「えええ。そんな、そんなことないのに」
教えてください。あゆみは野宮に詰め寄った。
笑ってそれをいなして野宮は言う。
「君が俺のことだけ見てくれるようになったら教えてあげるよ。それまで、あそこの観覧車の中に封印だ」
あゆみは硬直する。
もしもそうなったら、君はその時点で答えを自分で見つけてるんだろうけど。
そんな台詞を心にしまって、野宮はあゆみを見つめた。
「さっき、えらかったな。事務所で」
「え?」
「真山の結婚祝い、自分も贈りたいって。……よく言えた」
ほめられ、あゆみの顔がくしゃりと歪む。
やだ。また泣いてしまう。
この人の前ではいつも涙ばかり見せてる気がする。もう泣きたくないのに。どうして。
あゆみはてすりに置いた腕に額を押し当てた。ビールがわずかにこぼれ服をぬらしたが気に掛けなかった。
「野宮さん、あたしね。それとは別に二人に自分の焼き物を贈りたい」
毎日使ってもらえるような、あんまし大きくない食器をこの手で作って焼くから。それをスペインまで届けたいの。
結婚おめでとうって、メッセージを添えて。
「外国に空輸ってどうすればいいのか知らなくて。……贈るの、手伝ってもらえますか」
涙声で言い切ったあゆみに、野宮は「もちろん」と答えた。
やさしくおおきな手が、後頭部にそっと置かれる。
髪を撫でられ、何度かくしゃっとされる。
あゆみの両の瞳から大粒の涙が連なって落ちた。
「……山田さんさ、前に、俺の言ったこと憶えてる?」
ふと話題を変えた野宮。あゆみが涙に濡れた頬を上げて彼を見る。
「どうしようもならなくなったら、俺を呼びなって。鳥取の駅で俺が言ったの。憶えてるかい?」
「あ、はい」
あのときのことを忘れることなんてできない。
あの日からこの男の人が、知り合いの建築デザイナーから特別な人に切り替わった。
「俺を呼ぶとどういうオプションがあるのか、今日教えてあげるよ」
やっとね。
そう言って、野宮は懐にあゆみを抱き寄せた。
男物のシャツに、頬を押し当てられる。
身体が、目に見えない何かに縛られたように動かない。あゆみは野宮のなすがままになった。
なのに、
「回し蹴りとかなしだよ」
牽制して耳元で囁くから、つい「し、しませんっ」と声を荒げてしまう。
野宮は短く笑って、「ほんと? あれもろ食らったら即死だからさ」と更に腕の中にあゆみを閉じ込めた。
あゆみは息を吸い込んだままは吐き出し方を忘れたように呼吸を止めた。胸が苦しいのは、胸が圧迫されているだけではないということだけは、かろうじて分かった。
「……一人で泣かなくていい。泣きたくなったらここで泣けばいい」
これからはずっと。
体温を通して初めて聞く野宮の声は。海の底から響いてくるように深みがあって。心を締め付けられるように切ないのに、ぜんぶつつまれ解かれていくような温もりに満ちていた。
あゆみは目をぎゅっと瞑った。何かが自分の中からあふれ出てしまわぬように。
野宮の心臓の鼓動が頬を打つ。それだけで、こんなにも泣きたくなるのはなんでだろう?
だめだよ。野宮さん。
こうされると、なんだかもっと泣きたくなる。
どうして?
