で、いよいよ彼らの文学的な力量なんですが、はっきり言いますが、清少納言は天才です
紫式部は努力型の人間です
これは実は意外かもしれません
海外では紫式部の評判は高く、彼女を天才と言っています
でもそれでも天才のほうは清少納言なんですよ
ある漫画家が言っていたのですが、「私は絵がうまくないからストーリーで勝負する」と
一応大御所になった漫画家なんですが、漫画に「絵」と「ストーリー」が必要だとすれば清少納言は明らかに絵がうますぎる人です
ピカソ並みにね(ちなみにピカソのデッサンを見れば彼がどれだけ絵がうまいかわかる)
でも紫式部はそれほど絵がうまくない
つまりこの場合の「絵」とは文学そのもの
言葉の使い方、選び方、自分独自の言葉を造るという天才の作業が清少納言は優れているという事です
「春はあけぼの」なんて彼女以外作れない言葉ですよ
この言葉は今でも受け継がれていて
例えば(花は桜)な(男は~)とか
それは強いを表しているかもしれないし、綺麗かもしれないし、華やかなのかもしれない
花が椿なら(~は~)という風に椿の特性を言葉にするのではなく、感性で表す
コマーシャルでありましたよね
山は富士なら酒は白雪って
富士は一番高いと言いたいのか、一番きれいだと言いたいのか、何を表しているのかがそこに想像の域になってくる
紫式部が書いたのは物語、つまり小説です
そこには色んな恋愛ドラマも親子のドラマも仏教の教えも様々に書かれていて、その含蓄の深さや哲学、思想などに、その才がみられるわけです
明治になって日本の政府は「源氏物語」を翻訳し、その素晴らしさを海外に広めました
(余談ですが、そうは見えないかもしれないけど、海外で源氏物語に触発された小説家はたくさんいます)
これは当たり前の事で、もし枕草子を翻訳しても海外から馬鹿にされていたでしょう
何故なら内容がバカバカしいからです
大したことを書いていないし、ろくでもない
ただの女の愚痴だったりします
じゃあいったいどこに価値があるのかというと、その日本語の使い方に天才的な才があるわけで、それを英語とかフランス語にしてしまったら、その文章の良さみたいなものは壊滅してしまうんです
例えれば、一日経った大福みたいなもので、出来立て食べたらおいしいけど、日が経つと食べれたものではない
つまり彼女の才というものは日本語を知っている人間にしかその凄さは分からないのですよ