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局部を掴み取られて悶絶死したという源頼家の祟りとは?
そうなんだ
権力闘争 怖いですね
局部を掴み取られて悶絶死したという源頼家の祟りとは?(歴史人) - Yahoo!ニュース
源頼朝の嫡男として、2代将軍となった頼家。その就任後3カ月にも満たないうちに、実権を奪われ、挙句刺客に襲われて悶絶死をしたという。それはいったい、どういうことだったのだろうか?
相続3カ月とたたず13人による合議制へ
源頼家(よりいえ)とは、言わずと知れた鎌倉幕府2代将軍(鎌倉殿)のこと。頼朝の嫡男で、母は北条政子である。頼朝が謎の死を遂げたのが建久10(1199)年1月13日、同月26日には早くも頼家が家督を相続して、2代鎌倉殿になった。
ところが、それから3カ月にも満たぬ4月12日、突如、有力御家人13人による合議制が敷かれることになってしまう。実質的に、政権の座から引き摺り下ろされてしまったようなものであった。ちろん、18歳という若輩者であったとはいえ、意気上がる頼家にとって納得できるものではなかったに違いない。
理由は「頼家が若すぎる」あるいは「暗君(あんくん)だったから」といわれることもあるが、むしろ独自路線を強行しようとするその政治姿勢に、御家人たちが反発したからとみなすべきだろう。
その後も政権に固執する頼家は、自身の乳母一族であった比企(ひき)氏を重用。その後押しを得て、何とか存在感を見せようとしたのである。比企能員(ひきよしかず)の娘・若狭局(わかさのつぼね)との間に生まれた一幡(いちまん)に家督を譲ろうともしている。それが実現すれば、比企氏は絶大な発言権を要することになるわけで、北条氏が危機感を覚えたことはいうまでもない。さらに、能員自身が頼家と計って北条氏排斥に動いたことで、時政(ときまさ)が激怒。先手を打って、比企一族ばかりか一幡まで殺害してしまったのだ。
頼家はその時病床にあってこの事実を知らなかったが、病が回復して我が子・一幡が殺されたことを知って、怒り狂ったことはいうまでもない。太刀を手に立ち上がろうとしたところを、実の母である政子に抑えられている。そればかりか、政子は実家である北条氏を守るために、我が子・頼家を見捨て、修善寺に押し込めてしまったのである。母に見捨てられた頼家の心情やいかばかりか、計り知れないものがありそうだ。
刺客に襲われて惨殺
そしてその翌年7月、ついに北条氏が送り込んだ刺客によって、頼家までもが殺されてしまうのである。僧・慈円(じえん)が著した『愚管抄(ぐかんしょう)』によれば、元久元年7月18日(『吾妻鏡』では19日)のこととして、修善寺に幽閉されていた頼家が、「首に紐を巻きつけられた上、ふぐり(陰嚢/いんのう)を取られて殺された」という。武芸の達人であった頼家に刀を振り回されることを恐れてか、おそらく入浴中を襲ったのだろう。ただ、なぜ陰嚢を取ったと記しているのかは計り知れないが、裸で暴れる男をおとなしくさせるには、それが最善の方法だったのかもしれない。
一説によれば、陰嚢ばかりか陰茎(いんけい)まで切り落とされたとまでいわれることもあるが、真偽は不明だ。ともあれ、かつて将軍の座にあった御仁が、入浴中を襲われて陰嚢を掴み取られて悶絶死(あるいは刺し殺されたか)したというのだから、何ともショッキングである。これでは、化けて出ない方が不思議だ。
実朝が頼家の亡霊に殺された?
そして当然のように、頼家が化けて出たとの風聞が飛び交うことになる。頼家の亡霊が公暁(くぎょう)に取り憑いて実朝を殺したというのだ。
そればかりか、有力御家人たちが次々と粛清されていったことまで、頼家の祟(たた)りといわれたようである。もちろん、真偽は定かではない。それでも、『吾妻鏡』を見ても、頼家の死後、将軍家の屋敷に松明(たいまつ)のような光る物体などが現れたとの奇怪な現象がいくつか記録されるなど、不穏な空気が漂っていたことは間違いない。
ちなみに、実朝(さねとも)が頼家の子・公暁の手にかかって殺されたのは、健保7(1219)年のこと。さらにその公暁もまた、義時(よしとき)の命によって殺されるという負の連鎖が起きている。結局、最後に権力を手中にしたのは義時。振り返ってみれば、いずれの騒動にも北条氏が絡んでいたことに思いが至る。その多くが、時政・義時親子が糸を引いていたように見えるのは、言い過ぎだろうか。
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