答えを知っているのに、それにまだ手を伸ばしたくないような。複雑な想いがあゆみの思考を塞ぐ。
「男の胸で泣くの、初めて?」
野宮は、あゆみの肩をぽんぽんと宥めるように叩いた。
あゆみは身じろぎもしない。
野宮は口の端をほんの少し持ち上げて、「それは、光栄」と微笑を浮かべた。
観覧車の作動音と二人の呼吸の音が重なる。
あゆみの頭を顎の下に挟むようにして、野宮は彼女を包み込む。そのとき、くぐもった声が懐から聞こえた。
「……野宮さん。ゴメンナサイ」
「ん?」
異変を感じ、野宮が身を離す。
顔を覗き込むと、あゆみの顔色が変わっていた。
まっさおだ。
「な、ど、どうしたの」
「なんか気持ちわる……。限界超えた、かも」
おえっ。
あゆみが口を押さえ、えづく。さっきまで青かった顔が、真っ赤に転じている。
「うわ、大丈夫かっ」
野宮も血相を変えて、飛び退った。「は、早くトイレへ」ベランダの戸を開けて、あゆみの手を引いてユニットバスに連れて行く。
間一髪、間に合った。
おええええええ。
便座に屈み込んであゆみが派手に胃の内容物を戻すのを、野宮は遠いまなざしで眺めた。
……そうだよな。そううまくはいかないよな。
このお姫様相手には。
常套の口説きの手段なんて通用するはずがない。
ちょっと急ぎすぎた、かな。キャパオーバーだったか。
自分も膝をついてあゆみの背中をさすってやりながら、野宮は自己反省をする。
苦しそうに涙目ではあはあと息をするあゆみに、「水もってくるから口すすいで」と言って、バスルームを出た。
でも、まあ。一歩前進ではあるかな。
内心そう呟いた野宮を、窓の外から無人の観覧車が面白がるように見下ろしていた。
了
(続きは【真昼の月】にて公開中 )
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第一章 君の「ほんと」を知ってるよ
山田あゆみにスペインから一通のエアメイルが届いたのは、葉桜を過ぎた新緑の季節だった。
封書ではなく絵葉書で。
書き添えられていたのはたった一文。くせの強い、少しだけ悪筆の文字で。
あゆみはその見慣れた文字を何度も目で追った。何度追っても内容は変わらない。
それを分かっていても、真山から、海を超えて届いたのだと思うと、どうしてもそこに書かれてある文字から目を離せなかった。
大学の帰り、藤原デザインに足を向けるのはなんだか気が重かった。
でも依頼された陶器の釉薬について、もう少し具体的に詰める必要があった。美和子に会うには事務所に出向かなくてはならない。
美和子や、事務所のひとに会うのは構わない。構うのは、――
「こんばんは。山田です」
ひょいとドアから顔を覗かせる。一流のデザイン事務所だけあって、デスクやソファなど、普通の店では見かけないスタイリッシュなものが置かれている。ちょっとした雑貨や小物もみなハイセンスだ。そのせいか、書類や模型があちこち見えるのに雑然とした感じがしない。
「美和子さんいらっしゃいますか」
「あー、山田さんいらっしゃい」
窓際に置かれたマッサージチェアに寝そべった美人があゆみを見て手を挙げる。その身体の上に乗っていたリーダーが一声鳴いてあゆみのところまで駆け寄ってきた。
わふわふ言いながら尻尾を千切れんばかりに振る。
あゆみは屈んで歓迎を表すリーダーの鼻先に自分の鼻をくっつけた。
やわらかい毛並み、温かい鼻息があゆみの気持ちを和ませる。
「ごきげんよう、リーダー」
おひさしぶりです山田さん。
「ごめんね、今日はお土産はないの」
そんな、お気遣いなく山田さん。
ひとしきり挨拶を交わしていると。
「そんなのはいいのよう。気にしないでいつでも来て」
美和子が、あーすっきりしたと大きく伸びをしてチェアから降り立った。こきこき首を鳴らしながらあゆみに近づく。
「参ったわー。仕事立て込んでて健康ランドにも行けやしないのよ」
事務所備え付けの冷蔵庫から栄養ドリンクを取り出す。ぐいっと封を切り中身を飲んだ。
そうは言うものの、美和子の肌の色艶はいい。とても疲労しているようには見えない。
