美しき言尽くしてよ

女工哀史 飛騨

先日、実家にいたときに、母の母、つまり私の祖母の史料を、飛騨市古川町にいる従兄弟にもらったということで見せてもらいました。
小鷹利村の史料です。ここは今の飛騨市古川町黒内というところで、昔からよく言えば何でも自分たち集落で行っており、悪く言うと閉鎖的でもあったようです。
お葬式があれば、村の者で棺も作りみんなで担いで荼毘にふしにいったようです。
なので、そこの普通の娘だった祖母がいつ生まれ、どこを卒業し、どこへ行き誰と結婚してどこに住んだということが残されているのはそういうことからかもしれません。

真ん中は、「あゝ野麦峠」のあらすじ。










私の祖母がお蚕さんの工女として働きに行ったことは聞いていて、母は祖母も「あゝ野麦峠」で有名な長野の製糸工場へ行ったと思っていたようで、私が小学生の時にその映画を母と見に行き、お婆ちゃんも山を越えて働きに行ったんだねえと思っていました。映画は松田聖子じゃなくて、大竹しのぶのほうです笑
祖母のときは、そんなつらくはなかったと聞いていて、時代が違うから?と思っていたのですが、今回全く違っていたことが判明笑
祖母の行った工場は鈴鹿の加佐登というところでした。
こちらの史料の写真を撮ることを忘れてしまったのですが、当時の加佐登へ行った子どもたちの名簿が残っていて、祖母の住んでいた小鷹利村からその年100人くらいは行ったようです。何年行って、どれだけ稼いだというのも残っています。
同級生も一緒だったようですから良かったでしょうけど、まだ10代前半の子どもには辛かったのでは。
でも、「あゝ野麦峠」との時代よりは後だったのでしょう、そんなに辛くはなかったのか、後にこちら愛知県に住んだ母のところへ来たときに、鈴鹿の加佐登に連れて行ってくれた検番さんがいる知多市に行きたいということで連れて行ったそうですから、そんなに嫌な思い出ではないようです。

こんなたった一人の普通の住民のことまで残してあるとは、その村の結託の強さを感じさせるものでした。
小鷹利村はまた特別と言っていましたが、飛騨という土地は本当に独自で何ものにも属さないという言い伝えがそこかしこから伺えます。
今日もそのことで一つ思ったのは、これ。
この間放送された「先人たちの底力 知恵泉」で出てきた鎌倉時代当時の勢力図。
飛騨と新潟だけ属していない……



郡上の石徹白といい、(年貢免除など色々曰くがある)とても興味深い場所であります。
ちなみに石徹白の歴史はこちら。



段々取り留めがつかなくなってきたのでこの辺で。
ゆっくり調べてみたいところです。






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