美しき言尽くしてよ

日光旅行記 その4 五重塔

日光の旅行記録に戻ります。

家康の墓所から下りて、次に輪王寺へ向かおうとしましたが、門から出ようとしたら右手に五重塔が見えました。
すると、今限定期間で五重塔の中まで見学できる(周りをということ)というので、日帰りできるとはいってもいつ来られるかわからないので、せっかくですから見学することにしました。300円で、クリアファイルがもらえます。




雨が降っているので、カメラのレンズに雨粒が入ってしまってすみません。

日光東照宮五重塔は1650年、若狭国小浜藩初代藩主の酒井忠勝により創建されます。


垂木が茂るように多いので、繁垂木と呼ばれています。


酒井忠勝は愛知県三河の西尾市の生まれなのですね。親近感……

今の五重塔は火事で焼失し、子孫の酒井忠進が1818年に再建しました。

彫り物がまた素晴らしいです。彫刻は後藤正秀が担当したそうです。
高さは36メートルで日本で5位。1位は京都の教王護国寺の54・84メートルです。

垂木が二重になっています。内側を地垂木、外側を飛櫓垂木と呼ぶそうです。二重で屋根を支えている格好です。
写真でもわかると思いますが、極彩色の華麗な五重塔で、初重軒下には先ほどの後藤正秀による十二支の彫刻がありました。これは干支と方角が合致しているそうです。
ちょうど五重塔の正面には寅、卯、辰と並び、これが3代将軍の干支の順番にもなっているそうで、4代将軍家綱もちゃんと巳年生まれになりましたが、夭折してしまい、途切れました。不思議話。計画して生まれたとか?
下の写真は巳、午、未なのですが、未がなんかヤギみたいだわと思ったら、本当に当時は羊を見たことがある人が少なく、ヤギがモデルなんだそうです。





塔を貫く心柱は懸垂式で礎石には据えられず、四重から吊り下げられて浮いています。これは時を経て重みで塔身が縮んでも心柱が屋根を突き抜けてしまわないよう、江戸時代に考え出された工法です。こうした工法が可能であったのは、五重塔の心柱が構造上、塔身から独立して、先端の相輪だけを支えているためですが、一方でそのように塔身と分離した心柱は免震の機能を果たすと考えられてきており、東京スカイツリーの制振システムにも応用されたといいます。

このようなことがもらったクリアファイルに書いてありました。




心柱を見られたのですが、写真は撮れなかったと思います。(もう記憶にない)

とにかく頭も良く、センスもある人が作ったもんだわ。



境内の外から見る五重塔もとても美しかったです。

次はお腹もすいたので、お昼ごはんを食べに行きました。

続きます。






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