「お疲れ様です。すいません、お忙しいのに打ち合わせなんかお願いして」
「いいのいいの。いつでも寄ってね。こんな可愛いお客さんならいつだって大歓迎なんだから。それに山田さんが来ると特別喜ぶ男もいるしね」
意味深な目線を送られて、あゆみは真っ赤になる。
「な、なんのことですか」
「あ~、とぼけちゃう? まあいいわ」
美和子は笑って応接室にあゆみを通した。
「の、野宮さんは今日はいらっしゃらないんですか」
さっきから、勝手に目が探してしまう。夕刻、人気の空いた事務所の中に彼の姿が見えない。
ほっとしたような、肩透かしを食ったような。あゆみの胸を複雑な風が通り過ぎる。肩にかけたトートバッグのショルダーをきゅっと握りなおした。
美和子はにんまりと口角を吊り上げて見せた。
「野宮ねー。今日は山崎と外勤なのよね。新規受注のお客さんとの打ち合わせでね」
「そ、そうですか」
直帰なのかな。今夜は戻らないのかな。
「会いたかった? 何か野宮に話でも?」
ストレートに訊かれ、「あ、いえそういうわけではなくて」ととっさに答えたところにいきなり「なんだ、そうなの」と別の声が割り込んでくる。
あゆみは魂消た。
背後に野宮当人が立っていたのだ。
心臓が口から飛び出しそうになる。
「の、野宮さん、い、いつからそこにっ」
気配、気配がなかったっ。
思わずバッグを胸の前で抱きしめてガードの態勢を取る。
野宮はけろりとした顔で「いつって、さっきから。いらっしゃい山田さん」と眼鏡の奥から言った。
「み、美和子さん。来たって気づいてたんなら教えてくれたって」
「あは、ごめんごめん」
茶目っ気たっぷりに笑うので、それ以上怒れない。
野宮は美和子に向かって、黒のブリーフケースを差し出した。仕事関係の書類が納められていると分かる、頑丈なものだ。
「これ、取引先から。山崎は用事があるって言って先に帰りました」
「お疲れ。あんたも直帰コースでよかったのに」
ケースを抱えにやにやと人の悪い笑みを浮かべて、美和子は山田にそっと耳打ちした。
「今日山田さんがこっちに寄るって分かって、さっきメールしておいたの。途中まで帰りかけてたのに、慌ててUターンしてすっとんできたのよ、野宮」
「え」
あゆみが硬直する。野宮はからかわれるのは慣れているのか、「余計なことは言わんでいいですよ。姐さん。さ、さくっと打ち合わせしたらどうすか」と促した。
「ああそうね。どうする? 野宮も入る?」
「いや、俺は。こっちにいます」
終わったら声かけてください。自分のデスクに向かいながら、野宮は美和子ではなくあゆみに言った。
「俺になんか話でも?」
「え」
「いや。さっき、なんか何かを言いたそうだったから」
あゆみは返答に困った。
とっさに長四角をしたおおきめの葉書が頭をよぎる。
「別に、話っていうほどのものでは」
言葉を濁す。
自分でも分からないのだ。今日、野宮に会って何を言いたかったのか、それとも何も言いたくなかったのか。
どっちなのか。
野宮はあゆみの困惑をいつものように自然に受け入れて、
「ふーん。ま、いいや。晩飯、食べよう? いいよね」
彼女が返事をする前に席に着いてしまう。ぎち、と椅子のキャスターを鳴らして。
応接室のドアノブに手をかけて、美和子が聞こえよがしに突っ込んだ。
「気取っちゃって。嬉しいくせにね。素直じゃないったら」
「聞こえてますよ姐さん」
背中で威嚇するも、長めの髪から覗く耳たぶが赤かった。
「はいはい、じゃちょっと山田さん借りるわね」
愉快で仕方がないといった風に美和子が笑った。
――あたしはずるいのだろうか。
野宮の気持ちを知ってて、彼の周りを着かず離れず軌道を見失った人工衛星みたいにうろついて。
仕事のついでみたいに藤原デザインに立ち寄って、たあいないおしゃべりをしたり、たまには一緒にリーダーの散歩に出かけたり。
同じ星空を見上げたり。
そんなことを繰り返すあたしは、不誠実なんじゃないか。
誰に? ――そうあゆみは自問する。
あたしのこと、好きになってくれた野宮さんに? それとも全身全霊をかけて、好きになった真山に?
自分自身に?
