美しき言尽くしてよ

法隆寺へ 9・21

法隆寺のお話を書こうとしてから大分たってしまいました。
いつもこの関係の話を書こうとし始めるとやる気がなくなっちゃう……

石上神宮の禁足地開放の日に行くことを決め、その後、法隆寺へ行こうと思ったのは、以前から、鞍作止利という仏師のことを詳しく知りたくて……
といいますか、あの辺りの時代のことが気になっていまして、
まずは止利仏師の代表作を見たかったからです。
飛鳥寺へ行こうか、法隆寺に行こうか迷いましたが、
帰り道に近い法隆寺にしました。

1時間ほどで法隆寺辺りにつきましたが、
なんと閑散としているのでしょう、連休初日だというのに。
お店も修学旅行や遠足のみでもっているのかしらという感じです。
とてももったいない気がします。

聖徳太子、蘇我氏、鞍作の関係は、何回もネットや文章で読んでいても、どうもすぐ忘れてしまうようで、調べていても、新しく知ったと思うようなことでも、昔、読んだことがあったりだとか、しょうもないおつむなので、
私の備忘録としてという感じで記しておきますので、ご承知おきを。

まず、私の気になる鞍作止利とは。
鞍作止利は飛鳥時代を代表する仏師で、法隆寺金堂釈迦三 尊像をはじめとして、いわゆる止利様式と呼ばれる多くの仏像を残しています。
ネット情報からお借りして、鞍作止利を説明しますと、
「止利の名が正史に初めて見られるのは、『日本書紀』の飛鳥元興寺の造像に関する記述である。こ れによると推古天皇十三年(605)、飛鳥元興寺において丈六の金銅仏と繍仏(布に刺繍したもの)の制作を鞍作鳥が命じられ、翌年金銅仏を完成したが、像 が大きすぎて、扉を壊さないと安置できそうもなかった時、止利の工夫でうまく堂内に安置できたという。止利はこの時の功績により、推古天皇から「汝が献 (たてまつ)る所の仏本(ほとけのためし)、則ち朕が心に合(かなえ)えり」という詔勅をおくられ、さらにその功により大仁位と近江国坂田郡の水田二十町 を賜り、これをもって天皇のために金剛寺(南淵坂田尼寺)を建立したと記されている。この時、止利が天皇より賜った詔の中で、止利の父が多須奈(たずな)、祖父が司馬達等(しばたつと)であることがわかる。書紀によると司馬達等は蘇我馬子が豊浦(とゆら)寺を開く際に、馬子の求めに応じて自分の娘嶋女 を弟子二人と共にわが国最初の尼僧として出家させ、自分自身も仏舎利を献じて崇仏の心を深めたという。また多須奈は、用明天皇のために坂田寺の建立と丈六 仏の造仏を発願し、後に日本最初の僧として出家、徳斉法師と名のったと伝えられる。」

そして、「飛鳥元興寺は、崇仏を背景に絶大な勢力を持っていた蘇我馬子が建立した寺であるが、馬子の子、 入鹿は『日本書紀』に、「更の名は鞍作」「鞍作臣」と記されており、また入鹿の乳母は鞍作部の出身者と伝えられる等、鞍作部と蘇我氏は非常に密接な関係に あったと考えられている。」
とあります。ということは蘇我入鹿は鞍作の者であり、鞍作鳥本人なのか、鞍作の一族のうちの誰かなのかと考えられます。
また、私が注目しているのは、法隆寺金堂の釈迦三尊像は止利様式と呼ばれ、アルカイックスマイルと呼ばれる微笑を浮かべた唇など特徴があるのですが、それが蘇我氏宗家が中臣鎌足、中大兄皇子に乙巳の変で殺されて以降、その様式の仏像がつくられていないとのことなのです。
入鹿イコール鞍作鳥? 
百科事典にも、蘇我入鹿は「飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。うんぬん……」ともありますし、この蘇我鞍作というのが鞍作鳥と同一なのかは分かりませんが、蘇我林臣鞍作とあるのは、「林」ともあるとおり、木工に関わると思われますね。飛騨には鞍作鳥の伝説もありますし、それは後ほど。

そして、蘇我入鹿は聖徳太子のことではないかとも最近は言われています。

聖徳太子が教科書に載らなくなったのも、そのあたりがまだまだ謎だからなのでしょう。ということで、まだまだ私的にはつながるような、つながっていない話ではあるのですが。
また、それとは別に鞍作鳥は仏師ということで、実際に施工をする大工ということではなく、もしかすると今でいう現場監督的な、もっと上の立場の役割の方だったのかもしれないとも。釈迦三尊像などの光背にもその名が書かれていますが、代表者としての名前なのかもしれません。施工●●組みたいなね。

さらに、この法隆寺の屋根みたいなに使われている組物は雲肘木というものですが、これは飛騨古川に今も伝わる大工の象徴のようなもので、飛騨古川の家にはこの肘木が使われています。「飛騨古川だけ」なのです。(鞍作鳥の伝説は河合という飛騨古川の近くにあります)
そしてこの雲肘木は奈良では法隆寺とその周りの寺にしか使われておらず、やはり飛騨古川と法隆寺の建立者、聖徳太子のつながりがないとも思えません。
これは以前、私の親戚が紹介してくれた飛騨の匠館で説明をしてくださいました。
私も以前、記事にしたことがあるのですが、こちらのほうが分かりやすいかもということで、貼ってみました。
そして、先ほど書いた蘇我入鹿と聖徳太子、鞍作鳥がつながると妄想すれば、
飛騨の天生にある月ヶ瀬の月ヶ瀬伝説も何となくつながるような気がします。
<月ヶ瀬伝説>
「飛騨の伝説 昭和9年刊 小島千代蔵著 P49 より」

