ヨルダン通信その3
ヨルダンでのボランティア活動もあと半月程度になった。今の時期はアブドゥーンの日本庭園の設計及び積算も終わり、帰国準備に追われているはずだった。ところが、そうは問屋が卸さないのがここヨルダン・・・。
《現場で作業仲間と取る昼食》
終盤に来てから、植栽樹種の変更で図面の訂正を依頼され(もっと早く言えよ・・・)、工事費の積算もヨルダン市役所側の単価提示が遅れている。灯篭や竹垣,手水鉢等、日本から輸入する資材は私の会社で調査し、その積算は終わっているのだが・・・。
しかし、ヨルダンで調達する材料、施工についてはヨルダン側の単価が必要である。1ヶ月以上も前から、工事単価を調べて欲しいとカウンターパートには依頼していたが、彼女も多忙を理由に、なかなか値段を出してくれない。覚悟はしていたものの一筋縄ではいかないものだ。
《日本大使館での打ち合わせ》
計画は順調に進んでいると考えていた私が浅はかだったのか・・・。修正図面は私自身が頑張ればいいので、なんとか間に合いそうだが、積算はヨルダン側のやる気に任せるしかなさそうだ。プレッシャーは掛け続けなければならないが・・・。まあ最低でも私のできる仕事だけは終了したいと考えている。
その他は “インシャアッラー!!神のご加護があればなんとかなるさ・・・”
《職場仲間のロシア人、アンナ(左)とラーント(右)》
《いつも愉快なサウサン(左)とリハーム(右)》
日本庭園に使う石の調査で日本大使館職員の方と、カラクという街を訪れた。ここは十字軍とイスラム側との攻防で有名な場所で、十字軍によって築かれたカラク城がある。
《カラクで使えそうな石の調査》
《カラクにて》
途中、グランドキャニオンを思わせるような峡谷を下り、アンマン近郊での雄大な景色に改めてびっくり。街の手前にあった石も日本庭園に十分使えそうなのでひとまず安心。カラクの街で昼食を摂った後、死海経由(今回は見るだけで、浸かるのはまたの機会に・・・)でアンマンに戻った。
先月に引き続き花粉症がひどいので、医者に行った方が良いとJICAの健康管理員に言われ、一緒に病院に行くことになった。ヨルダンはアラブの国々の中でも非常に医療の進んだ国と言われている。特に、ここは首都アンマン。優れた専門医がいて、サウジアラビアやシリア、エジプト等他のアラブの国々から、避暑(アンマンは標高1,000メートル程度で他のアラブ諸国と比べると涼しい)と病気や怪我などの治療を兼ねて、夏場に多くの人々が押し寄せる。
トルコに引き続き、厄介な花粉症で、またまた医者の世話になった。耳鼻科の病院だったが、レントゲンと共に生まれて初めてのCTスキャンまで撮影される。花粉症から副鼻こう炎を併発し、それにより喘息の症状が出ていると言う。日本よりも実に的確な診断であった。
CTスキャンは重病人に必要なものと思っていたが、撮影されてみると簡単で悪い箇所もはっきりフィルムに写る。ヨルダンで初体験し、これはなかなか素晴らしいものだと感心した。
観光はインディージョーンズ“最後の聖戦”の舞台である、ペトラ遺跡を訪れた。映画で見た岩の回廊(シーク)をしばらく進むと眼前にエル・ハズネが飛び込んでくる。
《ペトラで最初に現れるモナストリー》
《シーク(岩の回廊)を走る馬車》
《ラクダ使いとラクダ達》
岩の割れ目から見たペトラ、エル・ハズネの遺跡は世界遺産に値する十分な貫禄を持っていた。
《シーク(岩の回廊)からエル・ハズネの印象》
《エル・ハズネの印象》
《眼前に突然現れるエル・ハズネ全景》
《ペトラの少女》
《ペトラの老人》
《ペトラ奥にあるエド・ディル》
そして、ヨルダンで唯一の外海(死海は湖)である紅海に面している、アカバを訪れた。本業?のカメラ撮影のためには、花粉症や仕事の忙しさにも負けてはおれない・・・。
《アカバ港の海水浴場》
《海水浴に来た母子》
《アカバ港からイスラエルの都市、エイラートを望む》