分からない。でも、ずるいものはずるい。
それだけは分かる。けれどもどうしようもない。
真山をまだ完全に思い切れないのも、野宮から離れられないのも事実。偽りのない、今の気持ちなのだから。
踏ん切りのつかないまま、いまあたしはここにいる。ドア一枚隔てたところで、自分を待っている野宮のことを気にかけながら。
あゆみは早く終わってほしいようなほしくないような、相反する気持ちを抱えたまま美和子との打ち合わせを続けた。
「やっぱさ、デザイン事務所なんだから、家具とか? インテリアで行くのが普通なんじゃないの?」
「でも、向こうだって本職だよ。それに、バレンシア美術館の設計担当するグレードの」
「あああ何それ、卑屈になってまうな」
「別にあっちのグレードが高いとかいう問題ではないでしょ? 要は気持ちの問題だと思うんだよね」
「そうそう。海外なんだから日本のものが手に入りづらいんじゃない? 和物で攻めるとかどうよ」
「日本酒にすっか。大吟醸ひと樽とか」
「それいいね! 木槌を特製にしてさ」
「藤原デザインの銘を入れんの」
「輸送は、……船便か? スペインって船便出てるっけ」
打ち合わせを終えて応接室から出たあゆみと美和子。彼女たちの耳に飛び込んできたのはスタッフルームの会話だった。
残業していた高井戸たちが車座になって雑談していた。
「なになに、何の話?」
美和子が首を突っ込む。と、座の中にいた野宮が「終わった? じゃあ行こうか」とあゆみを戸口に促そうとした。
あからさまに話題を耳に入れたくないその様子で、あゆみはピンとくる。しかしフォローの甲斐なく高井戸が、何気なく答える。
「あ、美和子さん、いいとこに来た。女の人の意見聞かせて? ほら結婚祝いの相談。事務所としてなんか贈ろうかって。真山の」
「あ、」
美和子が口を半開きにして棒立ちになった。顔に縦線を引いて背後のあゆみを窺う。
野宮がうわーと空を仰いだ。
「そそそ、そうね。どどどどうしようっか」
だりだりと嫌な汗が流れた。レイザーのように鋭い視線で野宮に【早く、早くお姫様をこの場から連れ出して】とサインを必死で送る。
「……」
そうか、そうだよね。
あたしに連絡よこしたくらいだから、お世話になっていた前の事務所に送らないなんてことないんだった。今更のようにあゆみは納得する。
半分ほっとして。半分がっかりして。
本当なんだな。ほんとに結婚したんだなと実感が、わずかな胸の痛みとともに湧いてきた。
野宮はその場から引き剥がすタイミングを掴みあぐねて、彼女を見守るしかなかった。美和子は「えーと、相談はいいけど場所を替えない?」と再度フォローを試みる。
そのとき、あゆみが口を開いた。右手を無意識のうちにぐっと握り締めて。
自分を励ます気持ちに連動するように、身体も一歩前に出す。そして、
「あの、高井戸さん。あたしもそれに混ぜてくれませんか。真山の結婚祝い、あたしも何か贈りたいんです」
エアメイルに書き添えられていたのはたったの一文。
――元気ですか? この春、入籍しました。
素っ気無いほど飾り気のない言葉。
入籍しました。その文字が信じられないほど遠くて、最初は心が麻痺したように何も感覚がなかった。
何回も目で追うごとに、ようやくそれは現実のこととしてあゆみの中で緩やかに立ち上がってきた。
たぶん、たくさん迷ったんだと思う。あたしに知らせるかどうか。
知らせないなら知らせないでよかった。済ませることもできた。
藤原デザインのスタッフ経由とか、大学の関係の人から耳に入るってこともありえた。
だけど真山はあたしに手紙をしたためた。
あたしの名前を宛名に書き、結婚の報告をくれた。
……よかったね、真山。
自然と湧き上がったのは、失意ではなく祝福の気持ちだった。
だってあたし、知ってる。真山がどれくらい長くひたむきにリカさんのことを愛してきたか。なりふり構わず懸命に傍にいて彼女を支えようとしてきたか。
真山の願いはかなった。愛する女性とこれから先の人生をともに歩んでいく道に、いま踏み出した。