今日も九郎兵衛は、不愉快な顔をして斧を肩に山を登って行った。後に残った妻も一人娘の信夫をつれて畑仕事に出かけた。九郎兵衛一家は小鳥河に沿う、余部の里に住む水呑み百姓であった。
来る日も来る日も暗い中から山仕事に、田畑の耕作に精出しても、暮らしは少しもよくならない。殊に九郎兵衛を暗くしたのは一人娘の信夫のことであった。彼女は生まれつき見るに堪えないような醜い女で、もう25を過ぎたというのに、誰一人婿になろうという者もない有様であった。夕食後、娘のねた後で父母はいろり端でひそひそ話をしている。
「困ったなあ、あの娘には」
「早く婿を探さんと私共の行く末も心細くてなりません」
「そうだ。俺も毎日毎日よい婿のあるようにと神仏に祈ったり、人に頼んだりしているが何のしるしもないよ」
「全く困りました」
こんなささやきをもれ聞いた娘はどんなであったろう。夜中泣いて泣いて泣きとおしたこともあった。
こうして自分の醜さを呪っている信夫は、一年一夜の楽しい村祭りの夜、あの男も女も老人も子供も踊りくるって夜を更かす場所へ顔を出さなかった。孟蘭盆になって盆踊りがあって毎夜若い男女が心ゆくまで踊るのにここへも信夫は顔を出さない。家にいても面白くない。踊りにも行く気のしない信夫は、家をさまよい出て小鳥川に架かっている名ばかりの橋の上まで来て、青淵に砕けて流れる満月の影を見下して、わが身の不幸をかこっていた。
その中に、急にのどが渇いてきたので橋詰から川へ降りて水を掬おうとすると、美しい満月が目の前の水にうつっている。信夫はその月を掬うと皎々たる月影が手に入った。
信夫は美しい月影と水を共に飲み干してしまった。このことがあってからこの村の川の面に満月の影が写らなくなったという。
ところが、不思議にも醜女信夫の腹はだんだんふくらんできた。九郎兵衛夫婦は娘が名も知れぬ人の子をはらんだのを恥しく思い、遂に我が家から追い出した。
信夫は山に隠れて安らかに男の子を産んだ。この子は成人して都に出て立派な工匠となったという。
月の子を産んだ村だから天生といい、川瀬の月を掬って飲んだ所を月ヶ瀬ということになった。
一説にこの立派な飛騨の工は、鞍作鳥(鳥仏師)だともいわれている。」


これも、なんかキリスト生誕の話みたいですよね。知らんまに身ごもったとか。
聖徳太子の馬屋で生まれたというのも、キリストの生誕からの脚色だと言われますけれどもこれもつながっているような。

という妄想はこの辺にして、呆れてしまった方も、
撮ってきた写真を見てください。
飛騨の匠の技が見られてとても有意義でした。
(入場料いや拝観料が意外に高くて、えっと思いましたが、拝観したら満足できました(笑))

南大門です



ほんと人が少ない。


中門です。



この柱がエンタシスと言われ、ギリシャ建築に似ていると言われているのですね。






五重塔


講堂


右が五重塔、左が金堂
金堂の中に目的の釈迦三尊像があります。
中は写真が撮れませんので、アルカイックスマイルをじーっと見てきました。
(金網があるので、見づらくて残念でした)


雲が低いです。


そして、これが見たかった肘木。
下から、雲肘木、力肘木、尾垂木。
一番下の支えが雲の形になっています。

龍が巻き付いていて格好いいです。




法隆寺の七不思議の1つ。
五重塔の相輪に4つの鎌が付けられているという、それを見たかったのですが、
写真に何となく撮ることができました。カラス?が止まっていますね(笑)


倒れそうな土壁





その後、講堂、夢殿、大宝蔵院などゆっくり見てきましたが、
もういっぱいいっぱいなので
今回はおしまいです……
取り留めのない記事になり大変申し訳ないです。
また訪ねて、いろいろ観察したいです。

コメント一覧

minamarisatoko13
ulalaさん
いつもいろいろ教えていただきありがとうございます♪ 蘇我氏は百済とかそっちからきたとか言われていますが、日本人だと思います。というか、ほんとにずーっとはるか昔にそれこそイランとか中央アジアとかから来てたのかもしれませんね。そこで日本でもう豪族になっていたのかなというふうに考えてます。
ソグディアナのお話、すごーい興味深いです。大月氏とか、月子族? 大月といえば、富士山の近くに同じ地名ありますね。いつも気になっていましたー。ありがとうございます😊
うーちゃんulala
確認しましたので、以下コピペで報告します。

ソグディアナの国は、サマルカンドは「康国」、タシケントは「石国」
ブハラは「安国」、ケッシュは「史国」と表記されています。
中国の人名では、これらの漢字の国名を姓とする場合、ソグド系を表します。
うーちゃんulala
実に興味深い考察ありがとうございます。
過去何度か法隆寺行ってますが、ぼーっと拝観してことが悔やまれます。
蘇我氏って隠された秘密ありそうですね。
飛鳥時代はイラン人もいたらしいし、中央アジアからも来てたことでしょう。
中国で隋唐時代に、安とつく名はサマルカンド、石はタシケント、ブハラは康だったかな、うろ覚えで間違ってるかも。
鞍作なんてまさに馬がいるとこから来てそう。
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