優しいひとだった。
母のことを迷いなく、父親がそう称したので、ジョウは若干面食らった。
しぜん、沈黙がテーブルに落ちる。
「不満か」
ややあって、ダンが息子を見た。グラスは底にウイスキーを少し湛えるだけだった。
「いや、そんなことは……」
「容姿のことを訊いているんじゃないだろう? ホログラフ映像や立体写真は見せていたし」
「ああ」
綺麗な女性だった。とわが母ながら思う。アルフィンも美しいひとだが、タイプが異なる美女。もっとたおやかな、おおらかさと、芯に秘めるような強い雰囲気が母の映像からは伝わった。
自分を出産したのち、すぐにこの世を去ったと聞いていたから、赤ん坊を抱くことも、その成長を目の当たりにすることもなく、一生を終えるなんてと、それらを見るたび切ない気持ちになっていた。
「歳が、20近くも下で、……割と周りには揶揄われた。結婚当初」
ダンは、ぼそりと付け足すように言った。
ジョウは「それも、聞いてます」と答えた。
タロスやガンビーノ、エギルから。
「だからかな、私は出会った頃、そういう対象としてユリアを見られなかった。向こうが好意を持ってくれているのはわかっていた。でも、一過性の、請け負ったケースを完遂したら、自然消滅するような淡い気持ちだと思っていたんだ」
ジョウは、続きとして「でも」という言葉が来ると思っていた。案の定、
「でも、仕事が終わっても、ユリアは私にコンタクトを取り続けて……なんとも必死で、いじらしくてな」
苦虫をかみつぶした様子で言うのは、単に照れくさいのだとジョウは認めた。息子に、妻とのなれそめを語るという状況を、全く予期していなかったわけではないだろうが、いざ実際その段になると、なんとも気恥ずかしいものなのだろう。
もし、自分が逆の立場でも、きっとそうだからだ。ジョウは少しだけからかいたくなってしまい、
「ほだされてしまった?」
と口を挟んだ。
ダンは首を横に振った。
「それは母さんに失礼だ。私が会っているうちに、好きになってしまったんだよ」
真面目な口調でそう言ったから、ジョウは面食らった。
この人がーー鬼のアラミス評議長が、好きだとか口にしたぞ、いま……。空耳かと疑いたくなったが、まぎれもない。現に、今目の前でむっつり渋面をこしらえて自分を見据えている。
「物心ついたときから根無し草で、肉親もおらず、ふらふら宇宙をさまよって星の藻屑となって私は死ぬのだとばかり思っていた。でも、地に足をつけ、家をもち、家族をつくって、土に還っていってもいいんだ。そういう生き方もあるということを教えてくれたのがユリアだったよ」
だから今私はここにこうしているんだ、とダンは結んだ。
ジョウは中身の入ったグラスを、その切子状の飾りを指先で無意識になぞっていた。父親の満ち足りた顔つき、柔和な目が、それ以上のものはないと教えてくれているようだった。
母は 自分の価値観を変えてくれた人ーー恩人、と言ってよいのかもしれなかった。
「愛してた?」
ストレートに訊くと、
「自分の命よりも」
と答えが返ってきた。至極当たり前のことのように。なんのてらいもなく。
ジョウはそこで初めて怯えに近い表情を覗かせた。表情が翳る。
「俺を、恨んでいますか」
「お前を、なぜ?」
ジョウの問いに、ダンは不思議そうに首を傾げた。
心からジョウの質問の意図が分からないようだった。
ジョウは、ためらった。一番聞きたかったことーー聞くのが怖かったこと。今夜の質問の核心が、それだったからだ。
黒い瞳が揺らいだ。
「……おふくろは、俺を産まなければ死ななかった。まだあなたの隣にいて、幸せそうに微笑んでいたかもしれない。だから後悔しているんじゃないかって。おふくろも、あなたも。あなたは、特に……」
言って、ジョウは膝の上に視線を落とした。
心臓がものすごいスピードで跳ねていた。どきんどきんと、不規則に左胸を打った。口の中で舌が膨張していくような感覚がして、それ以上言葉にならなかった。
断罪の時間が――数瞬とも数分ともつかぬ時間が過ぎて、ダンが口を開いた。
「……お前は、ガキだな」
!?
思わぬ台詞に、ジョウは弾かれたように顔を上げた。
そこには心底あきれ顔の父親がいた。
「ガキ? なんで、」
こんな状況で、言うに事欠いて、それ?と頭が混乱する。
緊張してじりじりと返事を待っていた分、力が抜けた。
「なんでもだ。ガキだ、ガキ。二十歳を過ぎても母親の姿を追い求める、マザコンだ」
言われてカッとなった。マ。マザコン?? 俺のどこがマザコンだ。これまでの会話の流れで何がどうすればそうなるんだ?
「あんまりだ。答えになってないじゃないですか。人が、真剣に聞いたのに」
一世一代の質問だった。考えに考え抜いて、ここに来てからどう切り出すかまよった挙句、今夜、このタイミングで切り出したのに。それをマザコン呼ばわりとは。
「真剣にそんなことを悩んでいたなら、時間の無駄だ。とっとと寝るか、船(ミネルバ)に帰るがいい」
ダンは言って、グラスを空にした。ぐいーっと。
そのままソファから立ち上がる。長身なため、見下ろされる形となった。
「そんな、あんまりだ」
うっかり情けない反応が出てしまった。言ってから、しまったと思った。ダンがにやっと人の悪い笑みを口の端に引っ掛けたからだ。
「なんて言って欲しかったんだ? お前は、私に。甘えたことを言っていないで、もう休め。夜も更けた」
「~~~分かりましたよ」
不貞腐れて、ジョウも立ち上がる。向かい合う格好となって、目線の間で火花が散る。
「アルフィンに寝床で慰めてもらえばいい。なかなか懐の広そうな娘さんだから」
「褒め言葉として受け取っておく」
「ユリアに似てるよ。とても」
「……ああ」
ジョウはふいッと目を逸らして、ダンに背を向けた。
「大事にしろ、ジョウ。ーーこれ以上ないってほど、大事にしてもしたりないくらい、大事にするといい。惚れた女は」
ダンは彼の背に言葉を投げた。優しさがにじんだ声で。
でも酔っているのと、父親に揶揄われたと思って頭に血が上っているジョウは、「わあってるよ」と捨て台詞を残して二階へ向かった。どすどすと、大きな足音を残して。
ダンはリビングに一人取り残された。
テーブルの上には空のふたつのグラスと、シングルモルトのボトル。
ダンは再度、ボトルを取り上げた。封を切って自分のグラスにワンフィンガー注ぐ。
そのとろりとした琥珀色の酒の、芳醇な香りに鼻腔をくすぐられながら、「ユリア、あいつが好きな人を連れてきたよ。一丁前に」
そう言ってダンはひといきにウイスキーを喉の奥に流し込んだ。
END
お母さん=ユリアさんのことを語る二人と言うのをこれまで書いたことがなかったなと思いまして。