だから、おめでとう。
お幸せに。
心から、そう思った。
そして、じんわりと温かみが広がった胸に、ふっと差し込んだのは野宮の顔だった。
野宮さんに逢いたい。逢って何を話せばいいのかはよく分からない。でも顔を見て何かを話したかった。
それは心の底から突き上げてくるような、焦燥にも似た想いだったので、自分自身びっくりした。
「今夜はどうする? まっすぐ帰る?」
車を発進させてから、野宮が訊いた。
「え、でも晩御飯」
あゆみの顔が、対向車の照らすライトを受けて数秒きらめく。まぶしそうに目を細めた。
「なんか上の空だから日を改めたほうがいいのかなって」野宮が胸ポケットからタバコを取り出し、火をつけて咥えた。ハンドルを握っているため、一連の動きを片手一本でしてみせる。
「そんなことないですよ」
「そお?」
ちらりと横顔を窺う。煙のにおいがかすかにあゆみの鼻
をかすめていく。
「じゃあどこかで飲もうか。山田さんとは今までじったり
腰を据えて飲んだことはなかったよね」
「でも、野宮さん、運転」
「代行あるから大丈夫」
あゆみは少し逡巡する。
「……野宮さん、お酒強そう」
「そう見える?」
笑いながら答える顔がそうだと言っている。あゆみはシートベルトが窮屈に思えて居住まいを正した。
「美和子さんは沼。俺はザルってことかな。あ、山崎はあんま強くないんだよね」
「ザル……。沼って」
でも確かにそれっぽい。あゆみは納得する。美和子と健康ランドに行ったとき、自分はへべれけで潰れても彼女はけろーりとしていたっけ。
「山田さんは酒屋なんだからイケる口でしょ」
「それが、お恥ずかしながらアルコールはあまり強くなくて」
舌は悪くないんですけど、量が飲めないんです。
小声になってしまう。
「そっかー。今日はサシでとことん飲むのもいいかなって思ってたんだけど」
「な、なんでですか」
警戒して訊く。
「だって今日うちの事務所に来たの。真山の結婚の話を聞いたからでしょ」
違う? 信号待ちで停車させながら野宮はタバコの灰を灰皿に落とす。
「俺に話があるっぽかったのって、それじゃないの?」
あゆみは黙った。意固地になってフロントガラスを見据えたまま。
「ち、違います」
トートバッグが膝の上からずり落ちそうになるのを押さえてあゆみは返す。野宮は紫煙を吐き出しながら、中空に言葉を置くように呟いた。
「ふーん。ほんとかな」
「ほ、ほんとです」
しばらく車内に沈黙に満ちる。ややあって、野宮がギアをチェンジさせ、スムーズに発車させて言う。
「俺、君の【ほんと】をよーく知ってるからさ。あまりあてにしないことにしてるんだよ」
「あ、あてにしないって、ひどい」
「だってこのまま帰したら泣くでしょ。一人で」
帰せないよ。そこで真顔になって言う。
あゆみは声を失う。いくら言葉を探しても、ストックがない。
「な、泣くなんて、そんな」
痛いところを突かれ、あゆみはたじろぐ。
「飲もう? 聞くよ。なんでも。だから今夜は飲もう」
一人で抱えないで。
ここは鳥取じゃない。東京だ。
俺はここにいるんだから。遠慮なく頼ったっていいんだよ。
声にならない彼の声が聞こえ、あゆみは胸がいっぱいになる。
「野宮さん、甘すぎ、ます。あんまあたしを甘やかさないでください」
声が闇に吸い取られていくように震えた。
自分がどんどんずるい人間になっていく気がする。安易に痛みのないほうへずるずると滑り落ちていくおそれに囚われる。
どんどん嫌な女になりそうで怖い。
優しくしすぎないで。かぼそく言ったあゆみに向かって、
野宮は「それは無理」とすげなく答えた。
「俺、君が好きだから、甘やかしたいし優しくしたい。それは悪いけど諦めて」
とどめを刺して、野宮は流れるように滑らかに車線変更をした。
甘えたっていい。拗ねたってゴネたっていい。
嫌いになんかならないよ。
好きな子からそうされるのは、男にとってとっておきの勲章なんだよ。
君は知らないだろうけど。
結局二人はアルコールが飲める店には行かなかった。あゆみのリクエストで横浜に向かった。
「観覧車の見えるところで話したい」
やっとのことで、望みを口にしたあゆみ。野宮は彼女のためにおととしの桜の頃、二人で泊まった横浜のホテルに予約を入れた。
うろ覚えで部屋指定をしてみる。すると、ちょうど今夜そこが空いているという。二年前と同じツインの部屋に入り、ベランダに出て観覧車が人々に忘れ去られたようにゆっくりと回転するのを見守った。まるで世界をまわすねじ細工の金具のようだと思いながら。
ミニバーからアルコールを取り出して野宮はあゆみに渡した。
二人とも、大空を攪拌しながら観覧車の小箱が連なって視界をよぎる様を目で追った。
夜風は生ぬるい。もう夏が近いことを教えてくれる。
野宮はウイスキーを飲りながら、ベランダの手すりにもたれた。
あゆみは言った。ビールのほろ苦さが口の中に広がる。
「結婚って、もっと自分から遠いものだと思っていたんです。あたし。親戚とかきょうだいとかのお式には出てたんですが、自分の身近なともだちが結婚するのは、初めてで」
真山をともだちと表現するのは苦しい。でもそれ以外に当てはまる言葉が思いつかない。
「うん」
「でも真山から葉書が届いて、現実なんだなって。もういつまでも大学生じゃないんだなって。ひとりひとり、自分の道を進んでいかなくちゃいけないんだって知らされた気がして。……真山の結婚自体より、なんだかそっちのほうがショックだったような気がします」
数ヶ月先には、親友のはぐみと花本先生との結婚式が控えている。あゆみは花嫁の付添い人だ。
楽しみではある。心から祝福しているのは確かだ。
でも、
「リカさんと入籍したことより、そっちがショックなんて……へんですよね?」
風を含んで広がる髪を押さえながら同意を求めると、野宮は手すりに背中を預けて首を振った。
「分かる気がする。俺なんか同期がちゃくちゃくと身を固めてるしね」
事務所でのこってるのは山崎とかぐらいだよ。
あ、美和子さんてのもいるけど。野宮が付け足す。
「……いつまでもこのままでいられないっていう、ものさびしさに参った?」
そして、野宮はストレートにあゆみの心情を言い当てる。
「うん。そうなのかな。でもわからない。単に、うらやましいのかも。ないものねだりなのかも」
「素直だなあ」
思わず苦笑する。
「そんなことまで言わなくてもいいんだよ? 山田さん」
分かってるからさ。ちゃんと。
言わされてしまうんですとあゆみは心の中で弁解する。
野宮の前では取り繕えない。どんなに隠そうとしても気持ちを読まれてしまうのと同時に、素の自分が出てしまう。
「俺も大人になるってのはさびしさの数が増えることって思ってた時期もあった。昔」
観覧車の回転を眺めて野宮が続けた。
「クサイけどほんとに。でも、今はなんか違う気がしてる」
「……どう違ったんですか」
「それは――」
と言いかけて、野宮は口を噤む。感情を整理するため、ウイスキーを少し含んだ。そして、
「教えない」
「え、なんで?」
「クサイから。君がドン引きするの見えるから」
青春スーツを着込んだとはいえ、一抹の照れくささは残っている。
「えええ。そんな、そんなことないのに」
教えてください。あゆみは野宮に詰め寄った。
笑ってそれをいなして野宮は言う。
「君が俺のことだけ見てくれるようになったら教えてあげるよ。それまで、あそこの観覧車の中に封印だ」
あゆみは硬直する。
もしもそうなったら、君はその時点で答えを自分で見つけてるんだろうけど。
そんな台詞を心にしまって、野宮はあゆみを見つめた。
「さっき、えらかったな。事務所で」
「え?」
「真山の結婚祝い、自分も贈りたいって。……よく言えた」
ほめられ、あゆみの顔がくしゃりと歪む。
やだ。また泣いてしまう。
この人の前ではいつも涙ばかり見せてる気がする。もう泣きたくないのに。どうして。
あゆみはてすりに置いた腕に額を押し当てた。ビールがわずかにこぼれ服をぬらしたが気に掛けなかった。
「野宮さん、あたしね。それとは別に二人に自分の焼き物を贈りたい」
毎日使ってもらえるような、あんまし大きくない食器をこの手で作って焼くから。それをスペインまで届けたいの。
結婚おめでとうって、メッセージを添えて。
「外国に空輸ってどうすればいいのか知らなくて。……贈るの、手伝ってもらえますか」
涙声で言い切ったあゆみに、野宮は「もちろん」と答えた。
やさしくおおきな手が、後頭部にそっと置かれる。
髪を撫でられ、何度かくしゃっとされる。
あゆみの両の瞳から大粒の涙が連なって落ちた。
「……山田さんさ、前に、俺の言ったこと憶えてる?」
ふと話題を変えた野宮。あゆみが涙に濡れた頬を上げて彼を見る。
「どうしようもならなくなったら、俺を呼びなって。鳥取の駅で俺が言ったの。憶えてるかい?」
「あ、はい」
あのときのことを忘れることなんてできない。
あの日からこの男の人が、知り合いの建築デザイナーから特別な人に切り替わった。
「俺を呼ぶとどういうオプションがあるのか、今日教えてあげるよ」
やっとね。
そう言って、野宮は懐にあゆみを抱き寄せた。
男物のシャツに、頬を押し当てられる。
身体が、目に見えない何かに縛られたように動かない。あゆみは野宮のなすがままになった。
なのに、
「回し蹴りとかなしだよ」
牽制して耳元で囁くから、つい「し、しませんっ」と声を荒げてしまう。
野宮は短く笑って、「ほんと? あれもろ食らったら即死だからさ」と更に腕の中にあゆみを閉じ込めた。
あゆみは息を吸い込んだままは吐き出し方を忘れたように呼吸を止めた。胸が苦しいのは、胸が圧迫されているだけではないということだけは、かろうじて分かった。
「……一人で泣かなくていい。泣きたくなったらここで泣けばいい」
これからはずっと。
体温を通して初めて聞く野宮の声は。海の底から響いてくるように深みがあって。心を締め付けられるように切ないのに、ぜんぶつつまれ解かれていくような温もりに満ちていた。
あゆみは目をぎゅっと瞑った。何かが自分の中からあふれ出てしまわぬように。
野宮の心臓の鼓動が頬を打つ。それだけで、こんなにも泣きたくなるのはなんでだろう?
だめだよ。野宮さん。
こうされると、なんだかもっと泣きたくなる。
どうして?
答えを知っているのに、それにまだ手を伸ばしたくないような。複雑な想いがあゆみの思考を塞ぐ。
「男の胸で泣くの、初めて?」
野宮は、あゆみの肩をぽんぽんと宥めるように叩いた。
あゆみは身じろぎもしない。
野宮は口の端をほんの少し持ち上げて、「それは、光栄」と微笑を浮かべた。
観覧車の作動音と二人の呼吸の音が重なる。
あゆみの頭を顎の下に挟むようにして、野宮は彼女を包み込む。そのとき、くぐもった声が懐から聞こえた。
「……野宮さん。ゴメンナサイ」
「ん?」
異変を感じ、野宮が身を離す。
顔を覗き込むと、あゆみの顔色が変わっていた。
まっさおだ。
「な、ど、どうしたの」
「なんか気持ちわる……。限界超えた、かも」
おえっ。
あゆみが口を押さえ、えづく。さっきまで青かった顔が、真っ赤に転じている。
「うわ、大丈夫かっ」
野宮も血相を変えて、飛び退った。「は、早くトイレへ」ベランダの戸を開けて、あゆみの手を引いてユニットバスに連れて行く。
間一髪、間に合った。
おええええええ。
便座に屈み込んであゆみが派手に胃の内容物を戻すのを、野宮は遠いまなざしで眺めた。
……そうだよな。そううまくはいかないよな。
このお姫様相手には。
常套の口説きの手段なんて通用するはずがない。
ちょっと急ぎすぎた、かな。キャパオーバーだったか。
自分も膝をついてあゆみの背中をさすってやりながら、野宮は自己反省をする。
苦しそうに涙目ではあはあと息をするあゆみに、「水もってくるから口すすいで」と言って、バスルームを出た。
でも、まあ。一歩前進ではあるかな。
内心そう呟いた野宮を、窓の外から無人の観覧車が面白がるように見下ろしていた。
了
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